老いていく私へ
※ 1周目と、2周目の感想メモを順に載せます。
【1周目】
プレイ日 2021年9月29, 30日
総プレイ時間:12時間40分
作者のブログによると、本作を制作していく中で考えていたキャッチコピーは「老いていく私へ」だそうで、読み終えた今、本当にその通りの、完璧なコピーだなぁと息を呑まざるをえない。
「老いていく君へ」ではないのが肝だと思う。
正直、あの「ほどけ」の展開に差し掛かったときには、うわマジか、そんなKeyみたいな、安直なお涙頂戴をやってしまうのかよ、と戦慄し落胆した。(Key作品を悪く言うつもりはありません。あれはあれで完成されていると思っています)
もちろん、このシリーズにおいて、「安直」なものなんて何一つ挟まれる余地はなく、特に今作ではより一層、時代を、社会を、人間を、人生を描こうとしているのが伝わってきた。もうやめてと叫びたくなるくらいに痛く、伝わってきた。
ただ、それでも、いくら「ほどけ」た後で、それでも続いてしまう生活をエンタメの枠内でこれ以上なく実直に描いてくれたとしても、作中にそういう展開が持ち込まれてしまったこと自体が、どうしてもどこか受け入れられず、残念に思うところはある。そう思ってしまう自分をいちばん残念に思う。
だが、プレイ後に『雪子の国』のホオズキですでに「ほどけ」が(センセーショナルでない形で)持ち込まれていたことに遅れて気付き、また、上記のように「老いていく "私" へ」というキャッチコピーを噛みしめたりするうちに、わだかまりが少しずつ解けていっている気配はある。
誤解かもしれないが、『神様になった日』終盤でだーまえ氏が描こうとして失敗したのが、『大正星霜編』において完璧に達成されている それ なのかなぁと、ふと思った。
何かを失っていくのは、君=ヒロインだけではない。
「ほどけ」とは、病気や記憶喪失とは、『AIR』の頃から(いや、『ONE』の頃からなのかな)、その人物を強制的に「ヒロイン」へと仕立て上げてしまう物語上の装置である。彼女を悲しみ、守り、救い、抱きしめ、祈り、そうやっておいしく消費できる対象にひとっ飛びで変貌させてしまう暴力性がある。
わたしはそれがこわい。嫌いなのではない。
むしろ、自分がその装置を喜んで使い、受け入れてしまう側の人間であろうからこそ、おそろしくてたまらない。
自分のなかの暴力性がこわい。
それを乗り越える1つのヒントが本作には、「老いていく私へ」というフレーズにはあるのかもしれない。
本作では、前作から40年以上の年月を経たユキカゼ、自分を「生活狐」と自称するようになったユキカゼの苦悩が描かれる。
かつて「私」だと素朴に信じられていた「私」がもうどこにも存在しないことを知り、その事実に目を背けながら生きるユキカゼの姿が。
彼女がほどけた後も、ユキカゼはまだ物語の中心にいる。
よりいっそう、目の前で老いていく「君」ではなく、老いていく私の姿が浮き彫りになり、絶望し、のたうち回るユキカゼは、この物語の主人公になっていく。
老いていく私を見つめること。
神様になった君へかけたくなる言葉を、行為を、老いていく私へと引き戻し、ヒロインなどいない、ここにある現実を生きていくこと。
そのために「君」が背中を押してくれた "ような気がする"、本作で描かれたこれくらいの落とし所が、私と君の問題系にはちょうど良いのかもしれない。
なんかポエムを書いてしまったが、その他はもう全部カンペキでした。何も文句はない。文句というか、ひたすらに頭が上がらない。すごすぎて。
作者ブログに書かれていた、本作では敢えて「遅い物語」を作ることに挑戦し、そのうえで面白さを滲み出させる工夫を凝らした……という話もめちゃくちゃ良かった。
どんでん返しでも波乱万丈でもない、明確な目的も目標もなくただひたすらに続く日常。そういう物語すきなんだよね。
いわれてみれば、わかりやすいストーリーを引っ張る要素はたしかに不在だったけれど、不在を不在だと認識しないくらいには、退屈とは感じなかったなぁ。
クリがひたすらに健気でかわいくて面白かったからかな。おトラがひたすらに魅力的な姐さん狐だったからかな。
ユキカゼが、ユキカゼだったからかな。さんにんが、さんにんでいてくれたからかな。
これで「国」シリーズの最新作まですべて終わってしまった。
2周目をやろう。次回作を気長に待ちます。
https://note.com/kksk/n/nadce0add7dd0
↑ ブログに、国シリーズを紹介する記事を投稿しました。
各作品についても色々と語っています。
よければお読みください。
以下プレイ中のメモ
・盆火
おトラと同居してるのか!?
