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oku_bswaさんのサクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-の長文感想

ユーザー
oku_bswa
ゲーム
サクラノ詩 -櫻の森の上を舞う-
ブランド
得点
85
参照数
10377

一言コメント

「幸福に生きよ」から「幸福の先への物語」(幸福な生)へ。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

※『素晴らしき日々 ~不連続存在~』にも触れているので注意して下さい
・すかぢ氏がメインを担当した作品のプレイ事情
未プレイ…『二重影』『モエかん』『サクラノ詩 ~春ノ雪~』
プレイ済…『終ノ空』『素晴らしき日々』


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凍結され続けていた、サクラノ詩プロジェクトがついに再始動。
「言葉と旋律」「幸福に生きよ」をテーマに書き上げられた『素晴らしき日々~不連続存在~』のすかぢが、そのテーマを踏襲しつつその先の物語である『サクラノ詩』を描ききる。
原画家には狗神煌、籠目を起用。10年越しの物語が実力派スタッフによって結実する。
素晴らしき日々の先の話、梯子の上にある風景は、それは反哲学的物語。ごく自然な日常の物語。
(公式サイト Storyより抜粋)
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本作『サクラノ詩』は『素晴らしき日々』(以下『すば日々』)の先を描くという明確な目的の基に生み出された作品だ。とはいえ未プレイでもストーリー展開を楽しむ上で何ら問題はないし、『すば日々』から共通して言える事だが、哲学書や古典文学からの引用を多用して作品内容に色濃く反映させつつも、それに対する知識がなくても作品テーマやキャラクターの生き方が響く作りになっている。そして、その上で考察の余地が与えられている。(例えば抜粋した部分でも「反哲学的物語」は「哲学的な物語ではない」という文字通りの意味にも取れるし、或いはお馴染みウィトゲンシュタインの哲学書『反哲学的断章』を意識しているのではないかと推察することもできる。)

電波、狂気、鬱など人を選ぶ要素が満載でありながら、最後は美しさや清々しさを感じさせる物語へと昇華した『すば日々』と比べると派手さは控え目で、エンターテイメント性という部分では本作は弱いと言えるかもしれない。(ごく自然な日常の物語と謳っているのだから仕方なくはある。)
それでも、主人公・草薙直哉を中心にした過去・現在・未来に渡る世界との交流を通して、『すば日々』でも投げかけられた「幸福とは?」「生の意義とは?」といった問いに対してより他者の存在(意義)を主張する帰結、更には「作品は何のために生まれるのか?」というクリエイターにとって究極とも言える命題(そしてそれはユーザーにとっても無関係ではない)にまで発展する本作は、その先を描いた作品として恥じない内容に仕上がっていたと思う。提示した問いに対して見事に描き切った一方で、物語としては未消化な部分があるのが評価の難しいところではあるが、事前のすかぢ氏の発言(※1)で知るところではあったし、自分としても一つの作品・一つの区切りとしてはこれで良いのだと思う。

それにしても美しい作品だった。芸術や美にまつわる話が作中でも多く登場するが、ピアノ主体の透明感のあるBGMに耳を傾けながら、日本的な美の象徴である桜を背景に詩のような台詞を口ずさむキャラクターを見ていると、まるでその場面が一つの芸術作品のような気さえしてくる……と、そんな恥ずかしい事を臆面もなく言えるくらいには雰囲気に呑まれた。(実際は美しさだけでなく卑猥な発言もかなりあるのだがそれはさておき。)
文、音、絵が三位一体となって物語を構成しプレイヤーを魅せるのがノベルゲームの一つの大きな魅力であるが、本作はその醍醐味を存分に味わわせてくれるものであった。



