主人公の弱さを簡潔に描いてくれている
プレイ中に思ったことをつらつらと、場当たり的で的外れなことばかりかも知れませんが。
幻想に己の全てを預けてしまえるというのは、いっそ清清しくうらやましくもある。
そしてそれを成し遂げてしまった彼にある種の畏敬の念を抱かずにおれない。
でも多くの人がそれをしないのは、夏月が言うように、何が現実で何が幻想か分からずまたそれを意志的に選択できないからではなく、ただ単純に、彼ほどに弱い人はそんなにいないからでしょう。
そうだとすれば、彼が何が現実で何が幻想かについて知ろうとし、それを意志的に選択しようとしたのは、彼が知的意志的に優れるからでなく、彼にはもうそれ以外には持ち物がないということではないでしょうか。
まあその後、彼は誤謬を求めることで己の知性を裏切り、意志を放棄することを意志的に選択することでそれをも裏切るわけですが。それを誇った後、それを裏切る選択をして、彼はまた弱者になる。
このように、多くの他人達が形作るものとしての現実と、主人公の選択した幻想、いづれに立場を置くかで強弱優劣がはっきりと逆転しているように見えるのは面白い。
しかし現実でも幻想においても強者であると言えるものがいると思います。
それは水夜です。
水夜はもちろん、彼女自身幻想の中で生きることを喜びとしていたし、また夏月が導かれた幻想のいわば主宰者なのですから、幻想の中でも強者であると言えるのではないでしょうか。
しかし彼女は現実でも強者ではないかと思います。
それはどのような強さか。
それは実に俗っぽく単純なもので、自分の考えに他人を従わせると言うものです。
彼女は羊飼いのようなもので、羊達にすばらしい羊の世界を与えつつ、そのことで現実の利益を得るという人なのだと思います。
しかしそれ故、彼女自身は羊の世界を信じきることも出来ずそこで暮らすことも出来ない。
それが羊の世界に過ぎないと彼女自身知っているし、その外に人の世界があることによって作り出される利益であるが故に、それを自分が信じ込むことは出来ないし、それに埋没しそこで暮らすことは出来ないのでしょう。
こうしてみると彼女は現実・幻想のいずれでも強者であるが、またそのいずれでも弱者であると言えるのかもしれません。
彼女の夏月への愛情とは結局なんだったのでしょう。
少年と少女とがただ二人の間だけに分かち持ちうる世界を持つ、というものか。
それとも羊飼いが羊に抱く類のものか。
後者が前者を幻想として内包し、その幻想が少女によって少年に与えられると言う構図がこの作品では描かれる。
それはギャルゲー・エロゲーといった幻想、もしこういってよければ麻薬、を享受する私のような人間を示しているのかも知れません。
牽強付会かもしれないがですが、そのように既存のジャンルにある構図をいわば裏側から描くかのような手法は、御先祖様万々歳!を連想させる。
あと付け加えるなら、この作品である意味一番心打たれたのは、冒頭の主人公の孤独な心情が表現されているところ。
あのあと夏月は水夜と会わなければ、幼馴染と付き合ったりもせず、少しうじうじしているだけの普通の大人になったんだろうなあと思います。
彼女のもたらす救いは、喜びであると同時に、毒であったのであろうと。
まあ、麻薬ってそうしたものか。
羊おじさんは現実のうちにある様々な相対性を説いているように見えますが、反面、素晴らしく生きろとか、正しくしないと愛するものの本質を失うと言う。
麻薬の摂取は、己を統御することを出来なくさせるのだから、それは己の意志や欲望に従って良いことや悪いことをするよりも、なお根源的に悪いことではないか、とそういことだろうか。
それはまあそうかもしれない。
最初のほうの夏月は己が役割や機能に還元されてしまうことを恐怖するが、ヒロイズムと言う機能・役割を与えられるだけでころっとそれを忘れるんだから。
まあそれはあまり責めるにあたらないのかもしれない。むしろその程度の肯定性を普段の生活の中において、役割や機能を果たすことで得ることがなかったということを悲しむべきだろう。
最終的に、夏月は幻想に同化し幻想の水夜と生きることになるわけだが、ここでも彼は己の当初の不安と恐怖とを完全に忘れているように思う。
そこで彼は偽の水夜を、機能と役割において完全に水夜かもしれないが、しかしそれだけの存在を愛しているのだから。
こうしてみると、たしかに羊おじさんの言う通り、愛した者の本質を失ってしまっているのかもしれない。
まあこのお話を作っているもの自体が「羊おじさん倶楽部」と言うくらいですから、マッチポンプな辻説教と言う気がしないでもありません。
その点でいえば、羊おじさんも水夜と同じく、羊飼いの一人なのかもしれないようにも思えます。
それも水夜と違い、己の作った囲いから羊達に逃げ出して欲しいと言う羊飼いのような感じの。
だからこそ、色んなことに疑義を呈したり、現実を相対化させたりもするものの、「何故、素晴らしく生きないといけないのか。何故正しくないといけないのか。何故愛するものの本質を失ってはいけないのか」という風に問いはしないのでしょう。
つまり、そんなことは意志的には出来ないし、しているときは何がしかの麻薬を頼っているときだろうから、ということではないでしょうか。
あと話には関係ありませんが偶にクリック不能なったりした。バグでしょうか。