九州の言葉だ。せからしか。〜たい。→(追記)筑豊(福岡の中央部)の鉱山らしい
情けなかった前回とは打って変わって、ユキカゼの頼りになる姿を見せることで年代が飛んだことを表している
クリという狸の姫?も配置することで、「妹」ではなく「姉」としての成長したユキカゼが鮮烈に映る
「ふに」また変な口癖?だな……
なんだこの眼鏡の男。唇男(虎彦だっけ)みたいな露骨な悪役か?
そうか大正時代って日本における産業革命やら労働運動やらデモクラシーやらプロレタリアートやら民本主義やらの時代か。
まだ幕末の香りを残していた明治初期からだいぶ社会が変わったなぁ
『さくレット』も大正時代らしいけど、ここまで時代考証ガチでやってるのだろうか。いつかやってみたい
梅干しの種を「ぷっ」と吐き出す立ち絵差分まである……
おトラさん良いなぁ
こういう、前作ではあんまり良い印象の無かったサブキャラが前面に出てきて好感度上げるのすき
そうか、もう第一次世界大戦は終わってるのか(無知)1914年〜1918年
明治編が1870年代で、これが1910年代くらいか。
須磨って神戸市か。須磨の関守ってやつよな
これは……トラ×クリかなり良い百合ではありませんこと?
王道の喧嘩ップルですわ。しかも「狐の姉と、狸の妹」という珍しい属性もついている
やっぱ決別編の五木・ハヤ・ハルカといい、この3人といい、スリーマンセルでの旅路の掛け合いは面白い。
トラクリを仲介するユキカゼのポジションがまた絶妙でいい。ハルハヤを見守る五木の立ち位置にも少し似ている。
そしてユキカゼとおトラの熟年夫婦感よ。なにがあった。てか化けって恋愛とかしないのかな。子孫残したりはできないだろうけど。
気を抜くとユキカゼを男(雄)だと認識してしまう
クリはホオズキと虹子またはヒマワリを混ぜたようなおバカお調子者お嬢様マスコットだな今のところ。
阿波の狸一族の長だったってマジだろうか
というか、今更だけど、ノベルゲームでは不向きとされる「旅」モノをやってて凄いな
ちゃんと風景画をいちいち描いてる。すごい労力
この狸の姫様おもろいな・・・行儀が良いところと悪いところの差が激しすぎる
天狗の国シリーズ個性的なキャラランキング(暫定)
・虹子
・ヒマワリ
・クリ
・ホオズキ
・雪子
・キリン
・ウルマ
・ユキカゼ
・猪飼
……
そうかこの時代に株も大衆化したのかぁ
米騒動の翌年ってことは1919年頃? 大戦から間もない時期か
おトラさんは、アンさん、ユリさんら大人のお姉さんキャラの系譜か
冒頭のややシリアスからすげぇコメディ調への転換
明治6年=1873年に別れてもう40年以上会ってない・・・大正編に一切出てこないなんてことはないよね?タイトルなのに
1875年に「大赦」でまた官が化けを呼び戻し始めた。ユキカゼは以来2度、官の任務で蝦夷に行っている
ハルカは明治初期で50歳越え……ってことは生まれたのは1820年頃?
