幸せを自ら定義した彼らはプラグマティズム的な真理に辿り着いた。そんな彼らの終末生活はエピクロスの快楽主義者のようで美しい。
論点/√別に思考。時間がないので仮説検証は保留。
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まず立ち絵がいい
なぜ背景を含むCGがあんなに美しいのか?
この作品のCGは綺麗でなくてはならない。なぜなら、命よりも幸せな日常を選んだ彼らの選択を強調するためには、日常を色鮮やかに描写する必要があるから。終末だろうと日常はいつだって美しい。
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閉ざされた社会で、人も少なく、何もない島が舞台である理由
・社会という巨大な生物ではなく一人ひとりの人間の意思決定プロセスに着目させたいから
・彼らの選んだ「日常」を分かりやすく定義するため
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この作品の主張は何か?
自らが規定した日常=幸せを追求せよ、ということ。
『人間は考える葦である。大切な事は全て私たちの想いの中にある。私たちを立ち上がらせる物は其処からやってくるのであって、満たすすべのない場所や時によってあるものではない。故に想う事を忘れずに。そこにこそ、あるべき姿がある』パスカル
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この作品から得た示唆や学びはあるか?
結論、あまりない。
理由は2つ。僕にとっての日常=幸せが既に明確に定義されていることと、積極的虚無主義者であること。
僕は2年前に自殺未遂をしており、その時から人生に対する強すぎる諦観を感じつつ、今やりたいことを楽しくやろう!という精神で生きています。そう、これって各√終盤の主人公たちそのものですよね。
だから、この作品を読んでいて、僕は過去の自分を追体験しているような気持ちになりました。ただ、それだけでした。
逆にこの作品で感動できる人は、以下のパターンではないだろうか。
・絶望から立ち上がった経験がなく、その状況下での人間の感情の変化に関心がある人
・今ある日常が楽しい人(主人公たちに自己投影できるので
・自身の幸せが明確に定義できていない人(自分探しをするきっかけになりそうな
逆に、現実での自分の日常に不満を感じているような人は、楽しめない可能性がありそうだ。(友人であるR氏の感想を読みながら)
しいて言えば、TRUEで発掘された思い出の写真は最高でしたね。
本来、どうせ死ぬなら今を楽しもうぜ!という虚無主義は究極のノーフューチャーの精神です(キラ☆キラ)。
なのに、そうした生き方が未来に希望を与えたのです。
僕もこういう人間になりたい。どうしようもない人間だけれど、今を全力で生きている僕を見て、誰かが笑顔になったり少しだけ前を向けるような生涯を送りたい。そのために、具体的なアクションとして、僕は墓石に彫ってもらう用の1枚絵を制作しています。100年後にでも、僕の墓を見つけた誰かが僕の人生のほんの一部分だけでも知ってくれて、希望をもってくれたらと思う。
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主人公やヒロインが日常=人生で求めた幸せとは...(と言っておいて各√の感想です
結論、TRUE以外は抽象化すると全て同じです。消極的虚無主義→積極的虚無主義(厳密には違うが、まぁ近い)。違いは、誰とどんな日常=幸せを選んだか、という点のみ。
青葉:
はじめは終末の事実を認めないが、だんだん自覚してくる。自殺しようかな、、、は好きなセリフ。人間らしい感情の機微なので。鈍感すぎる主人公を振り向かせるために、忌み嫌う実母と同じ"女"になることを選んだ青葉は本当に強いし、そんな辛い選択をするまで彼女を追いこんだ主人公のことが僕は大嫌いだ。さらに、男友達としての青葉=本当の青葉と勝手に定義をし、本当の青葉を失ったのだと消極的虚無主義に傾倒し、またも青葉を追い詰める。クソ。死ね。しかも、変わってしまった青葉を見て、自分は(自分が本物だと思い込んでいる)青葉が好きだったのだと自覚し落胆するが、本当に青葉が好きなら変わってしまった青葉も受け入れてあげるべきだし、その理由を尋ねたり熟考してもいいだろう。男としての青葉すら本当の青葉ではないというのは流石に気づくのは難しいと思うが、せめて青葉の恋心くらいは気づいてあげるべきだったろうに。
夕陽:
互いに必要としている、という関係が彼らの日常であるということ。
朝陽:
自分をかばって死んだ母や、夕陽の想いなど、外部によって自分の生き方を規定してきた姉が自分自身の幸せと向き合うということ。
御波:
病弱がゆえに当たり前の日常を求めている。いつ死ぬか分からない世界の危機は日常。みんなが辛い時、真っ先に励ますのは御波。初めてのセックスで主人公が、破瓜の痛みに耐える御波に興奮すると言っていたが、解像度が高い。「大切にしなければならない」という思い込み、それは本当に御波が必要としているでしょうか。
主人公が生み出した「普通」の世界で、何かを失う恐怖を知ったということで彼に依存してしまうのが好き。終盤では、「我思う故に我在り」の精神で生きる理由を自己に規定している。(星が好きな理由は、以前は平等だから、今はただ好きだから。この違い。)読み手の僕はこのステージに既に到達しているので感動はしなかった。
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両親は子供が大人になれずに死んでしまうのが悲しいという感情を持っていた。大人になるって幸せなことなの?
大人になることが幸せではない。大人というのは年齢区分であって、どんな人生を送るかは関係ないので。
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幸せってなに?
本作では「日常」というワードとなっている。
僕からすれば、日常でなくともいいと思っている。正解は無いし、間違った答えもない。
ちなみに、僕にとっての幸せは知識の獲得と経験です。
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寿命が来て死ぬのと世界が崩壊して死ぬのって何が違うの?
これは考えた。
表面的な違いは、自分の死後に世界or日常が持続するかどうか。
今作では、違いはないという結論に思える。世界は何も変わっていなかった、と随所に書かれていることからも分かる。
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自殺はいけないこと?
全くいけない事ではないと思う。
残された誰かは悲しむが、その事実が当人にとっての幸せに含まれないのなら死んでいいと思う。幸せに生きて死ぬことが人生なので。
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命の選別はいけないこと?(シェルターで5万人だけ避難できる話から)
全くいけないことではない。
生物の本能として種の存続がある。したがって、有限の個体のみ生存できる場合は優秀な種のみ選別すべきなのは当然だろう。
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日常を失ってでも生き残るべきか(主人公がシェルターに選別された話から)
人による。
幸せの定義が不明瞭なら生きて自分の幸せを探せばいい。
もし、日常を失うことで生きる理由を失うのであれば、死んだ方が良い。
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ノーマルEDと個別EDの違いは何か?
抽象化すると違いはない。日常を誰と何をして過ごすことを主人公が選択したのか、という違いのみ。
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