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oldreavesさんのみすずの国の長文感想

ユーザー
oldreaves
ゲーム
みすずの国
ブランド
Studio・Hommage(スタジオ・おま~じゅ)
得点
95
参照数
153

一言コメント

たった2時間でわたしの人生を変えてしまった、わたしを国シリーズに出会わせてくれた大切なはじまりのノベルゲーム

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想



『みすずの国』をまったくプレイしたことない方は

https://note.com/kksk/n/nadce0add7dd0
人生ベスト級の物語 - 「天狗の国」シリーズをとにかくオススメするnote

をお読みください。





以下の文章は、2025/4/25の午前中に投稿した、

https://note.com/kksk/n/ndce88797c624
【祝リメイク/steam発売】『みすずの国』の好きなところを語る

のコピペです。画像を引用しているnote上で読んだほうがずっと分かりやすいので推奨します。







 はじめに

本日、2025年4月25日(金)の16:00より、『みすずの国』のリメイク版が、steamにて発売されます。

『みすずの国』はもともと、2014年にフリーゲームとして公開された、個人製作のノベルゲーム(ビジュアルノベル)です。ここから「国シリーズ」という長大な現代大河ファンタジー作品群が始まる第1作目です。
「国シリーズ」に関しては、数年前に紹介記事を書きました。

わたしは大真面目に、国シリーズは人類史に残る傑作だと信じています。
しかし、同人ノベルゲームという非常にニッチなジャンルであるがゆえに、ごく一部の人々にしか知られておらず、いち(にわか)ファンとして歯がゆい思いをしてきました。オンライン上の販売経路がDLsiteやBOOTHに限られていたことも、マイナー作品に留まっている大きな理由でした。

それが、このたび、リメイクされてついにsteamで販売開始する!!ということで、これほど大きな出来事はそうありません。
みなさんがこのnoteを読んでいる頃には、おそらくもう既に発売していると思います。2時間程度で終わる、ごく短い1本道のノベルゲームですので、軽い気持ちでぜひプレイしてみてください。よろしくお願いいたします。

さて、本noteでは、そんな『みすずの国』リメイク版の公開を祝して、オリジナル版の良さを自分なりに語ってみたいと思います。

何を隠そう、わたしは、第1作となる『みすずの国』を、シリーズのなかでも最も偏愛しているからです。

すぐに終わってしまう些細な話であり、イラストや演出も含めたノベルゲームとしての完成度は、たしかにシリーズの後継作のほうが高いです。1作ごとにどんどん洗練され深みを増していくシリーズであることは間違いありません。
しかし、それでも、ゲームなんて何も作ったことがなかったkazukiさんが、当時の衝動のままに手探りでなんとか形にした、この『みすずの国』のことが、わたしは好きで好きで仕方がありません。もう何十周したか分からないくらいです。

国シリーズをわたしよりも深く愛しているひとは、たくさんいます。(あの人とかあの人とか……)
でも、『みすずの国』に限っては、わたしが世界で一番愛しているファンだと、そう言ってしまいたくもなります。それほどに好きな作品なんです。
リメイク版がsteamで発売されて、『みすずの国』がこれまでよりずっと多くの人にプレイされるであろうこのタイミングで、わたしはオリジナル版に基づいて、いかに『みすずの国』が最高のノベルゲームかを語ろうと思います。



!!注意!!

以下の『みすずの国』語りは、本作および国シリーズの最新作(『ハルカの国 大正決戦編』)までのネタバレを含みます。少なくとも『みすずの国』はプレイしたことがあることを前提に書いています。
よって、未プレイの方は、まずは『みすずの国』を(オリジナル版でもリメイク版でもいいので)やって下さい。そのあとで読んでください。
あるいは、それすらも面倒だったり、手を出そうか躊躇したりしている方は、私の国シリーズ紹介noteを読んでみてください。よろしくお願いします。







 「私」の物語

『みすずの国』は、胸をはれない自分の存在を認めることについての物語である(と私は思っています)。けっして、意地でも諦めずに奮い立って、最後に主人公補正で覚醒する……ことが核心の話ではない、と思います。

「夢」についてみすずと愛華が話す終盤のシーンは、私が本作でも最も感動する場面のひとつです。愛華に「貴方、夢ってある?」と訊かれて、みすずは次のように気持ちの整理をつけます。