ユキカゼは2度目の蝦夷勤めのあと、1904年〜1917年に大陸で日本人街の自警団をやっていた。
帰国後おトラと再会して以来、2年間一緒にいる。
・20世紀
この時代は「ビル」じゃなくて「ビルディング」だったんだなぁ
さすがに「国」シリーズと銘打つだけあって、ガチで日本における国──近代国家の形成を100年の物語でちゃんと追おうとしている。やべえ
日露戦争以来、絵葉書が流行っている。そうなのかぁ
めっちゃじんわりと良いシーン。雪栗亀ル。このためにクリや亀吉と名付けたのだろうか?
市井の人々の日常生活の風景を丁寧に描写するかんじは『この世界の片隅に』っぽい
ああ、阿波だから四国でうどんってことか
顔アップのスチルの差分がありすぎて実質立ち絵みたいになってる
おトラ・・・人生だ・・・内心を考えるとつらい
「ほどけ」かぁ。これまた化けの難しい設定を……
星霜編ってそういう……おトラさん・・・・・・
親もいない化けじゃあ、「なぜ私は生まれてきてしまったのだろうか」という問いも、人間の(反出生主義的な)それとはまた異なる面はあるよなぁ
本当に理不尽に耐え忍ばなければいけない。世界に、自然に振り回されてやがてはまた還っていく生・・・
・秋霜
レストラント!! いい響き
もう完全に娘の行く末を心配する夫婦なんだよな……
おトラ姐さん・・・・・・・・・・・・・・ なんでこんな魅力的なキャラを描けるんだ
ゲロ吐きノルマ達成
やっとユキカゼが俺たちの知ってる「ハヤ」の部分を見せてくれた
こいつらは砕蜂と夜一だったのか……
構成が完璧。クリに焦点がいって、おトラにいって、仲介役として影薄くも平穏そうにやっているように思われた(当時に本人もそう語っていた)ユキカゼが、ここでこうして物語の中心に引き戻される。彼女の苦悩が、いや、苦悩から逃げ続けて至った「今」が露呈される。
ユキカゼ、おトラ、クリ。ほんと良いバランスの3人組だよ……だけれど、ユキカゼにとっては「本物」じゃないんだよな……ああ……
そうか冒頭のはハルカだったのか
これは越冬編の序盤を見返さなきゃ……!
てかおトラさんってハルカより歳上ではないよね??
天保って言ってたけど、もしホントに天保時代からいたのなら大分ハルカより歳上では
・暮情
露骨におトラさんとの離別フラグが……
肉桂……シナモンか!
ステイション! カンパニといい、外来語の言い回しに趣を感じる
・宝船
尾道の光徳寺か。
おいおいまじかよ……ここにきて白痴・記憶喪失系ヒロインか? 往年のエロゲじゃあるまいし
ただ、こういうのって幼いキャラ……本作でいえばクリがそのポジションになることが多いと思うけれど、むしろクリはそのことを知らされずに健気に振る舞うことでより主人公のメンタルを追い詰める位置に回っているのはなかなかに……酷だ……
警察署の巡査がすげぇいいキャラしてる。前作の荷運び人といい、こういうサブキャラにこそ物語の価値は宿るような気がする
尾道の造船景気が傍で進んでいるのも味わい深い。物語がメインキャラだけで閉じていない。
・人間
9/30
「社会は存在しない」の車輪と同じ轍を踏むのかと心配したが、どうにもそうではないようで、ギリギリかもしれないがなんとか堪えている
しかし、クリの挫折の原因がいつの間にかクリの人間不信だけにすり替わっているのはどうなんだ。それもまたユキカゼの方便で、本人も自信が無いようだけれど。
・寅雪
と思ったが、かなりちゃんとうどんについて、料理店についての研究もしている。
ほとんど料理がメインの話になってる。……しかし考えてみれば、本シリーズはずっと美味しそうな飯を生活の風景のなかで描いてきたから、ここにきて、それを話の中心に据えるのは感慨深いというか間違っていないというか。
「ここにいる人間たちは働くために飯を食ったが、私たちは飯を食べるために働いた」というのも、こうした、シリーズ過去作からの転換を表す文にも読める。
大将がいい人すぎる・・・
筑豊でのクソ不味い飯のときも塩気がどうとか言ってたな。伏線だったのか……
飯テロと感動テロを同時にしてくるやつ
クリ坊の健気さの演出に全振りしすぎてやしないかとも思うけど、健気で泣けることといったらありゃしない
・越冬歌
ここまで人情と人間味あふれる感動話をやっておいて、急に「人間の国」として化け視点に立って俯瞰をもするから、物語のスケールと姿勢に目がくらむ
終盤で都合良くほどけが戻って感動の大団円──みたいになりやしないかと心配してたけど杞憂だった。だったにしてもこれはあまりにも酷で……完璧。すばらしい
そうか……! 大正12年が東京大震災か
おわり!!!!!