『サクラノ詩』は全六章から成る物語で、次のような構成になっている。
一章「Ⅰ Frühlingsbeginn」(共通ルート1)
ニ章「Ⅱ Abend」(共通ルート2)
三章
「Ⅲ PicaPica」(真琴ルート)
「Ⅲ Olympia」(稟ルート)
「Ⅲ ZYPRESSEN」(里奈ルート)
「Ⅲ A Nice Derangement of Epitaphs」(雫ルート)
四章「Ⅳ What is mind? No matter. What is matter? Never mind. 」(過去編:水菜ルート)
五章「Ⅴ The Happy Prince and Other Tales. 」(最終ルート1・藍エンド)
六章「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」(最終ルート2)

細かな表現の違いはあれ、概ね頷ける位置付けかと思う。ただ、ここで留意して欲しいのはルートとエンドは違うものとして区別していること。何故なら藍とその他のヒロインとでは単純なボリュームの差もあるが、人を愛することの価値観が異なっているから。
また六章は攻略制限上最後に到達するルートなだけであって、トゥルールートではないと捉えていること。そこには個人的な優劣(私は稟ルートより六章の結末の方が好きだ)は認められても、存在の優劣(三章のそれぞれの結末は前座に過ぎず、六章こそが唯一無二で真の結末だ)は認められない。何故なら三章での各ヒロインとの恋愛もまた、六章で導かれる弱き神と共にあるものであり、そこに幸福があるから。(この部分に関しては後半詳しく触れます。)

さて、本作はすかぢ氏がメインシナリオを担当したエロゲでは初めての日常的な作品であり、今の市場の主流である学園恋愛物の形式に則っている。これは今までの作品との明確な違いだ。そして氏は『TECH GIAN』2014年6月号のロングインタビューで、「書けないもの」という問いに対して「恋愛」と答えている(※2)。ならば作中で恋愛がどのような物として扱われているか考えることは、本作を理解する上で一つの指針になるのではないか?という疑問を出発点にして話を始めていきたい。

①恋愛だけを描き、且つその中で相互補完的に物語を発見(更新)していくⅢⅣ
作中で「草薙の人間は一途」と何度も言われていたように、直哉と健一郎にとって人を愛することは比類なきものとして扱われている。
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【真琴】「ときどき私、すごく不思議に思うのよ。
愛ってものが、とても大切なものとして扱われることについて」
【真琴】「君を守るために世界を敵に回すとか、そんな物語はいくらでも
溢れててさ、それって、愛のために世界を敵に回すってことよね?」
【真琴】「ひとつの理想として、比類なき美しいものとして、愛は語られ、
愛とそれ以外の全てが、天秤にかけられる」
【真琴】「愛と、その他の全ては等価値なのかしら。天秤は釣り合っている?」
【真琴】「現実でもフィクションでも、大切な恋人を置いて去っていく男って、
けっこうな割合でいるわよね?」
【真琴】「どうしても叶えたいこと、栄光のために、理想のために、平和のために、正義
のために……愛以外の美しいもの……」
【真琴】「愛はあまりに大きすぎて、他の大事なものと共存することが
できないのかもしれない……私は男ではないけど、それはわかる気がする」
(「Ⅲ PicaPica」)
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この真琴の言も直哉と健一郎にとっては決して大袈裟ではない。

直哉は三章のいずれのルートでもムーア展へ向けて絵を描く(圭の想いに応える=夢を目指す)ことはしなかったし、恋愛と夢を秤にかけて苦悩する描写もなかった。愛の前で極めて自然に、当たり前の事として取捨選択が行われている。また健一郎も水菜を救うために左手を犠牲にし、莫大な借金を負うことも厭わなかった。二人にとっては愛の前では何もかもが些細な事であり、その愛を阻害することはできない。
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真琴は、愛以外を手に入れることはできなかった。
だが、その愛こそが、俺にとっての
なんでもない時をもたらしてくれたような気がする。
真琴を好きになってよかったと思う。
俺と真琴の間には、愛以外はないのだ。
他の深い絆も、傷も、過去も、何ひとつない。
(「Ⅲ PicaPica」)
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愛とは比類なきものであり、その前では全てが些細な物に過ぎない。そう考えると、ここで多くの学園恋愛物で普通とされている展開に対して懐疑が生まれ、それが三章における各個別ルートで、現在の時間では恋愛しか描かれていないことへの理由付けになる。

