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sinetsu365さんのサクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-の長文感想

ユーザー
sinetsu365
ゲーム
サクラノ刻 -櫻の森の下を歩む-
ブランド
得点
100
参照数
535

一言コメント

サクラノ詩と合わせてノベルゲーが好きな人は必読。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

前作が好きだったのもあって冒頭から最後まで集中して楽しめた。物語の盛り上がり自体は4章~6章で最高潮に達するが単に盛り上がりが楽しいという作品ではなく、文章を追うこと自体が純粋に快感であった。例を挙げると静流の青春と中村麗華との友情その顛末を描いた一章から非常に読みごたえがあり、この章では陶芸の技術的・美術的な描写を基調とした短編小説を読んでいるような読後感を得た。

エロゲ/ギャルゲという分野の作品は時に過剰なまでに恋愛をクローズアップする傾向を持つが、一章ではそういった要素はほとんど見られない。友情を一種の言い訳にして作陶に邁進していく静流の芸術家としての成長と、それと対比されるように破綻していく中村麗華との関係は読んでいて心揺さぶられるものがあった。特に印象に残ったのは中村麗華が雪景鵲図花瓶をこれは本物だと認めたシーンで、贋作であることを知る静流は罪悪感から花瓶を麗華に譲ることを拒む。この時点では麗華は贋作であることに気づかず騙されていたようにも読めるが、そこに至る麗華の描写から贋作としてではなく本物の芸術家となった静流が作り上げた優れた作品として感銘を受けたのではないかとの疑惑が読者の心に否応なく生じる。麗華がそのことをはっきりと口に出せなかったのは静流が自分を騙そうとしているという事実が明らかとなるのを恐れたからであろうか。ことの真相は5章で明らかとなるが、一章から丁寧に麗華と静流の関係を描くことで麗華という人物の印象が終盤で一気に良くなる構成となっている。ミステリー小説では犯人や殺人手段を謎として配置してそれが解ける時にカタルシスをもたらすことが多いが、サクラノ詩・刻には静流と麗華に象徴されるような心情関係の謎を解き明かす、謂わばホワイダニットのような要素が全編に散りばめられている。その最たるものが本編の裏ヒロインとでも言うべき長山香奈に纏わる一連の仕掛けであろう。長山香奈関連の描写に関しては私が本編で最も感情移入し感銘を受けたものであるが、ここでは割愛する。

この感想では作品の持つ不完全性が逆説的に作品の価値を高めるということについて論証を試みる。私がサクラノ刻という作品を批判するのであれば、最も本質的な不満点として天才側から見た物語となっている点を挙げる。何故ならこの作品を読み進めれば読み進めるほど、直哉、稟、圭といった天才よりも香奈、麗華、寧、恩田放哉といった凡人がどのように超克し問題に立ち向かっていくのか、その物語を知りたくなるためである。特に寧と放哉は本史となるルートでは天才に信念を破壊され、まるで負け犬のようにフェードアウトしていく。しかし、最終盤で彼らは圧倒的に上の力関係にある天才達の施しを受けずに自分の力で立ち上がって前へ進もうともがいている様が示唆されている。寧は心鈴編では天才に師事することでその才能を開花させるというある種安易な展開もあったが、本史ではそのような助けに依拠せずに戦い続けていることが明かされる。天才との才能の差に苦しんだ者が、他ならぬ天才の世話になって幸せになるというのはよく考えるとグロテスクな現象である。そのような安易な救いを与えない展開を選んだことから、著者は才無き者が一体どのようにして自らを救うのかについては想いがあるように感じる。本作品では天才たる直哉と圭とが紡ぐ物語が素晴らしければ素晴らしいほど、上で述べたように一層凡人サイドの物語を希求してしまうような構造が成立してしまっている。つまり、サクラノ刻は天才の素晴らしい生き様を描いてしまったが故に、逆に凡人サイドの物語を主軸としたほうが優れた作品となったのではないかという疑惑から逃れることができない。しかし、この凡人サイドストーリーへの興味が何故産まれてしまったのかというと、それはとりもなおさずサクラノ刻の示す物語が優れていたからである。そのため上で論じたような凡人の物語がもっと見たいという作品への不満、言い換えると新たな物語への探求心や創作意欲は本作品によって新たにもたらされたものだと言えよう。すなわち、サクラノ刻は読者を次なる物語へと駆り立てるという意味で極めて扇動的で創作的な魅力を持つ優れた作品だと結論される。

一言で要点をまとめると、香奈、麗華、寧、放哉(重要)のエピソードを入れたサクラノ響オナシャス。