(他の人の感想を読んで)ああそうか!!! 雪子の国のホオズキも解けてたのか!今更繋がった……
【二周目】
※ 途中までしかメモを残していません。なぜなら、最後のほうは夢中でプレイしていたからです。
ハルカの国 大正星霜編 2周目
2022/8/11(Th.)〜14(Su.)
合計:9時間15分
8/11
・盆火
九州での鉱山作業。
明治的な身体性の名残り?
『キリンの国』終盤の洞窟潜りにも似ている。『雪子の国』終盤のホオズキ奪還にも似ている。身体に縄を付けて引っ張ってもらうのとか。
・二十世紀
おトラとクリが物語の中心にいて、ユキカゼはふたりの潤滑剤・仲介役に徹している。『決別編』でユキカゼとハルカの仲を五木が取り持っていたのとは対照的。
ユキカゼの話が語られるのは剣の修行(イカヅチ)の挿話くらい。あれもすぐに「炭を買って帰るか」と生活に埋もれてしまう。
絵葉書が誰かから自分の元へと届く「嬉しさ」。天狗の国シリーズで「うれしさ」はとても重要な概念。『雪子の国』とかでも出てきたと思う。
・秋霜
クリの1人仕事騒動、そして「ハルカ」の名が発端の、ユキカゼとおトラの酒飲み対決とその帰結。1人夜の路地に残されたユキカゼの慟哭と、さんにんで帰る道。帰ってからのおトラとの晩酌。 ここの一連のシーンが本作でもいちばん好きかもしれない。特にユキカゼがハルカとの別れを思い出して、自分はどうしてここに生きているんだと哭く場面。信じられないくらい泣いた。自分でも引くほど。
しかし、ハルカの国を最初からプレイしてきた我々にとっては、ここのシーンはむしろ安心する一幕でもある。なにしろ、星霜編が始まって、ユキカゼはハルカと行動を共にしていないどころか、もう40年も会っておらず、いまはハルカのことなんて頭にないように、おトラとクリという新しい仲間たちと生活を営んでいて、本人もそれを受け入れているようだったのだから。そういう、ハルカにもう執着をなくしているかに見えるユキカゼを見せつけられるほうが、明治の世に営まれたふたりの関係に思い入れのあるプレイヤーにとっては、梯子を外されるようで(あるいは寝取られるようで?)つらい。じぶんの知っているユキカゼはこんなものじゃない。今はただ、生活狐がいるだけさ。なんてのたまうやつじゃあない。やっとう狐だったろう。そして、ハルカと一緒にいることを何よりも望む者だったろう……と。
だから、星霜編を読んできて、ここでようやく、決別編までのユキカゼと、星霜編のユキカゼが「つながる」。なるほどそういうことか。やっぱりユキカゼはユキカゼだったんだ。明治6年のハルカとの勝負に負けたからといって、なぜハルカが「ハヤ」と呼ばなくなり、なぜふたりは別れたのかはまだわからないけれど、それでも、ユキカゼの心の奥底にはやっぱりハルカという狼の姿が、あの悠揚な笑みが焼き付いていて、しっかりと根を下ろしているんだとわかることの「うれしさ」よ。ユキカゼ自身がそのことをわかっていながらも、それを真正面から見据えては、大正という時代、東京という街に生きるいまの自分との断層に苦しんでやりきれないから、じぶんは「生活狐」であるということにした。闇の向こうでじぶんを見つめるあの狼を、あの顔を、あの春の風を、忘れてしまったことにした。
そうした、大正のユキカゼの抱える矛盾がおトラによって暴き出され、酒も手伝って、遂に決壊した。すべてを文字通り吐き出してしまった。
