すべては「自分」を弔って、あなたに出会い直すために。 前作『星霜編』で感動エンタメ作品としての最高値をたたき出した『ハルカの国』が、ここから、更なる深みへ、いまだ人類の誰も描き得ていない境地へと、ビジュアルノベルで進み行こうとする4作目 それでも決して難解ではなく、きちんと言葉にして読者に分かりやすく表現してくれるので心配はいらない。《国》の真髄を知る旅に出かけよう
1周目
総プレイ時間:11時間40分
《プレイ中のメモ》
スチルの絵柄がすごい変わってる。抽象画みたいな。
ハルカの寝起き声のSEビビった。
名を明かしてない「???」の頃から一回だけ「八千代」と表示されていた。たぶんミス
化けは人の営みの近くで生じる。風子は?
50年越しの再会シーンの演出!!! うおおおおお ボロボロと大粒の涙が溢れた。Twitterで上げていたユキカゼのバストショットはこれかぁ
ユキカゼ=ノベルゲームの視点=ハルカの見届人 という説がさらに補強されまくる演出だったなぁ。
肩に手を触れるスチルは2人を横から撮っていた。あそこもユキカゼの一人称にしてほしかった。
信心=宗教=創作=フィクション=化け
風子のテーマのピアノBGMがめっちゃ良い曲
・迷い路
決別編と逆。ハルカのアカハギ討伐にユキカゼが着いていくかたち。
もう「ハヤ」ではなくなったユキカゼが、ふたたび「ハヤ」と呼ばれて戸惑う。自分のことも、目の前のハルカのことも、明治の「あの頃」から変わってしまいどこか寄る辺なく気まずい心持ちになっている。
ハルカとお風の立ち絵の腕を伸ばして広げるポーズが似ている。意図的なもの? 風子が真似ている?
ハルカそっくりの狐の化け、八千代。どう見ても男だが「女」らしい。一人称が「オレ」。ジェンダーレス! 風子も男の子って感じだし。
・土人形
アカハギ討伐へ出発
ハルカは、対アカハギ用の物理的な準備よりも、愛宕の天狗たちへの根回しといった事務的・政治的な雑事に追われ、そちらで神経をすり減らして疲労困憊している。肉体と肉体がぶつかり合う単純な戦いはもはや成り立たない時代ということか。(アカハギ側は政治的な戦略をとっているのか知らないが)
そもそもハルカがアカハギを討伐しようとしているのも、倒したいからではなく、天狗の国に自分の居場所を作りたい等の婉曲的な目的があるようだ。(ユキカゼに語るハルカは、もしかしたら死にたいと思っている?? そのためにアカハギのもとへ赴くのか?)
駒場着。本当に訪れるんだ。行けないかと思ってた。
薬師のおっさんの話
「幽霊」
道(都市政策)と信仰の話だ……!!
森で土葬されている馬 「歯を合わせる」ことで墓とする狗賓たち
風子の来歴が、いっさい言葉を使わずに一連のイラストのみで語られる。
やっぱり狐の化けじゃなくて人間、あるいは天狗(狗賓)だってことでいいの?
狐の里で生まれた、というのは嘘で狐の里に渡された。体力が無いのは化けではないから。暑がりなのは化けの耳の被り物をあたまに付けているから?
風子の目に映るユキカゼ(「ハヤさん」)の姿が……凛々しくて立派で……これまでのユキカゼの辿ってきた道のりを知る身からすると、ほんとうに感慨深く、いろんな感情が湧き上がってくる。
ハルカのドッペルゲンガー(幽霊)のような八千代。ふたりは相対しない。八千代が相対するのはユキカゼ(ハヤさん)だけ。真正面の立ち絵。ハルカは横を向いている。風子もユキカゼも。
それでいて、八千代曰く、ユキカゼこそ自分の生き別れのようだと。五〇年前に、官から追い出された化けが、人間の国で生きることを選んだか、天狗の国で生きることを選んだかの違い。
そもそもユキカゼとハルカだって白狼と白狐でかなり似ている風貌。
八千代は風子の親代わり? 「先生」と呼ぶ──八千代のこともハルカのことも。そんな風子が「自分もなれるかな」と憧れるのはユキカゼ。
このように、ユキカゼ、ハルカ、風子、八千代の四人のめくるめく鏡面的な関係が奥深い。
>夢というのは、見ている時が美しくて
>叶えようとする時、もっとも悲しいのかもしれない
>幻は手を伸ばし掴めば、幻と知れる
>だからハルカも、五〇年、ハヤさんを呼ばなかったのじゃないか?