"私はすこし考えた。というより、もう一度だけ確認したのだ。これから喉の奥をとおり、口からでて音になる言葉を、いいよ、て許してあげた。私にとって、それを言ってしまうのは、まだすこし恐くて、心のざわつくことだったから。でも、もう認めるべきだろう。"

"「ないよ」"

『みすずの国』とは、あえて端的にいうならば、みすずがこの台詞を言えるようになるまでの物語です。自分に「夢」はないのだと、これまで自分が「一番大切なもの」だと思っていたものは、実はそうではないのだと、きちんと認めるまでの物語です。

"私、本当はお医者さんになりたかったんだ。国をこえて、貧しい人を助けてあげる、お金のためじゃない、人のために尽くす立派なお医者さんに。"

みすずの幼い頃からの将来の夢は、医者になって、海外で貧しい人たちのために働くことでした。幼い頃から──PTK値がはねて「天狗」になるまでは。

「天狗の国」愛宕に留学してきてもみすずは、あくまでこれは不本意に歩まされている人生の回り道であり、無事に「人間の国」に戻れたら、再び医者という夢を追うのだと、必死に思い込んで自分を説得していました。

"私は本当に大切なもの──夢をまもるために、誰かを傷つけながらでも、歩く。"

しかし、ルームメイトとなった傲慢で純粋な天才のヒマワリに、「いちびってんなや」「腰抜け」「負け犬」と激昂され罵倒された(※)ことで、みすずは逆上します。キレ返します。

※ここでのヒマワリは、けっして戦略的にみすずを煽ろうとしていたわけではない、というのがまた肝心な点です。ヒマワリ自身、心からキレて、そして悲しんでいる。「お願いだから私のもとから去らないで」という絶望が悔しさとなって反転して、このような烈しい罵倒となって表れているのだと思います。(ヒマワリについては後述)

"「お姫様だか天才だか知らないけど、あんたに私のなにがわかる。言ってみろ。私のなにがわかるっていうんだよ!」"

「私のなにがわかる」とみすずが叫んでいますが、本当にそうなのです。ヒマワリに対してだけではありません。他でもないみすず自身が、これまで築いてきた人生設計や自己像と向き合って、「私」の本性を暴こうとしている。だからこその叫びです。
もちろん、そんな自覚はないでしょうけれど、物語のテーマを考えれば、ここでみすずが対峙しているのは、ヒマワリでも「柵」でもなく、みすず自身です。

"目の前の三人を追い払う。残されたのは、私と柵。私を閉じ込めてる、柵。"

そう、究極的には、みすずしかいないのです。ここでみすずの前に立ちはだかる「柵」とは、これまでなんとなく夢見ていた自己像という"幻影"に他なりません。いわば「鏡」です。
ゆえに、みすずはこの柵を飛び越えることはできません。飛び越えません。
彼女は──ぶつかったのです。思いきり。
そして、彼女は何を得たか。

"でも、消えていなくなったわけじゃない。"

"私、今、ここにいるんだ。"

みすずは「今ここにいる私」という存在を、実存を確かめたのです。自己像の幻影に思いきりぶつかって、バラバラになって、「いってぇ……」という|生《なま》の痛みによってようやく、今たしかに生きている自己のリアリティを感じることができました。

振り返れば、みすずが「天狗」となってから、心の奥底でもっともショックを受けていたのは、自分がいないようにさせられている感覚に関してでしょう。
みすずはある日突然、法律上「人間」ではないことにされて、日本国籍と人権を失いました。(この設定マジでヤバいです。)さらに、中学校の友人知人たちからは気を遣われて距離を置かれて、まるでいないかのように扱われてきました。
それだけではありません。他人のみならず、みすず自身が「自分」を見失ってしまいます。これまで描いてきた人生設計が崩れ、一番大切な「夢」だと思っていたものが、そうではなかったことに気付いたのです。

"天狗の国に行くと決意した時。一番最初にうかんだのは、学費保険。"

