Q: 赤穂浪士は英雄ですか?
A: 知らんがな。
(以下、中二病の戯言、一部の読み手をディスる内容になっているので、予めご了承ください。史実の忠臣蔵には詳しくないです。)
(加筆・修正するかも)
というわけで、知らん。
あくまで私見ですが、人殺しだの、殉死だの、ましてや、平成の世に生きる人間に、忠義なんて理解できるとは思えません。
刀も銃もいらないし、平和ボケ万歳。
そんな私にとって、本作、1~3章が無条件に絶賛されている状況は個人的に凄く、不気味というか、不安になります。
さて、しばしば見受けられるレビューですが、
1~3章 : やばいめっちゃ燃える、赤穂浪士カッコよすぎ!!
4章 :うわー、なんか私怨歴オタと歴オタ歴数ヶ月のにわかが歴史談義始めちゃったよ、萎える。
5章 :なにその超展開?
要約するとこんな感じではないかと思います。
こういう感想を持った人にとっては、きっと赤穂浪士は紛れもなく「英雄」なんでしょうね。
しかし、本作に含まれる”大嘘”、つまり、”内匠頭に対する上野介のいやがらせシーン” を自覚していないような気がします。
(理解した上で熱狂している分にはかまわないのですが)
本来、史実では不明なあのシーンをフィクションとして具体的に記述すること自体は、
一時的に善悪という構図を明確にし、読み手を物語に引き込むという意味ですごく有意義なのですが、
4章以降も、読み手がそれに引きづられたまま、というのは、非常にまずい。
人殺しは犯罪ではなく忠義で、討ち入りもテロではなく忠義、忠義、忠義、、、ってなんでも忠義や英雄で正当化されてないですか?
でもその忠義、英雄、正当性、大儀、なんでもいいや、そういう美辞麗句が砂上の楼閣にすぎないことを自覚できていない。
もし仮に冒頭のあのシーンが、”上野介の嫌がらせはなくて、乱心した内匠頭が喧嘩とゴネただけ”であったなら、
今、「赤穂浪士はかっこいいー」と騒いでいる多くは、即座に梯子を外すのではないかと思います。
これって、奇しくも、多くの読み手に歴オタと揶揄される一魅が言った「扇動」「プロパガンダ」に乗せられた図ではないでしょうか?。
扇動された本人は「お前は扇動されているのだ!」って図星を指されれば、そりゃー不快になりますよね。
そして、物語中では、一魅にそう指摘され、直刃は「本当に赤穂浪士は忠臣、英雄だったのだろうか?」、と不安と不快を感じたのですが、
彼と同時に同じ疑問を持つべき、肝心の読み手は「歴オタうぜー」で大半、思考停止している模様です。
読み手の分身ともいえる直刃自身が、一魅に指摘され、不安に揺れて、内蔵助に直接尋ねているにもかかわらず、
ひょっとして大上段に振りかざした”正当性”って偽物だったんじゃないの?と疑問も持たず、
1~3章のみが絶賛されている様子は、まさしく、忠臣蔵による扇動そのもので、とても不気味です。
水を差すのが目的の構成も、水を指すんじゃねーよ歴オタと一喝されては浮かばれない。
さて繰り返しますが、”上野介の嫌がらせはなくて、乱心した内匠頭が喧嘩とゴネただけ”という事実が万が一、提示された場合、
「赤穂浪士は忠臣であり、英雄である」と、断言できますか?
本作で、直刃が「赤穂浪士は英雄である」と言う場合、3章最後と5章最後においてその意味合いは大きく異なるはずです。
そして、多くの読み手は3章最後の意味合いのそれで止まっているのではないでしょうか?