自分とは違い、夢が叶ったハルカに怒りを滲ませる八千代。
幽霊、幻、嘘、夢
まつり! おトラの昔馴染みの……! 尾道で先にほどけてしまった狐の……
おトラが東の宮仕え狐の棟梁だったのか。
八千代と殿と副長の三人の物語も読みたいなぁ
昔話は楽しいが、幻の火のように儚く消えて、後には寂しさが残る
八千代が背負っている「軽くて重いもの」はなんだろうなぁ
風子の正体を読者にはほとんど明かしておいて、そのうえで更なる謎を提示してきた。
いろいろと謎は多い。そもそもハルカが明治6年、決別編のあとでユキカゼと別れた理由がいちばん知りたい。ユキカゼ自身もわかっているのだろうか?
ハルカこそこの天狗の国にとって客人、異邦人、自分の国を持たない幽霊。幽霊だからこその心/根のない「正しさ」があると文司から糾弾される。
・天空回廊
いよいよやぐら岳越境へ──
風子が毒を盛られる。あの薬師のおじさんからもらったやつ?
烏頭(うず)という、天狗の私兵の狗賓たちを無慈悲にも鉈で殺める八千代。
風子の瞳を眺めて、八千代のその様が思い出されて涙をこぼすユキカゼ。
・星々の国
峰を越えて余呉郷へ
「ハヤさん」の物語 ハヤはもう私ではない。
「ハヤさんが私みたいで、すっかり安心してしまった」と言う風子。
風子にとってユキカゼやハルカが救いになっているのと同時に、50年前には戻れないむず痒さと違和感を抱いているユキカゼ・ハルカにとっても、かつての自分たちの関係を「面白いお話」として語ることができるという意味で、風子がいて良かったなと思う。幼き者、じぶんよりも若い世代の者がいなければ「物語る」価値はない。「物語り」の存在意義はない。(幼少期に祖母から聴かされた物語、その物語る口調を理想として『百年の孤独』を書いたガルシア=マルケスが連想される)
人間の営みのなかから生まれいづるもの。化けは物語の象徴。しかし、物語は物語るものと同時に、それを聴く者がいなければならない。非-物語としての人間、子供。
「私たちはお風というたった一人の客に向かって、御仁とハヤというものを、演じていたのだ」
食事でありながら勝ち負けであった。
「強い物」と「優しい物」
食われたものたちが食ったものを踊らせる
イカヅチ丸に舞踏を強要する幽霊たち 叺(かます)を被り「ダレガダレガ……」と唱え手拍子をうつ。
ハルカとユキカゼをそこに連れて行く風子。
国に密かに浸透する信仰 鬼と幽霊
何重もの「国」、何重もの「幽霊」
・幽霊の森
北の森。道を逸れる
地図と自分。決して変わることのない不動のものを見つけて、それによって今の自分の在処を知る。
ハヤはもっとも自分の足で行きたいところを歩いてきた化け。根無し草の一等。そんなハヤさんに風子は憧れる
ハルカもユキカゼも五木を夢に見る。彼は喋らない。
「見送ってきた連中への、義理果たしているだけ」「ただ、知りたいだけなんだ」私が探していたものは、何だったのか。
附子(ぶす)
イブキ姫とカヤ姫。カヤ姫ひさしぶり〜〜 ここではまだ長ではなく妹で、人間態ではなくずっと猪形態なのか。
ユキカゼは子供に慕われるなぁ。風子も、余呉郷でも、猪の里でも。
アカハギは呪いそのもの
食うか食われるかで呪いを拡大しようとしている。
余呉郷での「食事は勝負」とも繋がる。
ハルカは、愛宕という国=くに、そのものになろうとしている。
愛宕は生産階級としての狗賓の肉体を裏切ったことで、狗賓に「疑われ」滅びる。
>「国家の成因は "ここ" に地縁を持たねばならない。そうでなければ領土からなる国という形を維持できない」