天狗の国への留学費のために、みすずは自然と、医学部入学のための学費保険金をつぎ込もうと考えます。そして、そう考えてしまっている自分に気付いてしまいます。医者という「夢」を諦めることが、それほどショックではない自分にショックを受けた、といってよいでしょう。
自分にとって一番大切なもの=「夢」を見失い、まさしく「自分」がいなくなってしまったような感覚を覚えながらも、それをなんとか必死に覆い隠して平気なフリをしていたみすず。そんな彼女が、ヒマワリの激情──「自分」へと体当たりで迫ってくる想いによって、本音を、本当の己をさらけ出すことができた。それが先ほどの「柵」のシーンです。

大切な夢などない、からっぽな自分を、そういう自分がそれでもちゃんとここにいるんだ、ということを肯定できるようになる。『みすずの国』は、そういう思春期の自己破壊と自己受容を見事に描いている。
そう読み取ってしまったがゆえに、この短いノベルゲームは、初めてやったときからずっと、私を心から「感動」させるのです。


"「夢もってる奴がそんなに偉いかよって話じゃん? ……私がここにいるのだって、嘘じゃないじゃん」"

この次のみすずの独白が、『みすずの国』でいちばん好きな文章です。

"そう言って、愛華ちゃんは笑う。認めたくないなにかを認めて、口にしたくないことを口にして、最後に笑うのは、刻むためだと思う。どこか、誰にも見つからない、自分でだって二度とは立ち寄らない場所、川原の無数にある石の裏のようなところに、いま胸をはれない自分がいたことを。"

この「川原の石の裏」という素朴な比喩が大好きです。
『みすずの国』は、子どもたちが、「いま胸をはれない自分」の存在を、世間に対してというよりは、自分自身でまず認めてあげられるようになるまでの話です。
「夢」が潰えること、挫折すること。そもそも「夢」ではなかった、そんなものなかったのだと知ること。子どもながらに夢想していた立派な人生を送る「自分」なんていなかったと気付くこと。
それはひとつの〈物語〉の終わりであると同時に、しかし、そこからが本当の人生の始まりなのだと、『みすずの国』は高らかに宣言してくれている。

"「北国の桜って、北風にむいて咲くんだって」"

〈国シリーズ〉の始まりであるこの作品が、始まりの物語だからこそ、ひとつの鮮烈な「終わり」を描いていること。それが私はどうしようもなく好きです。国シリーズのなかでも、この『みすずの国』をいっとう愛しているゆえんです。

そして、結局のところ、その後の国シリーズで様々な角度から深く豊かに掘り下げられるテーマは、すべてこの第1作のなかで語られています。
みすずが、かつて思い描いていた自分などもういないことを認めて、ひとつの物語の終わりを受け入れたように、国シリーズとは「もういないもの」「終わっていくもの」を弔う物語であるといえます。みすずが柵にぶち当たって鼻血を出したのも、ひとつの弔いです。

『みすずの国』から始まる国シリーズは、これ以降も、繰り返し、もう存在しない夢=幽霊=国に憑りつかれている我々をいかに弔うか、というテーマが語られていきます。

国シリーズ全体のテーマの掘り下げはこのnoteの手に余るので深く追求はしません。ただ、『みすずの国』が単なるシリーズ導入のための軽いお試し的な第1作であるどころか、その後の長編すべての主題をすでに胚胎し、描き切ってさえいる、という意味で、シリーズ中もっともよくまとまった名作でさえあると、わたしは主張したいです。

わたしは、『みすず』の時点で完全にこのシリーズに惚れ込みました。だからこそ、国シリーズそのものが大好きになれたのだと思っています。けっして『キリン』や『雪子』をやって初めて本格的に気に入ったのではありません。わたしは、2時間程度で終わるフリーゲームの『みすずの国』をこそ、国シリーズのなかでもっとも偏愛しています。




 祐太朗と「北国の桜」

また、『みすず』と『雪子』のどちらにも登場する重要なサブキャラ、祐太朗の思想と人生の変遷に関しても要注目です。

"「僕はいい奴じゃなくなった。でも、いい奴でいられただけの頃の僕より、ずっとまともになった気がしてる。色んなことを自分で決めて、その決断で誰かに迷惑をかけたとしても、そうするしかなかった自分の弱さを噛みしめて、前に進もうとしてる」"

以下に引用する祐太朗の台詞は、『雪子の国』で最も印象深いシーンのひとつです。個人的に、祐太朗は国シリーズの主題・モチーフ("冬" とは何か、"春" とは何か)を考えるうえで最重要キャラといっても過言ではないと思っています。