個別ルートにおいて話の中心になるのは、過去に直哉とヒロインがどのような交流をしてきたかであり、現在の時間でこれまでと全く関係のない新たな問題が発生するとかそういう作りにはなっていない。描かれるのは過去を起因とした問題と恋愛にまつわる事だけだ。そしてそれは、攻略制限のある後半のルート(核心に迫る真相が明かされるルート)になるにつれて顕著になっていく。

浅生詠氏が担当した真琴ルートは一番普通の作りで、過去に比重が傾きすぎることもなく現在での母親との確執が問題となる。(ただしそれは付き合う前に全て解決され、恋愛を阻害する問題は生じない。)
稟ルートは現在の時間から過去を解き明かすことが話の中心になり、二人の関係を阻害する存在として長山香菜も登場するが、後半の展開はどうにも強引という気がしてならなかった。(勝手な想像だが、稟ルートはすかぢ氏が担当した箇所では一番苦心したように思う。)
里奈ルートはZYPRESSENの夜も含め、語られるのは夢を通した伯奇と時綱の悲愛、男→女←女の変則的な三角関係における恋の成就と失恋、つまり恋愛だけが描かれている。
雫ルートは最たるもので、過去の回想(真相を明らかにすること)を除いたら殆どが恋人同士の営みで、現在の時間で印象に残る場面なんておまんこくぱぁくらいのものだろう。

やろうと思えばもっと山場を設けることも出来ただろうに、どうしてこのような作りになっているのだろうか。その理由となるのが、前述した学園恋愛物で普通とされている展開に対する懐疑であり、それについて触れるためにまず学園恋愛物における個別ルートの流れについて考えてみたい。

・多くの学園恋愛物(萌えゲー)における個別ルートの流れ
主人公とヒロインが紆余曲折ありつつも無事に結ばれる→イチャイチャ(複数回エッチ)→二人の関係を揺るがす問題発生→それを乗り越えてハッピーエンド(締めのエッチ)

勿論全部が全部この流れに沿っているわけではないが、概ね当てはまると思う。だが本作の場合はこの流れに適さない。愛とは比類なきものであり、夢を切り捨て、身体の一部を差し出し、莫大な借金を負うことも些細な事に過ぎなかった。これほど大きな存在である愛を前にして、一体何が愛を揺るがす問題となり得るのだろうか?

そもそもどうして他の作品ではあんなに次から次へと問題が生じるのだろう。愛とはそんな簡単に揺らぐほど軽いものなのか?ただ愛を描くだけではいけないのか?それは物語としては必要な起伏なのかもしれないが、恋愛を描く上で本当に必要だったのか?…etc.
三章において物語となるのは既に終わっている過去が中心で、現在の時間では恋愛しか描かれないのは、愛を比類なきものと捉えた故に生まれた懐疑が根底にあるからだと思う。

話は変わるがここで作品構成・伏線ついても軽く触れておきたい。二章で単にエキセントリックな男でしかなかった明石への印象が一転して情熱的で義に厚い男へと変わり、そこから皆で一つの作品を創り上げる展開は圧巻の一言だったし、吹の正体や稟の記憶喪失の真相が明かされた時も大いに驚かされた。巧みな伏線回収、それは本作の大きな魅力だ。だが自分が最も評価しているのは、回収した伏線を用いることで、プレイヤーが既に読み終えた部分の物語から新しい発見を得られる(作品を更新できる)要素を多分に含んでいるところにある。

例えば真琴が圭の姉(更には後半の圭の死)という事を知っていればニ章での真琴と圭の会話はより感慨深くなるだろうし、吹の正体を知っていれば稟ルート冒頭で吹が稟に投げかけた台詞(「いいえ、何でもありません!御桜稟さんは可愛いですね!以後私の事は母親の様に慕うと良いでしょう」)は単なる冗談には収まらないと分かる。また、一章での稟のとある発言はクリアした後だと六章での関係を暗示しているように思える。(この部分は後半詳しく触れます。)
恐らく自分が確認していないだけでまだまだあるだろうし、本作はプレイし直すたびに新たな発見があり、作品が更新されていく。それを可能にした、一つ一つの台詞から全て計算しつくされているような緻密な作品構成を自分は何よりも評価したい。


