水平と鉛直と、そういうのをどうでもよくする宇宙と……のおはなし
総プレイ時間:4時間50分
【プレイ中のメモ】
設定機能ないんだっけ BGMがデカい CV無しだろうから全体音量を下げればいいか
ノベルゲームで見たことないフォント
高2女子 穂月銀子の一人称の語り
うおおお すげぇ GIF画像みたいな簡易アニメーションだ 屋上の金網越しに主人公を仰角で映すバストショット
テキストウィンドウは無く、テキストだけがある。
屋上と少女(女主人公) ノベルゲームの伝統的な始まり方
銀子は陸上の才能があったが怪我で止めて自暴自棄になっている? よくある設定 だから重力とか飛べないとか言ってたのか
担任かつ陸上部顧問の綾瀬奈都先生
ガールミーツガールものか
パレットナイフを差し向けられた出会いの場面ってこれ立ち絵じゃなくてイベントスチルなのか?
六文蒼(ろくもん あおい) 同級生の美術部
『アリスニャットシング』から引き続きローディングアイキャッチ画面のアニメーションいい
オープニングある!! フルスクリーンだと画質が粗くなってしまう
県境の河川敷にある「集会所」 アオとギンコ 『SSSS.DYNAZENON』を思い出すロケーション
営業職の成人男性ツムギ ホームレスの初老男性サンチャゴ
だいたい実写加工背景だけど、加工すら全くしてないんじゃないかという写真背景もある
同じ写真背景素材だけど、イベントスチルにするときには加工をするという差異が面白い
お~ 『少女琥珀』でも見た、1人ずつキャラが増えていく「みんなの居場所」スチルだ
江夏豊世代のサンチャゴ
河川敷でお茶会したりキャッチボールしたり将棋したり まじでこの人たち羨ましいです
犬は高さが足りないのでコマ絵で立ち絵の代わりとする
マノーリン サンチャゴと合わせて『老人と海』か~ けっこう粋な、かっこつけた命名するなこの爺さん
この釣りの構図まじですこ
裏返って宇宙すべてを内側につつみこむ缶詰の比喩 その「外側」=「集会所」はしかし、少人数のコミュニティであることが条件であり、根本的に選民主義的というか、欺瞞があるようにも感じる。カッコつきの「マイノリティ」ではないのか。
ココア、ギター、釣り 集会所のみんなの趣味は、短距離走の世界に慣れたギンコの時間感覚を穏やかに揺さぶるものばかり
「俺だって人間だ」と何気なく言うサンチャゴ 名前の元ネタのほうもそんな感じだったっけ? もう覚えてないや
めっちゃグーグルマップみたいだ…… マジでそうではないよね?([ゆるキャン△]2期……) 表札見えてるし
ツムギ、サンチャゴ、マノーリン 集会所のメンバーひとりひとりと順番に交流するなかで、ギンコは自身の心のわだかまりを解きほぐして人間的に成長していく。めっちゃ教科書的というかお行儀のいいシナリオだけど、シンセティックガールの味ってこういうものだったなぁと思い返す(今作はヤボシキイさん脚本じゃないけど) 王道を確かな筆力で書き上げて良作に仕上げる
「きっちり半分に割かれた月」 こういうテキストとグラフィックの齟齬は気になってしまう
いきなり自分語りを一人称でし出すツムギ 酒が飲めないくらいでそんな……と思ってしまう自分は酷いのか?