つまり、前者はただ”内匠頭に対する上野介のいやがらせシーン”によって正当性が与えられているに過ぎず、
後者は仮に”上野介の嫌がらせはなくて、乱心した内匠頭が喧嘩とゴネただけ”であったとしても、そう主張できる、
それぐらい、意味合いが異なるはずなのです。
内匠頭による刃傷が喧嘩であったのか乱心であったのかはわからないものの、
内匠頭は喧嘩であると主張し、一方の上野介は乱心であると主張し、最終的に幕府は浅野家の取り潰し、内匠頭の切腹の裁定を下した。
もしこの刃傷が乱心であると幕府が判断したなら、内匠頭の切腹のみで、浅野家の取り潰しにはならないはずである。
しかし、浅野家は取り潰されたということは、喧嘩の裁定のはずなのに、両成敗になっていない。
だから、赤穂浪士の討ち入りには正当性がある。
そして、見事、仇討ちを果たした赤穂浪士は英雄である。
要約してしまえばそうなのですが、このままではあまりに短絡的で、
内匠頭の乱心等の新事実がでれば、赤穂浪士の行いは、テロ、暴挙と一転して扱き下ろされてしまい、あまりにも浮かばれない。
内匠頭は刃傷に関して、乱心か喧嘩かを選ぶことができた。
しかし、乱心であると主張し、自分が泥を被れば、お家は裁かれず、家臣が救われるにも関わらず、
内匠頭は遺恨ゆえの喧嘩である、と主張を貫いた。
さて、ここで、内匠頭の家臣はどうして、内匠頭がそう主張し続けたのか考えるはずです。
「ただ単に見栄で我を通した愚か者だった」のか、それとも「乱心を認めた場合、お家が断絶されるに等しい遺恨があった」のか。
赤穂浪士がこのどちらを選ぶのかは、それこそ、生前の内匠頭が命を賭けるに値する主君であったかどうかによるはずです。
そして、赤穂浪士は後者であると判断したのなら、彼らが討ち入りをした理由が「両成敗になっていないから」ではなく、
より正確には「内匠頭の無念を晴らすため」と解釈すべきです。
討ち入りの際の宣言で刃傷の理由を喧嘩と断言したのも、保身や自己顕示のためではなく、あくまで「内匠頭の無念を晴らすため」だったと考えます。
赤穂浪士にとっては、”死ぬ直前まで訴えた内匠頭の無念を晴らすこと”、これだけで、大儀などなくとも、仇討ちをするに十分だったのではないでしょうか?
第4章で仇討ちの是非、その理由について考えると、「仮に大儀、正当性がない場合、仇討ち(人殺し)をしてもいいの?」と疑問が生じるはず。
これは、突然、江戸時代に送られ、殺さなければ殺されるという環境に放りこまれた、直刃の経験からでは考察できない内容です。
浅右衛門は、
「私たちは切らないといけない状況があって、切った(殺した)後でそれについて考えるけど、右衛門七は、その前にそれをしたらどうなるか考えてしまう。」
という感じのことを言いますが、右衛門七の視点っていうのは、
江戸時代で当たり前に人を切っているわけでも、突然、江戸時代に放り込まれて、必要に迫られ人を切るわけでもなく、
人を殺さないのが当たり前な読み手とほぼ同等の視点と言えるでしょう。
直刃(読み手)は右衛門七を通して、人殺しの正当性ではなく、それをしてでも目的を果たす覚悟というものを再認識するのが、5章なのだと思います。
大儀や正当性に守られて、人を殺すのでは、「俺は忠臣ゆえに仇討ちをなした!!」と声高に叫んでいるようであまりにも薄っぺらい。
忠義ゆえに仇討ちをなしたのではなく、主君の無念を晴らすために仇討ちをなした彼らが忠臣と呼ばれる、はずなのです。
直刃が見ているのは決して仇討ちの正当性ではなく、あくまで主君の無念を信じ、それに殉じた赤穂浪士であり、
仮に正当性がなくとも、彼らの生き様は”英雄と呼ぶに相応しい”と判断したからこそ、最後の「赤穂浪士は英雄である」という一文が出てきたのだと思います。
ぶっちゃけ、赤穂浪士が英雄かどうかは冒頭で述べたとおり、私にとっては知らん、の一言ですし、忠義なんてこれっぽっちも理解できない概念ですが、
ここまで踏まえて「赤穂浪士は英雄である」と主張するなら、まあいいんじゃね、と思いました。
<雑記>
ファンタジー要素は微妙だけど、4,5章で落ちをつけようと思ったらあれくらいしかなかったんじゃないかなーと。
赤穂浪士が現代にやってきたFD 期待しています。
3章最後の相合傘はクレヨンを探してくるのではなく、そのまま砂を擦り付けたほうが、インパクトがあっていいと思う。(気付いてしまう人もいるんじゃあないかな)