②恋愛を描かずに、幸福(メインテーマ)を考えることを追求したⅤⅥ
恋愛を描かないと言い切るのは語弊があるので言い直すと、藍エンドでも確かに愛は描かれているが、それは草薙の人間が持つ恋愛観に依るものではない。
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【藍】「人は一人で生まれて、一人で死んでいく」
【藍】「その間だけでも、その寂しさが無くなれば良いと考える」
【藍】「もしかしたら、愛っていうのはそういう事なのかもしれない……って思うんだよ」
【藍】「人は寒さに耐えられないから、人を愛する」
【藍】「寒さに耐えられるのなら、もしかしたら愛なんていらないかもしれないな」
【直哉】「愛ってそんな受動的なものか?」
【藍】「だって、私は恋愛経験が乏しすぎるからな……」
【藍】「語れるほど、多くの愛を知っているわけじゃないさ」
【藍】「直哉は愛の事をどう思うんだ?」
【直哉】「知らねぇよ。ただ好きになって、そいつと一生添い遂げたいと思う事なんじゃないか……ぐらいだ」
【藍】「お前らしいな……」
【藍】「お前らしくていい意見だ」
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藍の恋愛観は直哉からすると随分と受動的だが、藍エンドではそれに引っ張られ慰め合うような形で肌を重ねることになる。そしてこの後、藍はこう続けている。
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【藍】「一生とかそういう宣言なんていらない」
【直哉】「なんだよそれ……藍が教師で、俺が生徒だからか?」
【藍】「いいや、直哉が私を愛するのなら、私はいくらでもお前を愛する」
【藍】「私はいつまでもお前の側にいるよ。お前が私を必要としれくれるのならばな」
【直哉】「だから俺はっ」
【藍】「それはさ。夏目のお婆さまの洗脳だって、直哉も言ってただろ?一生とかそういうのって……」
【直哉】「う゛……」
【藍】「言葉なんかいらないよ」
【藍】「私はお前が欲するなら、なんでもするさ」
(「Ⅴ The Happy Prince and Other Tales. 」)
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直哉の恋愛観をやんわりと否定し、いつまでも側にいて求められたならばいくらでも愛するという、まるで聖母のような答えを返す藍。この心境は彼女以外には誰も辿り着くことができないだろう。
直哉の恋愛観は相手からするととても心地良いはずだ。何を差し置いても自分との愛を優先してくれるのだから嬉しくないはずがない。愛する者からそう宣言されて受け入れないなんて普通は有り得ない。これは生まれた時から直哉の側にいて、そして水菜と死に別れた健一郎の姿を見てきた藍だからできたことであり、ただひたすらに側にいて愛することができる彼女だからこそ、『幸福な王子』に登場するツバメ足り得たのだと思う。

ここまで恋愛という観点から作品を追ってきたが、残すは五章で藍と肌を重ねなかった先に待つ展開、つまり六章だけだ。ここまで物語を動かしてきた過去(千年桜伝承と中村家と草薙・夏目家の因縁)の真相は一~四章で全て解明されているし、比類なき存在である恋愛も描かれない。ならば六章では何が描かれるのかというと……、それは本作の最重要テーマとも言える「幸福」だ。



本作の大きなテーマである「幸福」。それはどのようなものであり、直哉は何によってそれを知ったのだろうか。ここでは『サクラノ詩』単体で見た場合と『すば日々』と絡めて見た場合の二つの視点から考えてみたい。どちらも他者によって導かれ成立するという点で共通している。

・『サクラノ詩』単体で見る場合
最終ルートは「幸福とは普遍的で理想的なものではない」という主張からスタートしている。圭の余りに唐突で不条理とも言える死はその証明に他ならない。