オランダの成句「しかし農夫は耕し続けた」 https://ja.wikipedia.org/wiki/イカロスの墜落のある風景#cite_note-6
ギンコのトラウマにも一定の同情はしたくなるが、元々の唯我独尊的な世界認識からだいぶ不健全だとは思う。奈都先生を端的に「わかってない」キャラ造形にするシナリオにも不満がある
「海行こうよ」 『7Days』以来だっけか。『少女琥珀』でも海行ってたか
海いっしゅんで着いてワロタ
100mを走っている間だけは本質的に孤独になれるから好きだった。なるほど マジで唯我独尊志向じゃん
世界から逃げるために走っていた、とも言えるか。地上の世界(人間社会)からの逃避=飛翔 それに失敗/挫折して重力を呪うようになった。
うわーなるほど。最初のアキレス腱断裂はいちおう無事に治ったが、その怪我によって「走る」行為が銀子のなかで孤独への飛翔ではなく周囲の人間関係に晒されることへと価値転倒してしまったがゆえに、もう走れなくなった。その先にあった「自分だけの世界」は失われてしまったから。
ただ、ここまで聞いても、ゆえになおさら、なんでそんなに孤独になりたいんだ、他人と関わるのが嫌なんだ、と首をかしげたくなる。幼少期の家庭環境、母親との関係のトラウマゆえ?
それに、孤独を獲得する手段として100m走を選ぶ、というのも冷静に考えれば皮肉なことだ。速く走れば走るほど体感的・主観的な「孤独」さは増すが、同時にその孤独を享受できている時間は短くなっていく、というジレンマがあるから。個人的な孤独に浸る行為は(暗闇のなかでの)ダンスなんだけど、それには特にタイムアタック要素がない。ただギンコはその孤独を得る行為に「飛ぶ」という動詞の隠喩を当てていて、やはり作中で言及されているイカロスの神話のように、本質的には「墜落」=終わり/挫折 を織り込んだ、期限付きの行為である点が重要なのだろう。どこまでも飛び続けることはできない。高く飛んだらいずれ落ちてくるのみ、という感覚。
ただし、飛ぶ/落ちる という垂直方向の行為と、100m走という最も水平方向の運動の食い違いは気になる。陸上で飛ぶというと跳躍系(走り高跳び、棒高跳び、走り幅跳び等)もチラついてノイジーである。作中で他に提示される行為……水切りは水平方向メインだけど垂直方向の跳ね返りがないとうまく(水平にも)遠くまで続かない、混交的なものであると解釈できるか。リードを引いての犬の散歩は水平メインで身長差によって少しだけ鉛直方向もあるか。釣りも水平メインで斜め気味の力の掛け具合の運動。ギターは「運動」ではないが糸要素は釣りやリードと同じ。・・・ではアオの油絵は?? カンバスの立てかける角度や筆で描く角度が重要なのだろうか。水平に腕/手を伸ばして、およそ垂直に切り立ったカンバスに筆を走らせて、鉛直な平面に油絵を描き付けて残す行為──
そして、宇宙の「外側」の集会所、という缶詰の宇宙的なイメージは、そもそも鉛直/水平という概念が成立しない「無重力」なものである。では、銀子が見上げる青空を切り裂く飛行機雲は?
こうして振り返ってみると、重力を主題とするだけあって鉛直/水平という運動の方向性にはかなり気を遣って作られている作品であることがわかる。集会所の舞台空間を吟味してもいいかも。あの河川敷の斜めの坂になってるブロックとか。水平に架かる「橋」の "下" という位置が重要なのかな。あるいは学校の階段の踊り場とか? マノーリンの「立ち絵」を含めて、ビジュアル素材の高低差や空間性にも注目すべきか。
ギンコの100m走とアオの絵描きの大きな違いは、終わりを自分で決められるかどうか、にあると思った。ギンコが語ったように、短距離走では「ゴール」の定義が明確に規定されている。しかし、初めに出会ったときの「あの油絵はこれで完成したの?」というギンコの問いにアオがしばし間をあけたように、絵の「ゴール」は自身で自由に決められるし、決めなくてもいい。あとから、あれでもう完成だった、としてもいいし、やっぱりまだ完成してなかったことにしてもいい。つまり、ゴール=完成の定義がきわめて曖昧で、制作者本人の意志に委ねられている。(あるいは、本人すらも完成の有無やタイミングを制御できないのかもしれない) 重力と飛翔のイメージのなかで、ギンコはアオの油絵を、彼女自らの重みをカンバスに描きつけることで自らを軽くしていくものだと捉えた。しかし、「墜落」の有無やタイミングが外的に明確に規定されざるをえない飛翔と重力の比喩に、終わりの定義が本質的に曖昧で柔軟な絵描きという行為はそぐわないのではないか。
潮溜まりのクラゲ 『つくも3回サンク』にこういう水槽の比喩あったな 小さな閉鎖的な世界空間に閉じこもる/閉じこめられている私たち
夕焼け "沈む"夕日という鉛直的なイメージも、スケールを変えれば地球と太陽という2つの天体の相対的な位置関係(と自転)の変化に過ぎない。
川の此岸と彼岸、という空間的なモチーフは[少女琥珀]でもあった。が、ここでは此岸/彼岸ではなく、あいだを切り裂く(=画定する)一筋の「線」に重心がある。「"水平"線」という言葉
さすがにポエティック過ぎるというかモチーフ先行過ぎて笑っちゃう
此岸と彼岸が出てきちゃった
この背景新幹線うつってるよね?
