すかぢは読み手に苦痛の道を強いるのが本当に上手いドS→(2019/10)すかぢ自身のツイートで脚本メインは藤倉絢一と弁明。この感想でメインライターを勘違いした方に訂正しお詫びいたします。
【注意】
・ここから先の文章は、私の悪辣な愚痴や毒舌なんかの掃溜めみたいなものです。
・本作が大ファンの方がご覧になると精神に多大な支障(ストレス)をきたす恐れがございます。
・また「素晴らしき日々」のネタバレも若干含みます。
・上記を留意した方のみ、その後をお読み下さい。
【感想】
日本は古くから農耕文化の民族性において異物を嫌う風習が付き纏っている。
一部小数を敵と決めつけ追い込み、残りの多数で一致団結する簡単な安定社会の作り方。
権力は民衆の総意であり、いじめとは延いては集団を維持する安定化装置としての必要悪を担う。
そう言えば聞こえは良いが、こんなものは所詮加害者側の理屈であり、被害者にとっては何の慰めにもならない。
そう。彼女“小日向はやみ”にとっては……特に。
小学生染みた陰鬱で卑屈で不快で残酷なイジメ。
「ゴキブリ」と呼ばれ続けることがどれだけ辛いか、その言葉を受けた人間にしか決して分からない。
それ以外の様々な身体的・精神的痛苦に、私達は彼女の痛みと涙を想像するだけだ。
排他的で閉鎖的な村八分という因習に凝り固まった価値観。
理不尽な尊厳の剥奪と人の痛みを知らない感覚のずれ。
強き者に巻かれるという人間の心の脆弱さ。
自身が強者という幻想を抱き、弱者を嬲る愉悦に浸る醜悪な精神。
そうした便所のゴキブリの糞にたかる蛆虫にも劣る慣習にすがる狂った世界観と村人たち。
その全てが自分を胸糞悪い最低な気持ちにさせてくれる。(後の”高島ざくろ”視点に通じるものがある)
例え悲劇こそが読み手を惹き付ける重要なファクターであり、最初からハッピーエンドの物語なんて3分あれば終わってしまうとしても。
この読む気を失くすシナリオは、言ってしまえば頭が痛くなる茶番劇に等しい。
それに拍車を駆けたのが、我々が多くの視点を共有する立場である主人公:弘瀬琢磨の存在だ。
目の見えない世界を患った後天的盲目者。
誰かを頼らずにはいられない人生を負い、嫌われない生き方と心に嘘をつく生き方を身に付けた稀有な主人公。
脳の認知が及ぼす、色の喪失した白黒の心象風景は、彼の観る彼だけの世界。
感じ取ったものを妄想し、想像力が膨らんだシャボン玉のような視界は、あやふやで頼りなく見える。
孤独と無力感、その辛さと葛藤が八方美人な性格を生んだのなら、誰が彼を否定できるだろう?
そう。彼も小日向はやみと同じ、悲運な境遇は読み手における想像の域を出ることはない。
そんな彼、弘瀬琢磨だからこそ、些細な事も許せる同情や寛容さが生じる土台が築き上げられている。
だが私は敢えて、読み手の印象である主観的な物言いをして、主人公を批判したい。
「偽善者、鈍感、情けなくてイライラする、ノリとテンションについていけない、キモイヘタレ……etc」
そんな子供が思い付く悪口程度なら幾らでも書ける。
だが私が最も嫌悪しているのはそこではない。
言ってしまえば、誰もが日常的に行使するであろう、ペルソナの使い分けがその理由だ。
彼はそれが顕著に目立ち、全体を通して性格が一定していない。(複数ライターの弊害の可能性示唆)
特に√毎の成長過程で精神性の差異が見受けられ、根本の芯となる部分が見えづらい存在となっている。
外的要因の弘瀬家が深く関係しているのは明らかだが、この影響は彼の偽善と独善と我欲の噴出に繋がっていると推測。
主人公がブレることに生理的嫌悪感を覚える私は、心的揺れ幅が激しい寸劇を見せ続けられることに多大な忍耐を要した。
主人公が自分に合わない・理解し難い話ほど、つまらないものはないのが私の持論。
そのため弘瀬琢磨という存在に忌避感を抱いた時点で、低評価は避けられなかったのかも知れない。
しかしながら、やはりこの作品を批判する上で登場人物の共感性はどうしても外せなかった。
「○○の所為だから、私は悪くない。むしろ○○が悪い」
加害者が被害者面する心情こそ唾棄すべきもの。曰く屑の理屈だ。
神楽ほたるが、いじめが悪化しないように距離を置こうとも、立ち向かうものに背を向け、目をそらしての逃避でしかない。
田端ゆいが、いじめの正当化の理由を語ろうとも、人でなしによる自己正当化の言い訳にしか聞こえない。
また「すばひび」でも感じた、先生という聖職者の皮を被った屑は一際目立つ。
罪は罪で消えない。故に罰という概念が存在する。
幾ら偽善と偽悪を図ろうとも、上辺だけでの虚飾などでは、被害者の償いには決してならない。
だがその後、それまで悪かった者がいきなり良い奴になる気持ち悪い展開が発生する。
まるで喜劇と悲劇の狂想曲。そしてご都合主義の祭典。
(特訓?で周囲がわかる?/ピンチに目が復活?/弘瀬家が権力者で掟改正→何て後付設定!)