無事に授賞式に到着した圭。直哉と互いの絵を賞賛し、夢への誓いを新たにする。
稟を始めとした美術部の面々も皆、それを見て二人の夢を応援する。
直哉の断筆による長い空白期間があったが、二人の夢に向かう歩みはここからまた始まるのだ…。
【完】

例えば本作がこのように終わっていたら、誰もがこの結末を理想的なハッピーエンドだと認めるだろう。……だけど実際はこうはならなかった。圭は死んでしまった。或いは上のようなハッピーエンドで終わったとしても、その翌日に圭が交通事故に遭って死んでしまうかもしれない。そしたら意味がない。なら直哉と圭が世界的画家として大成するところまでにしよう。それでも今度は藍が翌日事故に遭って死んでしまった。ならこれも意味がない。それなら次は…。
理想的な(度が過ぎた)幸福とは砂上の楼閣のようなものだ。

幸福というのは誰もが見て一瞬でそれと分かるような理想的なものじゃないし、苦痛や不幸の裏返しでしかない。だがそれ故にいつだって人の側にあるもので、失われることがないというのが本作の帰結であり、直哉は過去・現在・未来に渡る世界との交流、連続した日常の中でそれを理解する。
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【直哉】「だから学生に酒をすすめるなよ」
【若田】「だったら呑める時が来たら、開ければいい。
……ウイスキーっていう言うのはそういうもんだ」
【直哉】「そういうものなのか……」
【若田】「そういうもんだ。幸福と同じなんだよ」
【直哉】「意味分からん」
【若田】「ガキには分からんだろうな」
【直哉】「さいでっか」
(「Ⅰ Frühlingsbeginn」)
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【直哉】「幸福だって、酒と同じで、度合いがすぎれば、吐き気がする。
そんなクソったれなもんが、幸福なんてもんなのに……なのに」
【直哉】「人は幸福を望む」
【直哉】「人には許容量以上の幸福なんて、吐き気でしか無いのに、それでもその幸福を
手に入れようとする。呑み込もうとする」
【直哉】「でも、度が過ぎた幸福に人は耐えられない」
<中略>
【直哉】「人にとって、度が過ぎた幸福は、苦痛でしか無く」
【直哉】「また、苦痛自体も幸福と背中合わせのものでしかない」
【直哉】「不幸なんて苦痛は、幸福と背中合わせでしかない」
【直哉】「不幸もまた、幸福の変わった風景でしかない」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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子供の頃には分からなかったことが、大人になって初めて分かった。

キラキラとした学生時代。可愛い幼馴染や後輩に囲まれる毎日。唯一無二の親友や騒がしい友もいる。大切な仲間と作品を創った結果、周りからは英雄扱いだ。
大人になってからの日々。夢もないし非常勤という不安定な立場。かつての栄光を知っている生徒なんて誰もいない。当時親しかった女の子もみんなどっか行ってしまった。代わりに学生時代は名前もうろ覚えだった男と飲み明かしてゲロ吐いて…。

周囲からすれば落ちぶれたように見えるだろう。誰もが羨む理想的な状況だった学生時代からすれば、大人になってからの日々はまさにどん底で酷い転落だ。
それでも、直哉は堂々と言うのだ。
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【直哉】「ああ、他人からみたらクソみたいな人生で」
【直哉】「クソみたいにどうでもいい時」
【直哉】「たぶん、俺たちは一番生きているんだよ」
【直哉】「楽しんでいるんだよ」
【直哉】「俺は、そう思うんだ」
【直哉】「だからさ、それが無くなったら終わりだ」
【直哉】「苦しみは大事だ」
【直哉】「悔しさは大事だ」
【直哉】「世の中のクソみたいなものは大事だ」
【直哉】「それが感じていられるのなら」
【直哉】「それは最高の生き方だ」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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クソみたいなものを肯定すること、それは自分が今生きていること全てを肯定することに他ならない。楽しさや嬉しさは言うべくもないが、苦しさや悔しさを肯定することは難しい。だがもしそう思えるのならば、そこにはいつだって幸福が保証されている。幸福とは、ありのままの自分を肯定して生きようとする意志そのものなのだ。

