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ryomarkさんのこいとれ ~REN-AI TRAINING~の長文感想

ユーザー
ryomark
ゲーム
こいとれ ~REN-AI TRAINING~
ブランド
銀時計
得点
86
参照数
2999

一言コメント

周知の通り、エロゲーに“恋愛”は必須ではない。答えは簡単、エロスは恋愛無しでも描けるから。そして恋愛はしばしば、ストーリーに花を添える、副次的要素でしかない。しかし『こいとれ』は、あくまで恋愛をメインに据えて、これを執拗に描く。だから本作は、命に関わるような事件・事故を解決する訳でなく、勿論世界を救う目的も無い、ただの恋愛話。当たり前のように組み込まれ、氾濫し、消化されるこの題材を、『こいとれ』は改めて主題とし、正面からぶつけてきた。「本気でやると、“恋愛”はこんなにも面白くなる」と言わんばかりに。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

『こいとれ』は、そのタイトルやストーリー紹介が示す通り、恋愛が出来ない者たちが「恋愛トレーニング」を重ねて、本気の恋愛を探す物語である。
さて、作中の言葉を借りるのなら、恋愛を成功させるために必要な能力――恋愛力は、「情熱・行動力・コミュニケーション・センス・計画性」の5つだという。これは、各要素の恋愛チェック担当キャラが示すように、5人のヒロインそれぞれの恋愛におけるテーマでもある。即ち、

情熱=羽音
行動力=小萌
コミュニケーション=うたは
センス=ゆう
計画性=恋子

と、ヒロインとイコールで結んだ要素が、各ルートで主に語られる内容となる。
ここで大事なのは、『こいとれ』における「恋愛トレーニング」、つまりヒロインごとのテーマは、その長所を活かすものではなく、弱点を克服する存在だという点にある。

これは、「コミュニケーションが苦手」という弱点が最初から露呈しているうたはを除き、おかしな話ではある。例えば、ゆうは感性だけで生きてゆける位にセンスが傑出しているし、小萌ほど行動力があるヒロインはこの作品にはいない。同じように、羽音は非常に強い情熱を持っているし、恋子の理詰めで引っ張る恋愛講座は正に計画性の賜物である。
では、何故彼女たちは、そうした優れた恋愛力を擁していながら。むしろ得意分野こそが足を引っ張り、恋愛が成功しないのか。
…その答えは、作中にて恋子が声高に語ってくれる。


「恋愛というのは行為と感情のふたつが合わさって初めて成り立つものだ」


羽音は比嘉曜一に対する素晴らしい情熱を持っているが、その情熱はロケットの中に閉じ込めたきりで、外に出そうとはしなかった。過去を美化し、囚われ、いつか比嘉が変わるのではないかと待ち続け、自ら前に進もうとする行為に至らない。

小萌は大胆な行動で度々主人公・沢崎遊に迫るが、その裏側では遊を騙している、不正をしているという、後ろ暗い感情に苛まれていた。

ゆうはなまじ感覚が鋭かった為に、己のセンスに振り回され、押し潰される。それは“鹿子木ゆう”を一個人である前に“女”にし、結果自らに嫌悪を抱かせた。だから、その逃げ道として用意した恋、つまり女であることを諦観し、ただ受け入れるだけの恋愛は、“ホケマクイ”のように実体が無い。故に、行為にも感情にも実感が無く。

恋子は豊かな知性を結集させたいかな計画性を以ってしても、恋愛が計画通りに進行しないことを、経験として知っている。それは同時に、嘗ての家庭教師への恋心が本物だったことの、何よりの証拠でもある。しかし、恋子は初恋に囚われてしまい、それを解放する為だけの不毛な恋愛を繰り返す。初恋を超える恋愛への渇望は、やがて恋子を自己嫌悪へと追い込み、恋愛そのものを忌み嫌わせた。
だから、彼女は理論武装し、恋愛を科学し、分析しようとする。行為も感情も知らないふりをして。


以上のように、どのヒロインも恋愛力がありながら、行為と感情を上手く融合できていない。どちらかが欠けていたり、両方存在しなかったり、存在しないフリをしているのである。だから、そのままでは本物の恋愛が成り立たない。
(ちなみに、うたははただ一人、「行為と感情を共有していたが、それは家族に対する愛情からくるものであった」…というのが、実は恋愛感情でもあったことに気付く物語である。要するに、うたはの場合は、恋愛成立の条件としての行為と感情の二つを満たしてはいたが、恋愛力の内コミュニケーションが著しく欠如していた為に、恋が成功しなかったのである)