>「国とは、国という輪郭のなかで自由でないもの、地に縛られたもの、つまり縁ある者から成る」
>「愛宕(くに)とは不自由な者たち、つまり民の形に他ならない」
>「私が間もなく滅ぶと言うのは、間もなくこの国を問う者が現れるという意味だ」
>「国は人々に意味を与える──美しい夢のようでなければならない。我等こそという、喜びがなければならない」
>「国家には輪郭としての、喜びと美しさがなければならない」
美しさ、喜び、嬉しさ 天狗の国シリーズの根底にある「価値」概念
ハルカはイブキ姫と2人で話していたところに、わざわざユキカゼを呼んでこの話をした。
ユキカゼという見届人、ビジュアルノベルの視点がいなければ語れない、「国」の本質とハルカの目的。
国というものを永続的なものとは見做さず、その解体までを射程とする。肉体は滅び、金(資本主義)という実体のないものがより永く続く。
アナーキズム的でもあり、web3(イーサリアム)っぽさもある。
>「五十年あれば、貴姉たちの物語にもケリがつくのじゃないか?」
>「少なくとも、私には十分だ」
>「私はこの国に、大きな墓を建てる」「山よりも大きな、私の墓をな」
>「私がここに居たことを、誰一人忘れられぬほど大きな墓を、私は建てるのだ」
ここで化けの身寄りのなさ、根無し草性が繋がってくる。ユキカゼも同様の不安を抱えているが、どうするのだろう
『ハルカの国』 ここでのタイトル回収アイキャッチ・・・アツすぎる
ハルカは天狗の国が100年以内に滅ぶと読んでいて、じっさいに『雪子の国』では愛宕の国が解体されているのが描かれるわけだが、では本シリーズにとって「人間の国」もまた、いつかは滅ぶものとして考えられているのだろうか? 日本国の解体までをも視野に入れているとしたら、いよいよとんでもないぞ。
そういえば、風子の「お手玉」って……越冬編のカサネと梅っ子のところでも出てきたじゃん! ここでモチーフが再登場するのか〜〜
てか、官服は五木を連想させるし、風子というキャラ自体が、これまでユキカゼとハルカが辿ってきた「過去」の暗喩(亡霊)でもあるのか。
じゃあ星霜編のモチーフも絡んでるのかな。なんだろう。ユキカゼにとって可愛い妹分、クリ的なポジションではある。まぁハルカは星霜編にいないので越冬編と決別編のみかもしれないが。
風子、人間というか狗賓の子だったのか。
元の耳が切り落とされ、狐の耳が縫い付けられている・・・ヒエ〜〜 被り物かと思った・・・
"八千代は私の方を見ることもなく、ただ真っ直ぐに御仁を見据えていた。"
とあるが、八千代の立ち絵は相変わらず真正面……ここではユキカゼの「ノベルゲームの視点」性がズラされている。
"決して、私は私には見えないのだ。
私は私を見ている誰かしか見ることが出来ない。
私の見ている誰かが私を見て、それを私が探す他ないのだから。
私とは、私にとって永遠の他人。
出会うことのない誰かなのだ。
私が見ている、私を見ている仮面は、誰だろう。
それは、誰かにとっての、永遠の他人だった。"
少し前の「地図と自分」というテーマにも繋がっているが、もっといえば、「自分とはなにか」というのは『ハルカの国』前三部作でユキカゼがずっと悩んできた主要テーマだ。それを、「仮面」という物理的なモチーフを使って、こうしてさらに掘り下げてくる。
決別編のあと、星霜編のまえに、ハルカがユキカゼと別れた理由がここでちょっと描写されるのか!!!
