この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ。サントラ買ったんでもう一度プレイし直したら文章よりも雰囲気で捉えるようになり、暗くて綺麗で距離のある、最近の作品の中では、最も美的に好みの作品へと順位を上げた。現在、個人的最高ヒロインタイトルホルダー。
一言感想はダンテの神曲の地獄の門に描かれていた言葉。
タイトル画面で音楽聞いてたら、背景で文字が浮かんでいた。
その文字がダンテの神曲の各部のタイトルや精神疾患だったので
これはなぞらえてくるなと感じた。
きっとヒロインは神曲におけるベアトリーチェになるな、と。
実際はあまり絡まなかった。
神曲では、ダンテとベアトリーチェは出会い、別れ、再会し、そして彼女が若くして亡くなった時、
彼の中で永遠の淑女という象徴的なモノになる。淑女の象徴が重要なのかな、と思ったらそうでもない。
この作品は神曲の他に京極夏彦もオマージュした。
そのためヒロイン像は京極キャラである。
神曲は序盤の事件のためだけの存在だった。
メインは中盤以降の京極夏彦である。ヒロインが冬子でなければならないのはここからだ。
そしてこの両方を6年前の事件と冬子の紐解きという糸によって何とかつなぎ合わせた。
これがこの物語の構造である。
鳥の絵を見るエンドは、彼女の内面を紐解いてる。
彼と過ごして自由を感じて、殻を破るように彼に抱かれて、希望にあふれた雰囲気で鳥を描いた。
彼と居る間は「誰かの理想の中の彼女」ではなく、彼女そのもので居られた。
弱さは支え合えるが憧れを持たれた片割れの彼女と違い、同じ弱い上で理解してくれた。
だが、彼女は彼と一緒にいることが出来なかった。
寂しい二人は、曖昧な愛に溺れてしまうから。
って、そう言われても正直この論法がろくに理解できないのだけれども、
恐らくあの絵は、あなたと居る間私は自由でした。というような内容。殻を破った鳥は自分自身。
そして冬子が生き残るエンドでは彼女の環境を紐解いている。
最後の列車の少年が卵を譲られるシーンはシェオルの殻の後編。
中編で「自分の顔に偏執した女」「母の不在」のシーンがあって、後編の最後を「母を見つけた」で締める。
新しく来た父の恋人に母を感じて、その母が殻の少女になって、
彼はあの作品に魅入られた。父に向かって叫ぶ。母さんは何処だと。殻の少女は彼にとって母である。
そしてある日電車の中で母そっくりの冬子を見つける。
だが、彼は少年時代孤児院でともに過ごした少女であることに気づいて母代理の入手をあきらめる。
ここまでがシェオルの殻の中編にある。
そこにトラック事故が起きて冬子がああいう状態になる。寧々たちが攫う。
病院と彼の事務所は同じ中野にあるので彼は寧々に出くわす。少女は殻の少女そのものになっていた。
彼は寧々を殺し、母を手に入れる。生きている母がその手に転がり込んでくるのだ。
殻の少女(母)に魅入られた自分。最後にそれを運良く手に入れた。
そこでシェオルの殻は終わる。
六識がセレスを失ったことから壊れて妹のクローンを作り、
間宮爺は妻を失ったことから壊れて六識妹を殻の少女にし、
間宮青年は母を失ったことから壊れて六識妹クローンを母にした。
そういう連鎖であるこの物語にはびっくりするほど希望がない。
そもそも絵が「退廃的な物大好き!!」と饒舌に語っている。
女の子をばんばんぬっころす、と言う基本路線もある。
この作品は、京極ワールドを描きたいと思った時点で
冬子に五体満足なハッピーエンドはないのだ。ミステリは暴露がオチ。
この「トゥルーエンド」は、真のエンドではなく、真実を知る終わり。
でもそこにさえ注意すればとてもいい作品だと思う。杉菜さんが描きたい物を楽しむ。
終わったあとは考察するよりも切ない気持ちをそのままに余韻を楽しむのが良い。
イノセントグレイのキモは、美学に沿った絵とキャラにあるのだ。
世界観の統一は講談社ミステリでお馴染み。
全部で一つの作品というか、このメーカーは作り出す世界全体が作品になると思う。
そして杉菜さんの価値観や好みに合致した、絵とその世界の雰囲気が同じ価値観で繋がっている、
その魅力を発揮するためにミステリ感を採用。
文章は、雰囲気に花を添えるような形で構成されてる。
だからこそ文章を重視しがちな多くのエロゲープレイヤーには反発を受けてるのかな、と思う。