これは一見すると単純で簡単なことのように思えて、その実とても難しい。
他人と比較して悲観したことはないだろうか?
過去のキラキラとした自分に戻りたくなったことはないだろうか?
停滞した日常をただ漫然と過ごす自分に嫌気が差したことはないだろうか?
だからこそ、ここでの直哉の姿は自分の目にはとても尊く、そして羨ましく映った。

そして直哉がこう思えるようになったのは、『櫻達の足跡』を更新することで今の自分からも楽しさ(キラキラ)を見つけることができたからだ。
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【明石】「あれは他の誰かではない。遠くの誰かのために描いたものではない……。
あれは、小牧、小沙智、そしてあいつらを救ってくれた正田神父のために作り
上げたものだ……他の何でも無い」
【明石】「だからこそ、もう俺が作者である必要は無い。
俺の名前が残る必要は無い」
<中略>
【明石】「作品が何のために生まれたのか、何のために作られたのか……」
【明石】「我々が何のために作品を作るのか……それさえ見失わければ問題無い……。
そこに刻まれる名が、自分の名前では無いとしてもだ……」
(「Ⅱ Abend」)
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【直哉】「作品は、何のために生まれたのか、それさえ見誤らなければ大丈夫だってな」
【直哉】「今、俺も同じ思いだ。あの作品が何故生まれたのか、見誤らなければ問題ない」
【桜子】「では、あの作品は何故生まれたのですか?」
【直哉】「そりゃ、一緒にやった、咲崎くんも良く分かっているだろ」
【桜子】「私が?」
【直哉】「楽しかったからだよ」
【直哉】「そして、それを届けたいという人がいた」
<中略>
【直哉】「あの作品は“楽しい”事が一番大事だ」
【直哉】「もちろん、それは、今、世界で活躍している。稟に届いて欲しい想いではあ
るかもしれない」
【直哉】「楽しむ余裕なんて、今のあいつには無いだろうから……」
【直哉】「けど、同じぐらい、おまえ達に伝えたかった」
【直哉】「さらに言えば、元々の『桜達の足跡』から“楽しさ”を君が感じ取った様に……」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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かつて明石が言っていたことも当事者となることでようやく分かった。作品とは伝えたい人に想いを伝えることができればそれで十分なのだと。直哉もまた桜子たちに楽しさを伝えるために『桜達の足跡』を更新し、そこで自身もまた楽しさを見つけることで、大人になってからのここまでのクソみたいな人生を肯定することができた。
ならば直哉にとって幸福は他者の存在によって導かれたと言えるだろう。思えば、直哉はいつだって他者に尽くしてきた。筆を折った理由、それでもなお筆を取った理由…。そんな直哉が最後には他者によって救いを得るのはとても美しい構図だった。

「世界少女」「終ノ空」のような非現実・非日常によって導かれる訳ではない。或いは皆守・由岐・卓司のような不連続存在が物語の中心にいる訳でもない。『サクラノ詩』は主人公・草薙直哉が歩んできた、ごく自然な連続した日常を通して幸福について考え、一つの答えを得る。だからここで描かれているのは、「幸福に生きよ」と命令形で与えられるものではなく「幸福な生」そのものだ。そしてそれは日常であるが故に、これまでと変わらずにこれから先も続いていくもの(=幸福の先への物語)なのだ。そしてその道筋には人々の因果的交流灯があり、多くの人の想いが宿る夏目の屋敷で暮らす直哉と藍もまた、その一部となる。


・『すば日々』と絡めて見る場合
※この部分を書くにあたって数年ぶりに『すば日々』を起動して重要そうな場面を読み直し、他の方々の批評を読むことで理解を深めてきましたが、所詮は付け焼き刃に過ぎないし、事実理解が足らずに強引にまとめた箇所もあります。それでも筋としては一応通っているレベルまでは書けたつもりですが…、要するにあくまで一個人の考えに過ぎないのでおかしな点があっても優しく見逃して下さるか、それか指摘して頂けると非常に助かります。(長々とした自己保身)