"「それを避けて通ることも賢明な生き方の一つではある。ただ確かなことは、人の心の在処は本当は冬のなかだということ」"

"「身体がどれだけ遠くにいても、心は冬の寒さのなかで目覚める。その身体と心の距離に耐えられるかどうか。それを考えるんだ」"

"「いつか君の身体が温かな場所にいったとき、君が目を背けた何かが遠くで凍えている。それを耐えられるかどうかだ」"

このように言う祐太朗は、『みすずの国』での祐太朗とたしかに地続きです。ひとりの人間の生き様が、サブキャラの一人ひとりにまで丁寧に、芯に迫ったかたちで描き込まれているところが、国シリーズの大きな魅力だと思います。
そして、ここで祐太朗が語っている「人の心の在処は本当は冬のなか」という思想=生き方は、『みすずの国』でのみすずが無意識にでも選び取ってきたものに他なりません。

"厳しい寒さのなかにこそ、その血をふりしぼって紅く咲くカンザクラ。先生は、その花が美しいと言った。"

この「北国の桜」は、『みすずの国』を象徴するモチーフであるとともに、国シリーズ全体を貫いています。
雪子、ハルタ、ユキカゼ、ハルカ…… なぜ国シリーズは、「雪」や「春」に関係する名を背負った登場人物の人生を描くのか。その答えは、『みすずの国』の時点で示されているといってよいでしょう。




 ラストシーンの良さ

『みすずの国』のどこが良いかを語る上では、ラストシーンは外せないでしょう。
みすずとヒマワリが、瀬戸内海まで見渡せる「瓦投げの丘」から紙飛行機を飛ばすくだりで、物語は終幕し、エンドロールが流れます。

"「ヒマワリ、私がこの飛行機を飛ばすからさ、渡りの力でとらえて、ずっと遠くまで運んでよ」"

しかしみすずは、このとき以下のような意味深長な独白をしています。

"でも、ヒマワリは知らない。この紙飛行機が、なにで折られているのか。"

ここまでの物語をちゃんと読んでいれば、この答えは自ずとわかります。(私は1周目ではピンと来ていませんでした……)
明確な正解が作中で語られるわけではありませんが、文脈を鑑みて、この紙飛行機はみすずが出そうとしていたもみじの家への転入届だとして、十中八九間違いないでしょう。
みすずがヒマワリと同室で住み始めたのが、天狗しかいない「バラの館」。対して、みすずたち「人間あがり」がふつう入寮するのが「もみじの家」。もみじの家なら人間の仲間に囲まれて安心な生活ができるにもかかわらず、みすずはなぜかバラの館を選びました。
しかし、神通力学の授業で、ヒマワリたちエリート天狗の班に混じって落ちこぼれ、みすずはどんどん病んでしまいます。そんな失意のみすずを見かねて、同じ人間あがりの祐太朗が渡したのが、もみじの家への転入届でした。

いったんは受けとった転入届を、みすずはヒマワリにひた隠します。ヒマワリは確かに、天才ゆえのエゴイスティックな無邪気さで、みすずをここまで追い詰めている張本人ですが、しかし天狗の国でみすずをもっとも慕ってくれているのもまたヒマワリだからです。

"このまま言ってしまおうか。この勢いのまま。胸に隠した袱紗の存在を、吐き出してしまおうか。"

『みすずの国』の後半のドラマは、こうしたみすずの「ヒマワリ(バラの館)を取るか、人間の仲間(もみじの家)を取るか」という葛藤が中心にあります。
その二者択一は、これから3年間、天狗の国でどう生活していくか、という進路の悩みでありながら、その先まで含めて、これからどういう「自分」で生きていくか、という生き方の問題でもありました。(前述の、自己像をめぐる逡巡がこれです)

この葛藤はけっきょく、すでに見たように、ヒマワリの激昂に対するみすずの逆ギレ──「もういない自分」を体当たりしてぶち壊すことで、決着をみます。袱紗に包まれた転入届は、その本来の用途で使われることなく役目を終えました。
そんな、ヒマワリとの絶縁を意味するに等しい転入届を、あくまで本人には知られないままに折って紙飛行機にする。そして、

"「ヒマワリ、私がこの飛行機を飛ばすからさ、渡りの力でとらえて、ずっと遠くまで運んでよ」"