しかし、それぞれのヒロインは主人公との触れ合いの中で、ウィークポイントを克服する為に「こいとれ」してゆくことで、本物の恋愛に辿り着く。

羽音は空のロケットに遊の写真を入れることで、情熱の方向を修正して。
小萌は真実両目で遊を見つめることで、心から真直ぐ行動できるようになり。
うたはは少し素直になることで、遊の手を取ることで、コミュニケーションの大切さを知り。
ゆうは“女”である以前に“鹿子木ゆう”であることに気付き、言葉に惑わされない胸の高鳴り、本当のセンスだけを信じて。“ホケマクイ”は実在こそしないが、確かに存在することを感じて。


ようやく、本当の恋を知る。


…では、恋子はどうか。
恋子は唯一ルート縛りがあって、最後にしかプレイ出来ない。これの意味するものは何か。
作中にも記述があったが、屋上でのCGに見られるように、恋子は決して遊と向き合わない。
キスをしても直ぐに瞳を閉じ、身体を重ねるときも遊を見ようとしない。これはエンディングを迎え、エピローグで表示される、二人が抱き合う場面でもあまり変わらない。

彼女が真実、遊と真正面に向合うのは、チェスをする時だけなのである。

これは、まだ二人が本当の恋愛に到達していない、なによりの証拠と言えよう。恋子がまだ初恋の呪縛から解き放たれていないことを示唆していると言い換えても良い。
だからこそ、遊は恋愛を戦いと表現し、そこには痛みが伴い、命を賭けるものだと言い切る。そして、戦い続けることで永続性を見出す。


本作の「ラブロワ」が示すのは、「恋は戦い」であるということ。

そして、それを最後まで戦い抜くために必要なトレーニングは、続けることにこそ意味がある。
何故なら、互いの努力無しに、恋愛は成り立たないから。続かないから。
同時に、ただただ恋愛力を磨くことには意味が無く。
それは、恋愛偏差値の高低に関係なく、本当の恋愛は見つかることに(=ヒロインエンド)。ただ偏差値を高めることに没頭するのは、恋に恋することと同じであり、相手を見ていない事と同義であり(=誰とも結ばれない高偏差値エンド)。
要するに、恋子ルートが最後に回される理由は、4人のヒロインのストーリーを通じて、ラブロワが何を意味するのか、“恋愛”とは一体何なのかという疑問をプレイヤーに投げ掛け、同時にそれまでのヒントを元に、ある程度の解答も問うていたから。それを以って初めて、恋子ルートに意義を見出せるからである。


まだ見ぬ何時とも知れぬ時、恋子は敗者でありながら、ようやく勝者になれるのだろう。チェスはあくまでそのキッカケでしかない。
恋子のエンディングで描かれたのは、敗者が実は勝者となる、奇妙で壮大な、二人で描いた計画性に基づいたゲームの序盤に過ぎないのだ。

だから、見つめあえるその日まで。そして、その時を迎えても尚、二人の“こいとれ”は終わらない。
…終わらせないことにこそ、意味が生まれるのである。


【雑談】
残念なのは、ゲーム時間内において、海のエピソードが羽音ルートよりも後にあり、羽音ルートではそのエピソードが提示されないという点。これにより、遊の中の海の存在にブレが出てしまうので…。あと、最後まで語らないことに意味があるとはいえ、語り切られることに慣れてしまっている私としては、どうしても恋子ルートにえもいわれぬ消化不良を感じる訳でして(苦笑)。そんな時は、音楽鑑賞モードで主題歌『TIME』を聞くことにしています。

探して 探して
失くしかけてた気持ち
君とならば見つめあえるかもしれないと
走って 走って
まっすぐ進んでゆく
確かな赤い糸たぐり寄せて

運命の糸は、手繰り寄せなくては弛んでいるだけで、一向に相手は近づいてこない。そして、見つめあえる時を夢見ているだけでは駄目で、まっすぐ走り続けること、努力することが大事であって。…遊と恋子はまだその途中なのだと。
そんなロマンチシズムでセンチメンタリズムにさせる『こいとれ』は、久しぶりにプレイできた、誠の“恋愛ゲーム”でした。恋愛を描くだけで、物語はこんなにも面白く、ドラマティックになるのだと、改めて思い知らされました。