それは、他者評価に縛られる人々の頭上に舞い散る桜のように。
本編と「Ⅳ」でヒロインと、状況と、終盤に必要なパーツを散りばめて、「Ⅴ」で考えや重要な事を書いて、
「Ⅵ」で物語の結末へ向けての展開をするという構造になっていたと思います。
「Ⅳ」までの印象は、実際に長いと言うよりも、クドいから長く感じるという印象でした。
「性におおらかな女の子のセクハラ会話に不得手な純情少年のドタバタ」を
全体の何割か延々繰り返し続けられちゃうと、味のないガムを食べてるような気持ちになってきます。
また、衒学的な話とか、過去の匂いだけ感じさせる話とか随所に入れてくるので読み飛ばしにくかったです。
昔はドタバタが多い、という印象はなかったので、今回は何か意図があったんでしょうか。
それともサービスのつもりが喜ばれなかったパターンなんでしょうか。計りかねます。
では、とりあえず読み応えのあった「Ⅴ」の話です。
この作品において、明確にステージの違う飛び抜けた天才として描かれているのは凛だけでしたね。
直哉、桂は凡人の一番上辺り。弱い神様(自分だけが「スゲー!」と思えればOK主義)への信奉を背負っています。
長山はその下。弱い神様より更に一段弱い神様を信じてたから直哉の作品に上を知らされるという立場。
そして長山曰く「それ以外の人に分かるのは、他の大多数が喜んでいるかどうかだけ」。
健一郎は「奥さんの死による空虚と日本の空虚を自覚して海外に持ち込んだ」という裏ワザを使っています。
強い神様、美には真理が存在するという主義を持ってるのは凛だけです。
そして、語り得ないものに関しては沈黙しなければならない。
強固な尺度を要求するアートで、正当な手段で認められ、
かつ飛び抜けた天才という設定である凛の作品には説得力を持った絵を見せる必要がある。
それに失敗すれば、これで世界に認められるのは変だ、という違和感の入る余地が出来てしまう。
描けないから描かれない。凛の作品は習作ですらゲーム内でまともに表示されていません。
桂と直哉は自分だけが信じていればいい神様なので、授賞式で絵が画面に出てきました。
しかし、凛の作品は背景で端っこがちらっと描かれてるだけ。
吹もそうでしたね。直哉が手を加えた点描の部分しか画面には映らなかった。
読み手は誰も彼女の絵に印象を持つことが出来ない。
超人たちの中にさらにある対比としてこれは非常に効果的だったと思います。
「Ⅴ」において、長山とフリードマンの役割の半分以上は僕らへのガイド役でした。
西洋は「人間は進歩によって全知全能に近づき、即ち全知全能である神を理解する。
それこそ人間が目指すべきものである」という宗教的思想を共通基盤にしています。
なので好きなもので停滞してはいけないという考えが特にインテリの間にはあります。進歩が大事と言うような。
もともと哲学も音楽も絵画も「神学」という一つの学問でした。何でも知って、神に近づくための学問。
故にアートは「自分だけが凄いと思っているものではなく人類の最新の現在地である、という根拠」を必ず必要とされます。
人間の知ってることの限界という敷地を一歩広げるということが偉いわけです。
凛はこちら側に属します。数学などと同様、人が居なくても存在する。真理という名の強い神です。
対して日本は八百万の神で、人それぞれに信じる物が違って、
自分の凄いと思った、好きなものが一番素晴らしいという思想が基本です。
「一人ひとりがそれぞれに信じる」凄い物に走り、
それが結果として豊かな(つまりは多様な、何かを絶対としない)大衆文化になった。
神に近づく事が是である世界観から見れば、神に向かって団結していないので真理に近づきにくい。
それがフリードマンの言う「日本は不毛、虚無、しかしこの国は空虚さえあれば良い」ということです。
直哉はこちら側に属します。人の思いそのものであり、人が消えたら消えてしまう弱い神です。
長山は凡人と天才の話を延々し続けます。凡人に関する話の比重を多めに。
それらを統合して、最後に天才である凛と話をして「Ⅴ」は終わっていきます。
「Ⅵ」に入って、さてそれらが分かった状態で、どう生きるか。
答えとして「僕は凡人でいい」を今までのカオスの中から獲得して突っ走るようなお話でした。
スタート直後に「頭のいい批評家さんたちが言っていたから父の作品は凄いのだろう。僕はわかりたくもない」
みたいなこと言っていて、迷った挙句に初期衝動と同じところに数年越しでたどり着く、童話の青い鳥みたいだな~と思いました。
要所要所にある作品製作のモチベーションも中村家や長山への抵抗でしたし、
作中、ウケなくていいとは全く言っていませんでしたが、正しいとか、偉い人からの覚えが良いとか、
特に壁画なんて他者からどう思われるかを気にする神経に対してアンチでしたよね。作者名を入れることにも無頓着。
作品商売の継続は名前のブランディングそのものであるにも関わらずです。
「幸福に生きよ」という哲学家ヴィトゲンシュタインの引用であるキャッチコピーは、
この作品では、評価を気にする不幸な世の中へのアンチテーゼという意図で使われたのではないかと思います。
作者さんは、自分自身のことを、努力してきた凡人だがそれで良いのだ、と認識しているのではないでしょうか。
一番印象的だったセリフは長山の言った「描きたいものが現れた時に、天才はそれを形にする」
「ですが凡人は自分が凡人であることを隠すために一生懸命」「失敗しないように、しくじらないように頑張る」です。
衒学的な引用を積み重ねて、それをアピールとは言わないまでも隠さずに盛り込む姿勢と結構重なる言葉だと思います。
自分の多読が伝わるような書き方をする事に、それを当然とする天才だったら価値を見出すかどうかという話になるんですが、
努力は裏切らないという自負、天才に届くこともある、成果も上げてきたという自信も混ざった言葉に感じます。
自分は天才じゃないかもしれないけどこれだけやってきたんだと。だから僕は凡人でいい。僕の評価は僕がする。
そういう書き手のスジに沿った物語だと思いました。