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resolvedさんのこの大空に、翼をひろげての長文感想

ユーザー
resolved
ゲーム
この大空に、翼をひろげて
ブランド
PULLTOP
得点
75
参照数
1368

一言コメント

青春って本当にそんなに良いものなのでしょうか

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

CGは特に劣化することもないし、田口まこと氏のSDも毎度のことながら可愛いは大正義。
シナリオも文章の破綻は特に気にならないし、間延びなく淡々と進んでいく構成も非常によろしい。
でもグライダーの自作ってそんなに危なくないのかねえ、とは思ったんだけど。

――小鳥
このゲームは基本的に小鳥シナリオ以外の出来は良いとは、あまり思えない。小鳥シナリオは実にアリガチな点を華麗に回収していくのは爽快で、なるほど中々できないシナリオだと思う。

娘に対する小鳥パパの心配性に苛立つのは、なんとなくこのゲームに「バッドエンド」が存在しないことが見えているからという理由であって、別に不思議はなく最後までオトナ側の主張が通るのもキレている。
紙飛行機のSOSも美しい収束だし、単体で見れば満点を出せるくらいのシナリオだったと思う。

――あげは
あげはというヒロインを好きになれるのかというと、大半の人は好きになれないのではないだろうか。この手の幼馴染は出尽くした感があるから、飽きられているという話以前である
冷たい言い方だけど、よく分からない幼少期の秘密基地に対するトラウマを持ちだされて、ここまでコトを大きくされるというのは、重いというかウザいだろう。

このウザさは、自分の正体を隠蔽することによって、自分を際立たせるという、なんかそういう巧妙さがあざといのだ。
こういう例えはどうかと思うが、街中で覆面かぶってる奴は目立つし、結局カマトトぶってんじゃねえかという失望もある。

――天音
全てを隠蔽しようとしたイスカの家族と病が悪いんや!みたいな話になるんだけれども、どー考えても悪いのはセンセーである。
センセーが自らの保身のための行動が偏執化したんであって別に小鳥を本気で心配していたわけではないと思った方がよっぽど説明がつく。
もちろん主人公の印象論を含まなければだけど、そういう忖度を前提にして良いものなのかしら。私には分からん。

この手の「実はこのオッサンは良い奴でした」話は最初から誰もが予測できる状態にあるし、誰もが予測するわけで、予測を裏切れとは言わないけれども、ここまで消化不良にしておいて「実は良い奴でした」とか感情入らんから。
イスカの退学に関しても、それほど大きな事象であるとも思えないし隠蔽するほどのことでもなかろうし、天音ルートはともかく「オトナ」側の行動が謎過ぎて考えても考えられないシナリオである。

――風戸姉妹
実際問題ロリオタのお兄ちゃんたちにとっては可愛いは大正義なのだけど、近代的な倫理観に対して二股を提示したりするのに、当然のごとくフリーセックスも粉砕するというダブルスタンダードは中世に戻るつもりなんだかアウトロー的だか分からんシナリオである。

せめて風戸姉妹は本気で別々に運用することができなかったのかと思う。そういう遺伝や血縁という存在が過剰するのは、エロゲーの悪癖であると思う。
言い訳的にもちろん別になっているといえばなっているのだが、これはPULLTOPというブランド自体に制約があって、かにしの以降は全てヒロインは4人とかいう縛りプレイをこなしつつ、5人のヒロインを提供するというハードなプレイに挑んだ結果とかいう解釈くらいしかできない出来だったと思うのだが。

――この青春に対するあざとさ
小鳥と依瑠以外のヒロインが持っている「夢」だの「空」だのというものに対するあざとさは最後まで抜けてくれなかった。
小鳥と依瑠の組み合わせによる空回り感が見事に打ち消していたのに対して、他のヒロインに関しては「そんなマジ」になられても……なんてシニカルになってしまう。

さて、ともかく
どこかの心理学者が言うように「2週間が1年にも等しい長さに感じられる」のが子供時代なのだ。このゲームに抱いた違和感の根源というのは、そういうことなのだと思う。
だから青春を「思い出したい人」にとっては(そしてその思い出す「記憶」というのは大抵の場合に捏造である。三丁目の夕日を観て「あの頃は良かった」というのと同じそれだ!)とても凄いゲームに見えるのかもしれないけれど、青春を「体験したい人」のためのゲームとはならない。
そういうところが「あざとさ」の源泉だったりするのではないか。

これは上で非常によろしいと言っておいて何だという話なのだが。自分らだけではなく誰しも青春というのは本質的に浪費であり、それが本当に楽しかったのかというと本当は同じ事の繰り返しばかりで何も物事は進んでいなくて、逆にリアルな青春を提供すればクソゲーになるんではないかという疑問と(そういう意味でリアルだったのは直近だと『しあわせ家族部』である)、瞬間的に・微分的に時間を切り出すという手法は大作至上主義的な直近の情勢では商業的不可能なのかもしれないという説を提示しておく。

そんなわけで、これは1つの青春ゲーの限界というものなのかなあ、と今更になって感じてしまったことに恥じるものでありまする。

あ、最後になんですけれども面白いとおもいます。