詳しい話に入る前に、まずはすかぢ氏の作品作りのスタンスを見てみたい。何を表現するために哲学を土台とした物語を組んでいるのだろうか。それを知ることは作品について考える上で大きな助けになるはずだ。あれこれ調べた結果、氏は以前「独我論を徹底した実在論から他者との繋がりを模索する」のが自身の基本スタイルだと発言している(※3)。

「独我論を徹底した実在論」とはどういう意味だろうか?自分なりに解釈するに、
「独我論(私=世界)を突き詰めていくと、私が認識できない世界(外部世界)の存在が無くなる。つまりは私の世界(内部世界)が唯一の物であり、それ以外は存在しない。
ところが外部世界が存在しないのだから、内部世界という概念もまた意味を成さなくなる。すると内であるか外であるかの問題(存在が確かな内部と存在が疑わしい外部→存在に対する懐疑)は無くなり、その状態の世界は実在論的(そこにあるものは疑いなく確かにある)に語ることが出来る。」

もし私がこの世界で他者の息吹を感じることが出来たならば、それは何よりも確かな絆で素晴らしき物ではないだろうか。『すば日々』ではそこから他者との繋がりを模索するものとして「旋律」があった。

『すば日々』では「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」(『論考』5.6)によって言葉と世界を結び、それとディキンソンの詩を組み合わせることで「言葉と旋律」が「世界と神」と重なることを示した(※4)。旋律とは言語を超越して神(生の意義=「幸福に生きよ!」)と同義の存在であり、他者の繋がりを模索する方法であった。だからこそ「素晴らしき日々」エンドで皆守はピアノを引き続けるのだ。
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その旋律は、誰かの耳に届く、
俺以外の誰か、
皿を洗う羽咲に、
最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、
店に集まるオカマ野郎どもに……
音楽は響く。
店内に響く。
世界に響く。
世界の限界まで響く。
そこで誰かが聴いているだろうか?
聴いていないのだろうか?
それでも俺は……音楽を奏でる。
誰のためでもなく、
それを聴く、あなたのために……。
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これを踏まえて本作について見ていきたい。
『サクラノ詩』では旋律(=神の存在を見る、他者との繋がりを感じる)に並ぶものとして作品(美)がある。
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【直哉】「美は、見るものによって再び発見される」
【直哉】「美は、見るものによって生まれ変わる」
【直哉】「その時、神がいるんだよ」
【直哉】「そうだな。それは稟が言う通り。弱い神様だ」
【直哉】「だが、人が美と向き合った時」
【直哉】「あるいは感動した時」
【直哉】「あるいは決意した時」
【直哉】「そしてあるいは愛した時」
【直哉】「その弱き神は人のそばにある」
<中略>
【直哉】「だから、俺は言うのさ」
【直哉】「さぁ、受け取るが良い」
【直哉】「この絵にやどった神は、永遠の相だ」
【直哉】「この感動は一瞬だが、永遠だ」
【直哉】「そして、そこに幸福がある……」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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人が美と向き合った時、そこには神がいるのだ。そしてそれは人を愛した時にも言えることであり、ならば三章での各ヒロインとの恋愛もまた同じ事を意味しているに過ぎず、三章と六章での結末は同格でありそこに存在の優劣はない。
そして、作品(美)の成立は見る人(他者)の存在を必要としている。(恋愛もまた他者=ヒロインの存在を必要としている。)

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【直哉】「何故ならば、絵画というものは、詩の様なものだからです」
【直哉】「もし、君が、作品を目の前にして“重厚”だと思ったり“高尚”そうだと思っ
たら、その芸術は死んでいる……」
【直哉】「もし、君が、その作品を目の前にして、作品から息吹を感じたとしたら、その
作品を生き返らせたのは、他ならぬ君だ。と」
【直哉】「絵画というものは、ただそれだけでは、何でもない存在なのだと思います
それを見る人によって、絵画ははじめて生きるのです。」
【直哉】「だから、作品は完成品では無いのかもしれません」
【直哉】「もしかしたら、作品は見る人によって、はじめて完成される……。
いや、更新されるのかもしれません」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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(※ここでは改めて絵画(作品=美)が詩(うた=旋律)と重なることも確認できる。
【桜子】「なるほど、言葉は意味よりも、時としてその音色にこそ価値がある。なんかそ
れって歌みたいですね」
【桜子】「旋律によって、詩(し)は詩(うた)に変わる」)