言葉にすれば簡単だが、過程をすっぽかして理屈と感情で塗りたくられた人形劇には、ほとほと愛想が尽きた。
綺麗事の囁きなど、何もかもが薄っぺらい。
溜飲を下げる事すらままならないシナリオは、内に燻る不満を発散する拠り所を見つけることすら困難にする。
しかも本作は良くも悪くもキャラの感情移入という点で非常に成功している作品である。
だがその方向性が、読み手に共感性を求めて、同意させるように誘導している。
そのための“小日向はやみ”による無条件の赦しであり、読み手へと加害者の罪を清算するように仕向けた形だ。
要は加害者側が罪悪感を抱き、今までの行いを恥じることで、はやみ一家に対する差別が赦されたということ。
まるで既定路線のように、さも良い感じで仕上がった結末を用意したのである。
だがこれに納得できるかどうかは偏にプレイヤーの判断次第だろう。
私は例え“はやみ”が全てを赦したとしても、直接的に被害者に罪を懺悔したのは2~3名のみでは気が収まらない。
(わざわざ別枠主人公である”ゆいの兄”を用意して、差別施行者に対する同情心を掻き立てる演出なんかも無性に腹が立つ)
こんな事を書けば、私が一番の偽善者だと自覚させられるのは分かっているが、
溜まるストレスを解消できるならば、まだ「ひぐらし」的な虐殺展開の方が面白いと思える。(特に先公は死ねばいい)
勿論いじめに加担したゆいを含めた女性徒、そしてほたるも凌辱する主人公による復讐劇が望ましい。
「すばひび」とは違い、彼ら加害者側に対する必要な“罰”が描かれていないのが、私が本作を嫌う一番の理由だ。
(逆説的に考えると、当時こうした意見が浮上したからこそ、「すばひび」の集団飛び降りに繋がったのではないかと考察できる)
↑
そうした意味で捉えると、罪には相応の罰を望む人間心理が働き、ある種の悲劇的思考が潜在的カタルシスを生む証明へとなってくる訳だが……。
閑話休題
他の低評価の理由として挙げられるのが、前半と後半の毛色の違いだ。
前半は先に挙げた通りだが、後半は先にも増してシリアス展開にギャグを持ち込む無作法ぶり。
音羽の存在を筆頭とした、乖離した現実感によるカオス空間に激しく興ざめした。
(夢オチならまだ納得できるというもの)
またヒロインとの同棲生活におけるバカップルぶりに、思わず頭が腐りそうになったり、
あざとさが滲み出る萌表現とテンプレにうんざりする一方で、程度の低いラブコメは糞くだらないとしか言いようがない。
そして雪路という女は、久しぶりに本気で殴りたいと思わせるくらい不快だった。
また全体を通してみても無駄に長く、ギャグは滑りまくり。
失笑すらおきないくらい痛々しく、致命的につまらないマンネリ会話の応酬にも嫌気がさす始末。
そして単調で退屈、思わず眠気を誘うモチベの保てないテキスト。
モブの手抜き感満載とネタに走る姿勢も一々癪に障る。
結局のところ、あざとすぎる・ありふれた展開に奔走するオタクゲーにウンザリした次第だ。
故にプレイ中も集中力が続かなく、退屈さが押し寄せてくる。
「サクラノ詩」の初期プロットが描かれた作品で興味を注いだが、上記の理由により本作は私に合いそうもない。
他の細かい部分で粗を探すと、テキストに名前表示がないので、誰が喋っているのかバッグログで確認する作業が辛い点。
個別ルートにおける共通シーンの既読スキップが不可なので、同じ場面を見せられ続けるのが苦痛な点。
それと実際のプレイヤーが見ているキャラのビジュアルと、登場人物の主観で見ている映像には乖離があり、齟齬があり、認識の面で隔たりがある点。
自分にはとても紛らわしく思え、できれば統一して欲しかったところだ。
【総評】
すかぢの色は、私には掴みきれない部分があり、今回は苦痛に呆れを伴った不愉快な印象を終始抱いた。
彼の後の作品である「素晴らしき日々」でも、両作とも前半は読むに堪えない酷いものであった。(故にドSと勝手に認定)
[追記]
掴みきれない部分は当然で、後にメイン脚本が別の人と判明。
訂正し、この感想で勘違いした方にお詫び致します。 ×すかぢ→〇藤倉絢一=ドS
しかしながら「すばひび」は後半における出来が素晴らしいものがあり、それによって前半の不満を払拭できたのが、
今作は後半も中身のない只の萌えゲーであり、前半の悪評を覆すものではなく、むしろ悪化の一途を辿ったように思える。
正直、非常に人を選ぶ作風だと感じてしまったのは否めない。
だがそんな中で自分にとって光明と思えるものがある。
それは“はやみが可愛い”ということ。
それだけが救いであり、正義であり、最後までプレイすることが出来た一番の要因だ。
本作が「はやみゲー」と言われる由縁を垣間見た気がする。