明治決別編で「"その先"はどうしようか」とぼんやり悩んでいたユキカゼが、大正星霜編では「どうして私は、ここに居るんだ」「どうして、消えてなくなれないんだ」と嗚咽する。
明治決別編で「私には最初からなにもない」と絶望したユキカゼが、大正星霜編では「私はもはや何者でもない」と慟哭する。
星霜編でのユキカゼの苦悩は、越冬編・決別編でのアイデンティティの欠如といった悩みとは微妙に、しかし決定的に異なる。もっとも重要な違いは、大正の世でユキカゼが表向きは明治の頃よりもずっと成長して、大人びて、社会の渡り方を身に着け、生きていけるようになったということだろう。明治初期のユキカゼは、化けである自分の存在の拠るべなさに生物としての根源的な畏れを覚え、剣に己を仮託した。何かにアイデンティティを託さねば生きてはいけなかったから。
しかし、そこから40年余りが経過した星霜編のユキカゼは、もはや何かにアイデンティティを託さなくとも生きていけるようになった。なってしまった。本人が認めたくないのはその事実である。
しかしおトラはそんなユキカゼに、それでも「何かもっとかないと、しんどいよ」と、真剣に伝える。後に明らかになる彼女のこのときの境遇を思えば、この言葉の切実さは計り知れない。 そう、「しんどい」のである。「生きていけない」のではない。クリはこのままでは1人で「生きていけない」のではないかと、おトラもユキカゼも心配しているが、ユキカゼに対しては、また位相の異なる助言、心からの願いをここでおトラは告げている。あんたは十分に立派に生きてはいけるだろう。それでも、高望みというのでもなく、このままのユキカゼではなにか大切なものが失われてしまう、損なわれてしまうこと自体に目を背け続けているユキカゼ自身にとって、絶対に良くないことになってしまう。「しんどく」なってしまう。そんな、漠然としているが同時にどこまでも自らの生の実感に裏打ちされた言葉がおトラからユキカゼへと渡される。
「私はこんなとこに居るべきじゃない」という身をむしばむような絶望感。おこがましいが、自分もすごく共感できる。これはある意味で、「人間」の悩みなのだと思う。とくに、人間のなかでも「大人」のそれだ。たほう明治編でユキカゼに「剣は己」「強さは私のもの」と語らせる実存的不安は、作中でも言及があるように、親も血縁者も先祖も子孫もいない「化け」というファンタジックな存在にある種特有の感情なのかもしれない。むろん、部分的に感情移入できはするし、決して人間には決して持ち得ない悩みというわけでもないだろうけれど、この悩みは星霜編から振り返ってみれば、正直なところ幼稚といってもいい、人間に当てはめれば幼年期から思春期にかけての悩みだろう。(大人からすれば、子供なんてなんのしがらみも持っていない、まるで化けのようなのかもしれない。) 学校で「将来の夢」を聞かれて、それを設定しないといけない気になる、とか。なにかひとつ得意なことがあって、これで自分は一生やっていくんだ、これが自分の道なんだと楽観的に思い込める若さがある。将来への希望に満ちあふれているからこそ、たとえその道で挫折をしたとしても、そのときじぶんに訪れるアイデンティティ・クライシスは──決別編で観念して死を受け入れるユキカゼのように──どこか牧歌的、安楽的な色を帯びる。「死ぬことができる」というのは一種の救いなのだ。この道で一生やっていくか、そうでなければ死ぬか──という単純な二者択一の問題設定を自分の人生の軸にすえるのは、楽だ。
