猫と人のあいだを通り抜けて、「人」のあたたかさを問う 非常によくまとまった見事な短編ノベルゲームだった
同人サークル「シンセティックガール」の6作目。
過去作『つくも3回サンク』『アリスニャットシング』と登場人物・舞台を共有する。
プレイ月日:2024年8月26日 月曜日
総プレイ時間:2時間5分
・プレイ中の感想メモ(最後に総評あり)
文章うめぇ~~~
サブレって『アリスニャットシング』に出てきた猫の妖精みたいなやつだったっけ。
バイク屋で働く青年……これもアリスニャのキャラだ。 今確認したらニヤさんもそうだった。酒飲んでた人か。やばいすっかり忘れてる。復習してから読んだほうがいいか?
つまりアリスニャより過去の時系列の話ってことだよな。前日譚 タカヒロが主人公
相変わらずキャラデザがどいつもこいつも良すぎる!! ニヤもキッコも立ち絵すばらしい 写真加工の実写背景もいつも通り最高 この町の雰囲気よ
BGMの背景になんか新幹線のアナウンス?っぽい音が聞こえる
アンビエントっぽいBGMすき
アリスニャの感想で、微ファンタジー要素のサブレの存在意義がよくわからない、と書いた覚えがあるけれども、今作のための余白だったのか。これをやれば納得できるのかな
猫又 [となりの妖怪さん]で見たやつ
城ケ島区民センター ググったら出てきた。神奈川県三浦半島の南端の、橋で繋がる島 こういうロケーションだったのか…… ありすが原付で渡ってた橋はこれか
https://ameblo.jp/tailor-garage/entry-12832260740.html
マジでヘンテコな音楽だ サイケ?プログレ? オリジナル曲だよね そのままオープニングとしてタイトルバック!
魚の名前しか喋らないって棘先輩みたいだ
猫地蔵に井戸
そういやアリスニャで登場したこの巫女猫さんはサブレとは別キャラだった。
ニヤさん背高いの良い 高身長引きこもり幼馴染
あ~そういやアリスニャではニヤがスーパー銭湯で働いてたな。だんだん思い出してきた
ばあちゃん・・・・・ ニヤの親生きてたのね 数学の大学!?
ニヤがうずくまってるスチルが良過ぎる ものすごい感情移入してしまう おばあちゃんっ子の引きこもりキャラなんて
人間の悲喜こもごも、哀しみの外側にいる猫のありがたさ
強風のようだったり、粗い音声のようだったりするBGMが独特の雰囲気をつくっている。ホラー感もある
夏だというのにどんよりじめじめと暗く曇りの印象が強い物語
猫への人の想いが化け猫となる。『つくも3回サンク』の付喪神のような
人のしがらみを優しく包み込んで肯定する物語
ええ……突然にノリがアクション活劇モノになった
「醜くて あたたかい 人の カルマで」 人のしがらみ=カルマ=愛 を肯定する
冒頭の猫おまえか~い! おキツさん。キッコやタカヒロの祖先だったりするのだろうか
人ではないものを通じて、人であることを考える。『つくも3回サンク』から、そういう主題ではあった。
怒涛の猫の新キャラ達の大盤振る舞い、猫の過去(前世)回想の連続に、はじめは戸惑ったが、次第にその本懐が分かってきた。猫を通して人のカルマを描こうとしているんだと。
猫と人の間 「怨い(おもい)」という概念
猫好きからしたらものすごい刺さりまくる作品だろう
「有難う」ノルマ達成
ああ……キッコ…………
ありすのことが言及された
なるほど、人間を肯定するだけでなく、人のカルマに縛られた猫たちをも救うのか
良いことでも悪いことでもなく、倫理や善悪を超越して、ただ「居続ける」、生きていくこと。
>確かに、このあたたかさは、自由とは真逆だった。
お、ここでエンドロール
おわり!!
いやぁ…… 分岐ナシの短編ノベルゲームとして、これまでのシンセティックガール作品のなかでもトップクラスにうまくまとまっていたような気が。いや、このサークルの作品はどれもまとまってるが。
『アリスニャットシング』や『つきうみ』で見られた、簡易アニメーション演出は鳴りを潜めてはいたものの、シナリオの密度はまったく小品として片付けられるような代物ではなく、十分に気合の入った名作だった。
良い意味でアニメ映画っぽいストーリー構成だったように思う。クリシェになってしまうが、いい映画を1本観たあとのような読後感。日常パートの序盤中盤から、終盤で異世界へ足を踏み入れて冒険バトル活劇パートになり、大団円を迎える。ひと夏の思い出モノだし。「人生最後の夏休み」
シンセティックガールは、というかヤボシキイさんは「人のあたたかさとは何か」「人が生きていくとは」のようなテーゼを真正面からずっと追求し続けていて、その「人」に分け入るために、人ではないもの、人らしくないものを物語に迎え入れてきた。それが今作では「猫」ということで、その手垢が付き過ぎているモチーフの安易さに足元を掬われずに上手くさばき切ったと思う。
人と猫との愛情関係を描くときに、人が猫を愛しているように、猫だって人を愛しているんだ──という「感動」できる主張を入れ込むことは簡単だが、そこには必ず人の傲慢さや都合の良さが付き纏う。「猫」の魅力ってそういう人間的なしがらみから自由なところにこそあるはずで、だから猫との愛情関係を描くのにはある種のジレンマが存在する。
これに対して本作は、「猫も人と関わるうちに人のカルマ(愛情)に影響を受けて人に近づいてしまう」という設定を採用したことが慧眼だった。これによって、いくら猫→人の愛情を描いたとしても、その「猫」とは真の猫ではなく、「人」らしさが取り付いた、猫と人の中間物(化け猫、猫又)であるために、「猫」そのものを人の都合で傲慢に扱っている感じを薄めることができるのだ。
猫は死なない。生きて死ぬのは人間だけだ、というようなテキストがあった通り、本作において「人」と「人以外」を隔てるものはラディカルといっていいほどに大きく、「猫」を最大限に尊重しながら、猫と人との愛情関係を描き、それを通して「人」の生や愛を描き出してゆく……という離れ業をやってのけている。
本作を読んで『アリスニャットシング』を再読してみたいと強く思った。再読します。こちらを読んでからなら、以前よりももっとあの作品も味わえると思う。『つくも3回サンク』も読み返したい。