マノが欠けて「正円から少しだけ欠けた月」…… お行儀が……良すぎる!! 学校から逃避する少女たちのおはなしなのにめちゃくちゃ優等生じゃねぇか
サンチャゴかっこいいね 「人間」かぁ でもこういう老人キャラが風貌相当にカッコいいというのもそれはそれでまた優等生的ではある・・・(それの何が悪い?) てかツムギが相対的に幼稚すぎるだけな気もする
うーむ……こういう展開にマジでしちゃうのかぁ ちょっと独善的というか狭量な未熟さが前面に出ていて面食らう
他人に消費されたくない、という思いがギンコの孤独志向の根底にあるのか
でも、この物語に登場するキャラクター達じしんも、かなり消費しやすい造形にはなってるんだよな。ギンコの走れない理由がとても容易に「理解」可能なように。(逆になぜ勉強熱心な綾瀬先生が的外れなことばかりするのか理解できないし、そもそも通院したら簡単に診断が出るのではないのか。それを無理やり、銀子を孤立させる状況を作るために捻じ曲げているように感じて厳しい) またギンコもツムギも、とても明瞭にペラペラと自身の苦悩の内実を語ることができる。これもやってることとと言ってることが矛盾している点のひとつだと思う。
あの集会所のみんな(だけ)はわたしの良い理解者で、それ以外の人たちは遠巻きにラベリングして消費しようとするだけの連中だ、という選民的な二元論の思考がとても不健全だと思う。そんなギンコの思考を相対化して描き切っていればいいか、といわれるとそうでもなく、彼女の考えとは別に先生などのキャラの造形からして良くない。
缶詰のふたは既に開いてしまっていて、内側も外側もない、という事態をギンコがどう受け止めるかにかかっているか。それを、「敵」である外側の世界=社会が自分たちだけの聖域=内側に侵入してくる危機と捉えるのではなく、内と外という二元論を乗り越えて真に成長する契機にしてくれればいいんだけど・・・
実写背景にキャラではなくこうして「モノ」を描き加えると、アニメのセル画とBGの同居(崩れると分かる岩)のように違和感が生じてしまう
アオは一度も絵を「完成」させたことがない
72枚目、という数字に意味はあるのか
「綾瀬先生→ギンコ」≒「ギンコ→アオ」 自分が他人にした行動が還ってくる
ギンコは、アオを救うことで自分をも救うのだろう。彼女が手を広げて守っているのはアオの絵ではなく自分自身(の走ることへの執着)である。
ギンコが先生への態度を軟化させて和解 ひとまず良かったが……教師の立場としては、勝手に綾瀬先生がギンコに告げてしまったことで雨のなかアオを探しに出ちゃったら駄目なのでは? 探さないよう釘を刺すべきだった。
自身にはたらく外力を知覚できず、結果として質量がないかのように見えるアオは、自縄自縛(内力)でかろうじて地上に留まろうとしていた。なんだか途端にめっちゃ初等力学の比喩になった
実写背景に無理やり雨を降らせるやつ、さすがに無理があるって! ぜんぜん水位上がってないし、まず晴れてるし
アオを探して街中を歩き回る行為と100m走の相違点/共通点・・・明確なゴールはあるが、本質的に孤独な(一直線の)営みではなく他者を志向している。
ギンコは馴染みあるらしいがこっちは見覚えのない場所=背景が!