かつてみすずを追いつめたヒマワリの天才的な神通力によって、「ずっと遠くまで運んで」もらう。
……こんなにも、こんなにも完璧なシチュエーションがあるでしょうか。最高のラストシーンだと思います。あまりにも出来過ぎている。

『みすずの国』をプレイした方のよくある率直な感想として、「短すぎる」「ようやくここから本番だってところで終わってしまった」というものがあります。無論こうした感想は、『みすずの国』をじゅうぶん楽しんだからこそ出る台詞です。これから先のみすずとヒマワリの天狗の国での学生生活(青春)を見たい!という想いはよ~くわかります。
しかしながら、それでもわたしは、『みすずの国』はこのシーンで終わるべきだと、ここで終わっているからこそ名作たりえているのだと信じています。

これまで語ったように、『みすずの国』は、みすずが「胸をはれない自分」を認めてあげるようになるまでの物語です。そんな「胸をはれない自分」を象徴するのが、もみじの家への転入届に他なりません。
そんな転入届を、ヒマワリの神通力の力を借りて、「ずっと遠くまで」飛ばす。これもまた、人間の国で医者になるという夢を抱いていた、かつての自分への弔いでしょう。

さらに、紙飛行機を飛ばしている先が重要です。

"「人間の国にまで届くかな?」"

──そう、天狗の国にいるみすずは、これまで生きてきた「人間の国」に向けて紙飛行機を飛ばすのです。天狗の国でできた天狗の友だちの神通力によって。
まさしく、もみじの家=「人間」としての人生、との決別です。
ある日とつぜん「人間」から「天狗」に "なってしまった" 15歳の少女の物語として、これ以上にふさわしい締め方をわたしはしりません。
天狗の国というファンタジーを用いながらも、挫折して悩みながら、自らの人生を選び取る子どもを描いた青春ジュブナイルとして、普遍的な強度をもっていると思います。

このように、主人公のみすずに焦点を当てただけでも、実に豊かな奥行きを有するラストシーンですが、別の見方をするとさらなる魅力が味わえます。





 ヒマワリの物語

『みすずの国』にとってヒマワリというキャラクターは如何なる存在でしょうか。主人公のみすずが天狗の国で運命的な出会いを果たす「天狗のお姫様」であり、「十年に一人の大天才」であり、ルームメイト。

"ヒマワリは自分が天才であることを、知っている。ヒマワリに見つめられて、その瞳をみて、私にはそれがわかった。"

そんな無邪気な天才のヒマワリとの関係にみすずが思い悩む展開が後半を彩っています。
しかしながら、思い悩んでいたのはみすずだけではありません。ヒマワリだって、もうひとりの主人公といえるくらいには、自身のドラマを生きています。
紙飛行機が「人間の国まで届くかな?」というみすずに、ヒマワリは「それは無理よ」「私にはできない」と返します。

"「ヒマワリにもできないことってあったんだ」"

"「なんでもはできない。でも、なんでもできるようになりたいと思って、努力はしてる」"

どこかの猫の怪異に憑りつかれた委員長のような物言いですが、このラストシーンは、これまで「圧倒的な天才」としてみすずの前に聳え立っていたヒマワリもまた、みすずと同じようなひとりのあどけない少女であることを明かしています。

"「私、初めてよ。人間の街を見るのも、海を見るのも……」"

ヒマワリの神通力でも、「人間の国」まで届かせることはできない。のみならず、そもそもヒマワリは「人間の国」になど一度も行ったことがなければ、見たことすらなかったのです。(その無力さ、小ささの隠喩として、紙飛行機が届かせられない、ということが描かれているのだとも読めます)

ここにおいて、みすずとヒマワリ、「人間の国」と「天狗の国」という構図が鮮やかに反転します。

「人間」だったみすずは理不尽に「人間の国」を追い出されて、得体の知れない「天狗の国」に来て暮らすことになる。『みすずの国』はそんなみすずの旅の物語でした。
しかしながら、ずっと「天狗の国」に閉じ込められて生きてきたヒマワリからすれば、「人間の国」こそが得体の知れない、しかも天狗の国よりもずっとずっと広くて大きい未知の世界なのです。天狗の国は、京都の山奥にある「特別自治領区」、「小国家」に過ぎません。

