【全√クリア】【一部文章修正】視点をどこにおくのか、それによって話の見方が180度変わるかもしれない。”
この作品はとても評価しづらい、そして評価はきっと面白いくらいに分かれるだろうと思う。
流石ニトロというか、なんというか。
まず、この作品に対して面白くない、もしくはそれに準ずる評価の方。
一慨に言えない部分もあるがきっとその理由の一つの中に「登場人物が不快」と言うのが上げられると思う。
それも一人二人じゃなく、かなりの数の登場人物に対してそのような気持ちを持つのではないだろうか。
例えば・・・
・フウリの度を越した余計なお節介。
・「これは事件!?」と連呼する自称名探偵。
・自分で何も行動しないで何事に対しても他人のせいにする似鳥の性格。
・沙紅羅の他人の所有物を平気で自分の目的のために人に譲渡してしまう身勝手さ。
・神としての責任を放棄して、街に遊びに行こうと逃げ出す、無責任なミヅハ。
・自分の思い通りにならないと、すぐにカッターで斬りつけようとするノーコ。
・他人の都合を無視し、ひたすら自分の目的のために人を拘束しようとする鈴の身勝手さ。
等々。
ぱっと、思いついたのを列挙するだけでこんなにいっぱい出てきます。
そりゃあ、不快にもなりますよね。
だけど、実はこの不快部分こそが本作のキモで、下倉バイオ氏が表現したかった物なんじゃないだろうか?
と私は感じました。
本作では、各キャラクターが自分の都合のみを優先し、動きまわります。
それが余りに自分勝手に見えるため、不快な表現に見えてしまうだけじゃないのか。
※唯一、ひきずり回される側の千秋については不快に思う表現は無かったような気がします。
人間の醜い部分、人間の欲望の部分、そして自己満足・・・そういったリアルな生々しい感情が我々の
住んで生きているこの現実世界で、当たり前ですが、余りゲームでは見かけません。
ゲームでは出てくる登場人物って基本的に”いい子”ばかりなんですよね。
※陵辱ゲーとか悪役側は勿論別ですが。
他のゲームでも「不快」なキャラはそれなりに存在します。
けど、それはあくまでも”ゲームとしての”演出上としての不快描写でその描写を割愛してしまっても
他のゲームは恐らく成り立つような気がします。
※成り立たないゲームが思いつかないだけかもしれませんが。
しかし、この作品『アザナエル』は違う。
この不快感を省いてしまったら、キャラがキャラとして成立せず、ゲームとしても成立してくれないのです。
それを下倉バイオ氏は描きたかったんじゃないか、そんな気がします。
閑話休題。
ここより本編についても少し。
「Dead or Live」という極限の題材、ロシアンルーレット。
本作では「カゴメアソビ」と呼ばれる文字通り”命”を賭けた究極のゲーム。
プレイヤー(カゴメアソビの)がカゴメアソビに勝てば、心の奥底にある本当の願いを何でも叶えてくれる。
負ければ、命を落とす。
この設定自体は個人的には良し、と思います。
最初は勝てる確率がえらい良くないか?と思ってもいました。
しかし、考えているうちにこんな結論に辿りつきました。
本編でもそういった下りはありましたが、成功した人は何度もカゴメアソビに挑戦してしまうのを
折り込んで設定されたのでしょう。
何度も挑戦した人はきっと成功することに麻痺していき、あと一回ならいいんじゃないか?と繰り返し
最後にはきっと自分の命を代価に払う。
人間が持っている欲望は果てしない、こんな皮肉がこの設定に込められて居るんじゃないかと。
そうやって考えると、却って成功率が高い事は最初から仕組まれた物で、成功率高くても別にいいよね?