うーむ……アオを見つけ出すためにサンチャゴやツムギといった集会所のみんなに助けてもらう王道展開は一見熱いし確かに定石だけど、その前の綾瀬先生との和解(=ギンコが内側の世界で閉じずに外側の世界と関わっていく契機)の展開とは矛盾しているのでは? けっきょく集会所メンバー万歳!になっちゃうじゃん。
迫真の雨粒ウィンドウで草
「別の缶詰」 うーんけっきょくこっちに留まるのかぁ…… まぁでも、缶詰の複数性に辿り着いたこと、あるいは原理的に暫定的であることを自覚した点は成長かもしれない。「間に合わせ」の連続で息継ぎをして生きていく 相変わらず選民主義ではあるが。
陸上にアイデンティティ全振りしていた割に、陸上始めたのは中学からと遅めなんだよな。それまでギンコは自我が無かったのか?
走れない=飛べないのならば歩くだけ。重力に従い鉛直に落ちてくる雨の中を水平にひたすら「歩く」のは、「飛ぶ」という過去の欺瞞を認めて訣別することのあらわれと読めるか。だってそもそも、走ることと飛ぶことは(方向が)違うから、イカロスに自分を見立てること自体がズレている。
人間社会を成り立たせている抽象的な「大きな規範」・義務が理解できないアオ。ようは自閉スペクトラムってこと?
コハクもちょっと似たパンクな人物だった記憶が。もっと尖っていた気もする。
てにをはの間違いがところどころ気になるんだよな~~校正……
うーん…… やっぱりアオの造形はそんなに大したものではないなぁと感じてしまう。繋がれないけど繋がりたい。後腐れのない関係・コミュニティを持ちたいけど永続性がないことに悲しみもする。そういうジレンマゆえの苦悩そのものが陳腐なよくある設定だなぁと思う。わたしはギンコでもアオでもないから、勝手な意味付けをして気持ちを代弁(解釈)するよ。だって読者だもん
涙を流す行為が、今度は「主人公」格のギンコで再演される(が、視覚演出としては何も無い、という点が肝心)
落ちるアオを助けるために覚醒して再び飛ぶ=走ることができるようになるギンコ そして伝統の心中水没(飛翔→落下→生存) すべてが予定調和。想像をまったく越えない
雨は上がり月が海と交わる光景が「アオの絵」と重なる。こうして絵の「本当」の答え・意味が正解発表=伏線回収のように固定されてしまうのは良くないんじゃないかなぁ どんどん陳腐になっていくよ 「つき|うみ」という作品そのものも
おわり!!!
エンディング後のエピローグの余韻いいね
なんていうのか、よくまとまったラノベ的な上手さのあるシナリオではあった。ただ、自分がラノベ的な文体と脚本が蛇蝎の如く苦手なばっかりに・・・・・・
あと、背景素材とテキストの不一致とか、あまり出てきてない背景(Y字路)の存在とか、納期ギリギリでなんとか間に合わせた感が幾つかの点で感じられたのは残念だった。
シナリオが別の方なのに、シンセティックガールの過去作との共通点をいちいち挙げてしまって申し訳ない。
いちばん良かった点
→ コンフィグ機能がなく、テキストウィンドウがなくてデフォルトでテキストのみ固定になっている(ちゃんと太く縁どられた読み易い文字である)点に、ビジュアルを常になるべく見せようとする製作者の思想を(勝手に)感じられて良かった。
コンフィグでテキストウィンドウ濃度をいじれるノベルゲームでも、自分は基本的に濃度0%にしてテキストのみ映してグラフィックを隠さないようにする派なので。