ただでさえ天狗は「人間の国」には行けないのに、ましてヒマワリは天狗のお姫様です。文字通りの箱入り娘として、物心ついてからずっと、大切に育てられ、監視されてきたことでしょう。(この辺りの境遇は『キリンの国』を読むことでさらに味わい深くなります。ヒマワリが鞍馬の国というグロテスクな構造のなかで、どれほど可哀想な扱われ方をしているか……)

「天才」と呼ばれながらも何でもできるわけではないヒマワリ。
「人間の国」を知らないヒマワリ。
「人間の国」までは届かない紙飛行機。

そんな、みすずとは対照的ながら、間違いなく苦悩の道を歩んできたちっぽけなヒマワリの一端を垣間見て、みすずは思います。

"この子にも、人知れず石のうらに刻まなければならないような思いがあるのだろうか。"

「川原の石の裏」の比喩がここで再びあらわれます。
ひとはみんな、「人知れず石のうらに刻まなければならないような思い」を持っているはずである。そんな経験をするはずである。それは「人間」も「天狗」も同じだと、ここでみすずは気付きました。

ところで、みすずに初めて出会ったとき、ヒマワリはこう言っていました。

"私たち似た者同士なのね!"

そう、みすずとヒマワリは「似た者同士」なんです。ヒマワリは最初から気付いていた、いや、そう願っていたのです。
対照的な道行きながら、しかしどちらも国境を越境して、不安を抱えて愛宕の国にやってきた小さい子どもの異邦人です。ヒマワリは出会ったときから、みすずを自分の同類だと感じて、親近感を覚えていました。右も左もわからない新天地で、寄る辺ない自己を支えるための、大切な友達として。

だからこそあんなに懐いたのです。だからこそ、神通力学の授業で諦めようとするみすずをあんなにも必死に励まして、追いつめ、最後には激昂したのです。
私には、ここでのヒマワリが、どうしようもなく泣いているように見えます。寂しさで胸が張り裂けそうに見えます。
みすずがどうでもいい存在だったら、こんなにも怒りません。みすずが自分のもとを去ったらどうしよう、という想いで苦しんでいなければ、こんなにも烈しい言葉は使いません。
この前夜、みすずは二段ベッドの上から、押し殺したすすり泣きの声を聞いていました。聞いてほしいけど聞いてほしくない、小さな呼びかけを耳にしていました。

"「うちのこと、嫌いになったらあかんよ」"

みすずがヒマワリに袱紗を隠していたように、ヒマワリもまた、みすずに知られたくない「弱い自分」を必死に隠して抱えていたのです。

"「私たちは友達になる。忘れないでよね」"

そんなふたりが、「友達」になって、もみじの家への転入届を折った紙飛行機を、「天狗の国」から「人間の国」へと、渡りの力で飛ばす。

もう一度いいます。

──こんなにも、最高のラストシーンがあるでしょうか。

『みすずの国』は、人間から天狗になってしまったひとりの少女が、かつて抱いていた自己に別れを告げる物語であり、同時に、不安を抱えて国境を越えてやってきたふたりの少女が、運命的な出会いをして友達になるまでの物語です。

ひとつの〈終わり〉と〈始まり〉を、短いボリュームのなかで見事に描き切っている短編ノベルゲームだと、私は思います。








 おわりに

さて、『みすずの国』について語りたいことはまだまだあるのですが、そろそろ『みすずの国』リメイク版が発売開始してしまうので、泣く泣く筆を置きたいと思います・・・。(どうしても、リメイク版の発売までには公開したかった!)

未来の自分への宿題として、本記事で書けなかった、書きたかったことをざっくりまとめておきます。

・ラストシーンの魅力/見方はまだまだ他にもある。一度は高く舞い上がるも、"やがて落ちていく紙飛行機" の軌道は、それ自体が国シリーズの主題、終わりつつある自己=国……を暗喩していると読める。

・「国境を越える」こと、境界線を越えることについての物語であること。身体の内側にある「国境」(ジュディス・バトラー)。「法」という、国家の暴力によって個人の人権が剥奪され、「人間」の境界線から外される理不尽を最初からありありと描いていること。かつてのみすずの「夢」が "国境なき医師団" であったことの必然性と意味について。

・経済、資本主義について。みすずの留学費は、お爺ちゃんの畑を売って捻出していることの意味。「いまはもうない、私の王国」。

 "いまはもうない、私の王国"