対して、星霜編での「何故、まだ居残っているんだ」「どうして、消えてなくなれないんだ」という慟哭。……そう、「消えてなくなれない」のである。消えられるのなら、死ねるのなら楽なのに、「まだ居残っている」のである。生活するすべを身に着けてしまった。「日常」という動かしがたい現実がある。そのなかで、かつての幼き自分、若き頃の憧れや夢は、"それ" が自分のなかにあると認めることさえ許されず、その無意識下の抑圧に、日々すり減っていく。
これは「夢を忘れてしまった大人へ。今からでも遅くない、あの頃の夢を思い出して人生に輝きを取り戻そう」などという、よくある、形骸的なハナシでもない。
ユキカゼにとって、おトラはハルカよりも付き合いの長い「昔なじみ」である。そして、そもそもユキカゼがハルカに出会うことになった原因を辿ると、おトラの(何気ない)言葉に行き着く。ユキカゼとハルカの関係を考える上でおトラの存在は欠かせない。(ハルカとおトラに面識はないにもかかわらず!)
そして、このユキカゼの悩みの遷移は、当然のことながら、単にユキカゼという一人物内に留まるものではなく、明治から大正にかけての日本という「国」の変遷と符号している。大正時代からみれば、明治初期の頃の「国」はヨチヨチ歩きの子供だった。激烈な情勢にある世界のなかでも、大正時代の日本は2つの戦争に勝ち、なんとか独り立ちして立派に諸外国と渡り合うことができるようになっていた。しかし同時に、弥彦の仕事のエピソードに象徴されているように、大戦特需は一夜のまぼろし、「幽霊」のように覚束ないものでもある。これは資本主義経済が大衆に浸透した近代社会そのものの病理でもある。『ハルカの国』は日本という国の成り立ちを明治維新後から丹念に追いかけて描いているが、それは必然的に、資本主義がひとつの国に根付いていくさまを映し出すことにもなる。
*「さんにん」の関係を二人ずつの関係にわけて描く
序章:九州坑道パート〜東京神田の亀爺宅への帰還=さんにんの関係の導入。3人それぞれの働きで暴徒鎮圧の仕事をこなす。クリとの出会いの回想。ユキカゼとおトラの出会いの回想。角屋で労いの会を行なうさんにん。
おトラの第一次広島出張=ユキカゼとクリ。屋根の上でユキカゼを「名誉狸」に誘うクリ。(広島のおトラからの絵葉書に歓喜するふたり。)
クリのうどん騒動=クリとおトラ。なんとかしておトラに自分のうどんを食べさせたいクリと、彼女のためを想って頑なに食べようとしないおトラ。
クリの1人仕事騒動=クリとおトラ。クリが独り立ちできるよう必死に「姐さん」役をこなすおトラ。(店に謝りに行くさんにん。)
「ハルカ」騒動=ユキカゼとおトラ。ユキカゼの矛盾を徹底的に糾弾するおトラ。(ユキカゼを背負ってゲロをもらって帰るクリとおトラのさんにん。)帰宅したあと晩酌するユキカゼとおトラ。
8/14
・慕情
・宝船
・人間
おトラを連れて尾道から帰ってきたあと、すぐにクリのうどん編に入ることでおトラが話の中心にいかない。クリがおらず、ユキカゼとおトラのふたりの話だったら今よりもっとお涙頂戴な感じになっていただろう。
イカヅチの伏線回収。
「人間の国」「国という化け物、亡霊」
序章の九州での炭坑警備仕事もそういう人間の国の経済活動に加担して卑しいものを再生産したという伏線だったのか。
・寅雪
・越冬歌