ユキカゼのなかで膨らんでいく完璧なハルカの像に、ハルカ自身が耐えられなくなった、ということかなぁ。「呪い」ともユキカゼはその後に(狐の社のところで)言っている。
"八千代「そんな名前の狐は、此処には居ない」"
これって、ノベルゲームのメッセージウィンドウの発話者を表示するメタな形式に対する批評というかトリック(睨みきかせ)でもあるよな。
八千代から八千代でないと言われてもなお、「八千代」という表示が無くならないのは、ユキカゼの主観的な戸惑いと、まだ八千代の存在を「幽霊」とは認めたくない心境のあらわれだとも見なせる。そして、そういう解釈はやはりユキカゼ=メタな視点人物説に都合がいい。
・蒼き墓
「小さな墓」……!!! 小さき墓じゃあないか…… 鯨打ち=竹の「庭」の戦術といい、マジで決別編をオマージュしまくっている。
ハルカやユキカゼといった登場人物が自覚的にするオマージュ、再演、やり直し。もう決してあの頃と同じようにはやり直せないと知っていながらに行なう、それ。
"見届けてやるべきだ。"
"私には見える気がした。"
『決戦編』という題で、アカハギ討伐のお話なのに、肝心のクライマックスで、アカハギとの戦いに主人公であるユキカゼは参加せず、それどころか近くで見すらしない。これは考えてみれば異様なことだ。しかし、それでも、ユキカゼはハルカの姿を「見る」。自分が信じるハルカを見て、ノベルゲームの画として描き出す。それがこの『決戦編』の核心だろう。幽霊と過去の物語であるこの章で、最後にそれらを超えて肯定するために。ハルカを、そして今ここに居る自分を認めてやるために。
ああそうか、ハルカがアカハギに挑む理由。それは、愛宕の民を救うためでも、愛宕の国を救うためでも、自分の国を作るためでも、大きな自分の墓を建てるためでもなく、ユキカゼと本当の意味で「再会」するためだったのか。50年前、明治時代に、ユキカゼが見る自分、「ハルカ」というものがあまりにも大きすぎて、自分ではそれに匹敵できないことに苦しんで別れを告げた。ユキカゼが信じる「ハルカ」という自分を超えて、倒し、自分に「なる」ために、その先でユキカゼという「見届け人」に出会い直すために、ハルカはアカハギに挑んでいるのだ。だからハルカはユキカゼを待ち、自分の戦う姿を見てもらいたいと思ったのだ。
ハルカが切り落としたアカハギの首を斧で断とうとするユキカゼと風子。狗賓の兵の首を無残にも切った八千代の姿のリフレイン。
ユキカゼに背負われるハルカ。ふたりを眼差す八千代。という構図
視点人物であるユキカゼの背後にハルカがいることの重大さ
幼き者が助けを呼びに走る、というのは『キリンの国』でのホオズキも思い出す。
ここでやっとふたりが真に再会できた。アカハギ討伐後の共闘から、次第に以前のような気のおけないやりとりが見え始めてはいたけれども。
このために剣が曲がったのか。
そして2人の再会を、抱き合うのを遠くから眺めるお風……!!! 最高
・風立ち
寂しさを、かつて自分がいたところを置いていけずに、そこまで戻る──『雪子の国』の彼……みすずの友人の、天狗の子に教師をやっている彼!!祐太朗だっけ
ここでのお風は、この何十年後かに祐太朗が愛宕でとった行動とおんなじだ。というか、この背景の宿の場所も、『雪子の国』でまさに祐太朗がハルタにこの自身の話をしたところじゃなかったか?