→楽園的な幼少期へのノスタルジーと、その終わり。1作目から、資本主義が背後でうごめいている点の指摘。『キリンの国』の国家予算の話、『雪子の国』「早春賦」のグローバル資本主義の話、そして近代日本の経済史と密接に関連する「ハルカの国」に繋がっていくことについて。(資本主義には「国」という境界線は関係ない。線引きなしですべてを飛び越えて繋ぎ、横暴な力を行使する)

・季節と気温、高低について 冬から春にかけての物語→国シリーズにおける「冬/春」概念 北(岩手)から南(京都)へと南下する物語 山を登る物語→標高による寒暖差と、季節の相対的な移り変わり ラストシーン(瓦投げの丘)の舞台設定 ヒマワリとの二段ベッドの上下関係 神通力学の授業課題→「高い竿の先端に触れる」「高い壁を越える」

・冒頭について

"学校登山で早池峰に登ったときのこと" → 柳田国男『遠野物語』への目配せ。民俗学と近代日本の歴史・政治を扱うことを宣言している!生理のエピソードから始まる点→国シリーズにおける性(ジェンダー・セクシュアリティ)と政治性。要研究

・お母さんと別れるシーンがマジで泣ける件について。(なんなら最序盤のバス内で飴を貰うくだりでもう泣ける)

・後日談漫画「早春賦」の良さについて。これが人生で初めて執筆した漫画だとは思えない傑作。ものすごい抒情と余白。











【初見の感想】


プレイ日時:2021年09月24日
プレイ時間:2時間45分

 "天狗の国、ヒマワリと少女"


本サイトでとても評判の良い同人ノベルゲームシリーズということで興味を持ち、まずはその第1作から手に取った。とても短いし、中央値も70点とそこそこなのでさほど構えずに気楽にプレイを始めた。

その結果・・・・・・



※【注意】以下、プレイ中のメモ。最後にクリア後の簡単な感想があります。※




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もしかしてテキスト非表示にできない??

京都駅。3月の初旬

アニメ「ローリング☆ガールズ」の京都回を思い出す
あるいは「岬のマヨイガ」とか「ふらいんぐうぃっち」みたいな雰囲気・世界観

フラテと同じく写真をぼかした背景。かなりぼかしていて童話的な雰囲気にあってる。

ピアノとアコギのBGM曲がいい

文章が丁寧でギャルゲーっぽくなくていい。というかギャルゲじゃないのか、少女主人公だし

盛岡出身か

生理がテーマなのか? 冒頭のモノローグからあれだし。かなり風変わりで面白い方向性

牧信二!? 強豪校でPGやってそう
野球部かい

百合だ・・・・・・・・・・

天狗の四大国と「若葉かわし」制度が面白い
こういう人外の独特な文化圏のファンタジー作品といえば、小学生の頃に愛読していたエリン・ハンターの小説『ウォーリアーズ』シリーズを思い出す。
物語の構造としてはハリポタにも似てる。

これが男主人公だったら、典型的なエロゲ/ラノベ主人公として羨ましいポジションに優遇されるウザいやつとして映っていたのだろうけれど、少女だからか、彼女の描き方がいいのか、ちっとも嫌味がない。素直にいいなぁと思える。

種族差別と国家間の関係の話と思えば、わりと壮大なテーマではある

おもしれ〜〜
同種族(人間あがり)の友人4人と、天狗の若葉かわし3人組の輪の両方に微妙な形で関わることになってしまう、絶妙なポジショニング
この人間関係はかなりおもしろくて好み

初音ちゃんも意外と良い子やん!
「スズ」とか「ヒマ」って呼び方いいな

生理だけじゃなく巨乳設定まであるのか……
しかし、どう考えても美少女ゲーム・萌え文脈ではない

ヒマワリめっちゃかわいい
ちょっとフレデリカっぽい? 鼻歌うたってるし

神通力の覚醒描写、卍解──天鎖斬月の死覇装かと思った
ヒマワリの天才描写がうますぎる・・・文章すげえ

エレンの立体機動訓練を思い出す

泣くわこんなん。てか泣いてる

祐太郎、美鈴に気があるのか。告白の仕方がすげぇさり気なくてビビる

「僕はいい奴じゃなくなった。でも、いい奴でいられただけの頃の僕より、ずっとまともになった気がしてる」

祐太郎の言ってることもすげぇわかるというか、良いことなんだよな……
それに「……うん」とそっけなく返す美鈴がまた……

実質リズと青い鳥か?
才能の差による断絶の話
こっちはそもそも種別が違うんだけど

"眩暈がするような怒りが、身体のなかでのたうちまわる。
苦しさが頭の芯から電撃のようにひろがり、私を切り刻む。
悲しさが炎のような温度で、涙腺からふきだした。"

