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ruru326さんのCARNIVALの長文感想

ユーザー
ruru326
ゲーム
CARNIVAL
ブランド
S.M.L
得点
90
参照数
890

一言コメント

瀬戸口の三作の中でも、CARNIVALに一番ライターの意見が綴ってあるように感じた。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

ネタバレ注意です!!





















これは私の感想というよりも、メモみたいなものなのです。
間違っていたり、皆さんと解釈が違うということがあると思いますが、どうかご容赦ください。


私はCANIVALをプレイして罪や虐待など多くのテーマが盛り込まれていると感じたが、特に「幸福」について書いてみたい。


理沙の幸せについて

『グスコーブドリの伝記』
主人公の兄妹の父母が相次いでいなくなってしまう。そして妹のネリも別の人に連れて行かれ、主人公ブドリも別の人に連れて
いかれてしまい、一生を一人の仕事に費やし、仕事のために死んでしまう。



理沙はそんなブドリを不幸だと言うが、学は幸福だっただろうと言う。
理沙はやっぱり可哀想だと言い、それに対して学はその人生がブドリにとっての幸福だったから可哀想に見えるのだと言う。


学にとっての幸福=「ガラクタ」=馬の頭にある釣り竿に吊るされているニンジン



幸福とはそんな何でもないようなものなのに、その「ガラクタ」であり「ニンジン」であるブドリの幸福が「仕事」でありそれ以外になかった事実こそが不幸なのである。
夢とは、追いかけている時が辛くとも一番楽しくて例えそれに届いたとしても一時の喜びと達成感だけてあり、後々になると次のガラクタが欲しくなって仕方がなくなる。
人間はそんな「ガラクタ」に夢を抱いてそれを追い求めることに幸福を感じる生き物である。「ガラクタ」にしか夢を抱けないのは、世界にも自分にも何の価値もなく、ただ存在しているだけのものだと無意識に知っているからなのかもしれない。
そんな世界で、何でもない「ガラクタ」に夢を詰め込むのだ。




理沙にとって学は憧れであり、夢である。理沙が学のような人間になりたがっているという意味ではなく、学の全てを知り、理解したいのだ。、
理沙は学の全てを理解することが夢であり、そんな実現不可能な(=ニンジン)誰から見てもどうしようもないもの(=ガラクタ)を追い求め続けることこそが理沙の幸福である。
二人のこれからはきっと罪の意識や贖罪で苦しむことだろう。しかし、学に付いていき一緒に歩んで行くことを決意した理沙はこの先ずっと幸福であろう。
きっとその夢は叶えることができないから。
他人はそんな理沙を可哀想だと思うのだろうし、私もそう思う。






学の幸せについて
物語最終盤の、幼き日々の妄想。学、理沙、学の母の三人が何事も起きなかった未来で花火を見ているシーン


『理想だったんだ。こんな風になるのが。いくら考えても、調べても、どうしてもこんな風に成れないって事ばかり書いてあって、でもまだ知らない事があるから、そこにはなにかあるかもしれないって、ずっと調べて、知って、でも、知れば知るほど、不可能だって思うようになって、誰かが、全てが、全部僕の知識を裏切ってくれればいいと、ずっと望んでたんだ。そんなのはでたらめで、もっと素晴らしいものがあるって。そして、こんな風景を見たかったんだ。』


この光景こそが学の過去から現在の理想であり、絶対に叶うことがなかった夢。
この光景を叶えるために学は知識を蓄えた。自分の知識を裏切るために知識を蓄えた。知識を裏切ってくれるように望んだ。
そんな風にして、学は絶対に叶わない夢を追い求めた。




学が夢想していると、武(?)が呼びかける。
「もうよしなよ。あとがつらいよ」
学は振り返らずに返事だけする。
「あと、少しだけ」
武がまた言う。
「見てられないよ。哀しい。」
「お前が哀しいって言うなんて、思わなかったな」
「たまらないよ。わかるだろう?もうよせよ。つらいだけじゃないか」
「僕のこと、可哀想だと思う?」
「ああ、思うよ」
「じゃあきっと、すごい幸せなんだ」




学は武に可哀想だと言う。
これは、理沙がブドリを可哀想だと思ったのと一緒であり、ブドリは幸福だっただろう。
武は学を可哀想と思うのだが、学は幸福である。
武が可哀想と思うのはきっと、そんなありもしない理想の光景が、学にとっての幸せだったからだろう。