八千代も、風子がいてほんとうに良かったなぁ……救われたなぁ……
お風に「お役目」を、「役に立たなければいけない」として縛ってきた「地図」が、ここにきて再び八千代の手によって書き直されて、「人間の国の地図」として、お風にとって正反対の、自由で、未来へと進む象徴の道具となるのが……ああ……
『決別編』と『星霜編』の反転。
五木に「時代を、超えてゆけ!」と、そしておトラに「行っといで。今度は負けるんじゃないよ」と送り出されたユキカゼが、今度は「行け!」と送り出す側になる。
そうして送り出された、新たな時代を生きる者が「人間の国」の景色を見る場所は──〈国シリーズ〉の始まり、『みすずの国』のラストシーンのものだった。完璧。
そうだ、この『決戦編』という物語は……愛宕を舞台にしていたのだ! それが最後になってようやく、こうして過去作と結びついていくことで実感される。
全財産を幼き者に与えてしまったユキカゼとハルカの2人が、並んでこれからの行く末を呑気に話し合いながら歩く──という光景は『越冬編』のラストシーン。
こうして『ハルカの国』前三部作すべての結末がリフレインされ終わった。ようやく幻、夢が終わった。ここからがほんとうに「新しい」物語だ。
・淡雪
ハルカ、ユキカゼのこと好き過ぎる。決戦編でのハルカはほとんどずっとでっかい赤ちゃんのようだ。(WA2のかずさ)
同じ髪!!! こんな展開になるなんて…… え、ずっとハルカには地毛が生えてこないの?
ハルカとユキカゼ、越冬編の頃から外見が似ていると思っていたが、どんどん実際に似ていく。
『決別編』での、ハルカの好物の話をユキカゼが覚えていたことに驚き、感動するハルカ。
そりゃあそうで、この『ハルカの国』という物語-作品じたいが、ユキカゼが「覚えていること」で構成されているのだから。
クリ〜〜〜〜!!! 風子もすっかり雰囲気変わってる。
35年後!?!? 1960年!?!?
昭和……春秋編だっけか。第2次世界大戦も終わってるじゃん! てっきり昭和編のどちらかでは流石に取り上げると思っていたが……
「イカヅチ丸が来るぞ」で〆 まったくわからない。いちおう今作でもイカヅチ丸の儀式は出てきたが。キリンが背負っている呪いってイカヅチ丸だっけか。父親だったっけ。
おわり!!!!!!!!!!
1周じゃあ味わいきれなさすぎる…… まじでどんどんとんでもない作品へと駆け上がっていく。深みがある。ただ、「分かりづらい」とは感じない。かなり丁寧に言葉で説明してくれている。それがまた魅力なんだよな。文章が詩的で力強く的確でうまいし、説明的過ぎるものは作中でも「理に偏っている」みたいな感じで批判的に相対化して言及されたりする(ハルカの言葉への文司やイブキ姫の反応など)し、そもそも、言葉で状況や心境を鮮やかに伝えて物語を駆動させるのはビジュアル"ノベル"の真骨頂だ。
ハルカの国の前三部作、そして『キリンの国』を読み直したくなった。かなり意識的にセルフオマージュが成されている。なにしろテーマが「過去という亡霊に向き合う」なのだから。
八千代もすごいキャラだったなーーー 一筋縄ではいかなすぎる。短い言葉では言い表せない。
まず、次作も主人公はユキカゼなのか? いやそれはそうか。 しかし、今回の終盤では、いよいよユキカゼが主人公の座を新たな世代へと明け渡すのかと思ってしまったよ。そんな感じのフラグをビンビンに立てていたので。でも風子もまた、クリと同じように章のゲストキャラ的なポジションとして、最後にはユキカゼの元を去っていった。あれから37年後だから、風子も47歳くらいになっているのか。結婚して子供生んでるのかなぁ……こわいなぁ……
ていうか、シリーズ上で若者だったキャラがのちに成長して結婚して子供産んでるのってヒマワリしかいないのか。みすずは独身っぽいし。祐太朗にも子供はいなさそう。ハルタと雪子の結婚はこれからだろうし。
てか、越冬編の梅っ子はもうお婆ちゃんなのか? 大正編があの頃(明治編)の約50年後だから、すでに55歳とかで、昭和編がそこから更に37年後とするともう亡くなっている可能性が高い。まぁクリとは違い化けではないから再登場はしないだろうけど……