disjointしなかったのぞみぞ

すげぇ少年マンガの1話みたいだ
なんでこんなに泣けるのだろう。それは、文章も演出もめちゃくちゃ良いからです。

ヒマワリに対する表明でありながら、同時にどこまでも美鈴自身のこれまでとこれからへの決意の行為でもあるんだよな

フラッシュバックとして矢継ぎ早に出される人間時代の中学校の背景たち。背景CGってこういう贅沢な使い方もあるんだな
フリー素材だからこそなのだろうけれど

国境なき医師団が夢か……それで「みすずの国」だもんなぁ……いろいろと考えちゃう

「君は特別な人になれるよ。これから出会う、色んな人の」
祐太郎、名言製造機か?

"認めたくないなにかを認めて、口にしたくないことを口にして、最後に笑うのは、刻むためだと思う。
どこか、誰にも見つからない、自分だって二度とは立ち寄らない場所、川原の無数にある石の裏のようなところに、いま胸をはれない自分がいたことを。
そうしなければ、救われない心があるから。"

"私は待った。
なにかタイミングのようなものが訪れてくれて、私たちの背中をおしてくれることを。
きっと愛華ちゃんも同じだったと思う。
でもそんなものはやってこなくて、結局、自分たちで口にするしかなかったのだ。"

もうこわいよ。こわすぎる。なんだこのゲーム。すごすぎる

"人間の国"

「なんでもはできない。でも、なんでもできるようになりたいと思って、努力はしてる」

え、その紙飛行機は何の折り紙? お母さんへの手紙?


ほぼKAZUKIさん1人でやっててすげ〜〜〜ノベルゲームって本当にすごい媒体だなぁ

愛宕山に聖地巡礼いきたい

おわり!!!

ものすごくこの続きを読みたいんだけど。
続編は同一世界設定での別キャラ・別の国の話?
美鈴とヒマワリのこれからを見たい・・・・・・確かにこれで区切りは付いているんだけど。でも読みたいよ・・・
2人が出てくることを期待してシリーズの続きを進めるか。
さほど評価の高くない1作目でこれなら、続編はどうなっちゃうんだ……と恐いまである。


ちょっと良すぎて、というか凄すぎて、1周ではこの作品の良さを十全に汲み取れてはいない。
特に最後の愛華との会話での「石の裏」のくだりとか。
こういうのを「深い」作品って言うんだよ。人間の、人生の機微がヤバい。語彙が………人生経験が圧倒的に足りない。
何も語れないほどに素晴らしかった。
「人生観が変わるゲーム」なんてアホらしいと思っていたけど、本当に凄い作品に向き合ってしまうと、確かにそうなるんだな、というのがわかった。
それでいて、全然押し付けがましくない。何かの人生訓やお仕着せのメッセージを明確に打ち出してアピールしてくるのでなく、ただ、登場人物の生き様で、内省で、語りで、結果的にこちらまで届いてしまう何かがある。そういう作品だった。


あ、そういえば冒頭の生理の話は結局回収されたのか?
読み返すに、どうやら「PTK値が閾値を超えてしまうというものすごく低い確率」に繋げるためのものっぽい??



【2周目プレイ後の追記】
「紙飛行機」に使ったのは提出寸前までいった転寮届けっぽいですね・・・初見で気付けよ・・・・

にしても、ヒマワリとの別れの決断の象徴であり、また「人間として生きていく」こと、子供の頃からの夢に安住する自分の象徴である転寮届けを、人間の国に向けてヒマワリの渡里で飛ばしてもらう、という、このラストシーンの美しさにつくづく愕然とする。

読み返し、シリーズの他作品をやってからまた読み返すことで、どこまでも深みが増していく大傑作ですよこれはやはり。