という結論に達したのです。
ただ反面、残念に思ったのは、そのおかげで”死”が軽く描かれすぎなんじゃないかと言うことです。
死んでも生き返れるじゃん?みたいな。
これはあくまで一例で、他の場面でも同様に感じるシーンはあるんですが某√で恵那がカゴメアソビに
失敗します。
その直後に平次が現場になだれ込んできて、その失敗の結果を目の辺りにします。
まあ、有り体に言えば「恵那の死体」を見てしまうんですよね。
その後の平次の反応が余りにも冷静で自分の娘の死体を見て、する反応では無い、と私は思いました。
私ならきっと泣き叫びます、双六に対して怒り狂います。
発狂してもおかしくないほど、きっと取り乱すでしょう。
だって、大事な大事な娘なんです。
人生の過程で何かしらのすれ違いはあったかもしれない。
けれど長い間、一緒に暮らしてきた愛する娘なんです、胸が張り裂けそうに強い感情が出ない訳がない。
そう思うんです。
そして、その場にもう一人いた人物、沙紅羅。
彼女のその場での反応もちょっと私には理解が出来ない。
双六の言い分はどうであれ、恵那が死ぬ事になった大きな要因に双六の介入があったのは間違いありません。
実際に、平次と沙紅羅の前で自分がお膳立てをしたが決断したのは恵那だ、と認めていますし。
恵那が死んでしまった要因が双六にあるとわかったうえで、双六に傾倒するような発言を繰り返します。
彼女の性格的にそれはあり得ないんじゃないでしょうか?
確かに
・双六に一目惚れ。
・恵那とは知り合って1時間程度の仲。
という恵那に肩入れをするような心理状況じゃないかもしれない。
けど、沙紅羅というヒロインが(他の√も含めて)我々プレイヤーに見せてきた生き様、考え方から
想像するに、あの場での言動は違和感しか無い気がするんです。
きっと叫びはしないでしょう。
怒りもしないでしょう。
けど、全力で困惑し、双六に対して違和感を覚えるようになるんじゃないでしょうか。
そういった二人の態度等を見て、命を軽く描きすぎてると私は考えるようになりました。
”人が死ぬ”その結果がもたらす物、感情、等々。
前述しましたが、人の欲望や醜い部分をテーマに描いている本作ですから、もう少ししっかりと死を
描ききって欲しかった。そう思います。
※私が勝手に「人の欲望や醜い部分をテーマに描いている」と思っているだけですのでそこは流して
読んで頂ければと思います。
話は少し逸れますが、漫画ドラゴンボールでも同様に後半では命が軽く扱われていましたよね。
簡単に”生き返えれる”から。
アザナエルでもそうですが、生き返れる為のジョーカーが存在する話にとって「命の重さ」の扱いと
いうのは永遠のテーマなのかもしれませんね。
■システムについて
本作はニトロらしく、、、というのか非常に独特です。
まず、ゲーム中の選択肢、一つもありません。
カゴメアソビの結果だけが分岐の条件です。
「選択する」という行為が無いので物語に没頭出来る仕組みと言えば仕組みなんでしょう。
なお、セーブは自動で行われ、自分ですることは出来ません。
また、本作のウリなのでしょうか?
『裏時刻表』システム?6人のキャラクター毎に年越しまでのタイムテーブルが用意されていて
時系列で1つの物語を体験していく形。
皆さんも随分言われておりますが、物語のテンポを著しく損ねる仕組みで賛否両論はおこるでしょうね。
個人的には有りですが、違う視点で見る事で物語への没入感が違ってきますから。
そして、私はTRUEを最後に見たので、そのせいかもしれませんが、俗に言うEXTRAモードもTRUEクリア後
まで解放されませんでした。
個人的にはこのスタイルはとまどいの方が大きくて、ちょっとうっとおしく感じました。
■総 括
個人的には有りな作品ではありますが、前作『スマガ』と比べると余韻は私の中では本作の負けです。
まあ、扱っているテーマが違いすぎるので、単純に比較出来ないですけどね。
私のようにスマガの評価からこの作品に手を出した人は多いんじゃないかと思います。
※もしくはこれから手を出そうとしている方。
スマガとは全く向かっている方向が違う作品です。
スマガが良かったから・・・という理由で検討している方は皆さんの評価がある程度、出てから
それを見て検討するのがいいでしょう。アクチ有りですしね。