作品は他者の存在によって初めて意味を持ち更新される。ならば更新された『櫻達の足跡』は他者(弓張学園美術部と桜子ら未来の学生組)との繋がりの証明である。彼らは過ごした時間は違うし互いに直接の面識もないが、それでも作品によって繋がっている。これは『すば日々』で皆守がその先に誰かがいることを信じながら音楽を奏で続けた事よりも、より確かで強い繋がりを描いていると言えないだろうか。直哉の「櫻の芸術家」としての本領は作品を生み出す(更新する)ことで他者との繋がりを生み出すところにあった。

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それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから
(『春と修羅』 序)
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作品というのはそれ自体がある程度まではみんなに共通する物である。そこから各々が各々に宿る弱き神とともに作品に向き合い、作品を更新する。するとその作品の中にはわたくしがいて、みんながいると言えるだろう。そしてその逆もまた成り立つ。作品というのは私とあなたが流動し循環していくことで成立し、永遠の相となる。そして、そこには幸福がある。時間や場所を超えた(そしてそれは自分の世界の限界をも超える)他者との繋がりが作品にはあるのだ。



ここまでは作品を構成する核心部分(恋愛、過去、他者の意義、幸福、作品、美)について書いてきたが、そこから外れた物語は未消化のままである。いくらテーマ的には完結していると頭では理解していても、まだ語られていない物語はあるし心情的にはここで終わりなのかという思いはある。
一番大きいのは六章での稟の存在だ。圭の死後、具現化能力と記憶を取り戻した稟はひたすらに絵を描き続け、アメリカとロンドンを渡り今では世界的画家として活躍している。一体何故だろうか?

直哉の考えと真っ向から対立し、「聴衆が価値を持つのではありません。見るものが価値を付けるのではありません」「美は、美として存在するが故に価値がある」(五章)とまで言ってのけた唯美主義的思想(絶対的な神の信奉者)の持ち主の稟にとって、他者から評価されることで地位を高める画家はまるで意味のない事のように思える。
思うに、それは直哉が筆を折る原因となり間接的に圭との夢も奪ったことに対する贖罪であり、また直哉と並び立つための飛翔だったのではないだろうか。

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【稟】「ただ分かるのは、私は小さなツバメさんにも王子にもなれないって事かな……」
【稟】「すべてを与えた王子、すべてを失った王子。
そしてその王子に仕えて命を落とした小さなツバメさん」
【稟】「この美しい物語には私はいない。
けど、なおくんはどうかな?」
【直哉】「いやいや、俺なんかもっと無縁だし」
【稟】「うん、なおくんだったらそう言うと思ったよ」
【直哉】「いや、だって全然違うじゃん」
【稟】「私、決めました。
私がこれから何をやるのか決めました」
【直哉】「何をやるのか?」
【稟】「はい、この桜の下で、私はある直感を得ました。
だから、その直感を信じたいと思います」
【直哉】「……」
【稟】「Life imitating art……」
何かをつぶやいた。
その後の稟の笑顔が、不意に恐ろしく感じられた。
それは、夕闇が彼女の表情を隠すから……。
(「Ⅰ Frühlingsbeginn」)
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この場面の稟は一章の中ではかなり異質に思えたが、クリアした今では六章での関係を暗示しているようにさえ思える。王子(直哉)に対して最後まで寄り添うことができたツバメが藍ならば、直哉の傍を離れた稟は、物語にはいない南に飛び立ったツバメだろう。
それにしてもこの場面の稟は一体何だったのだろうか?記憶を失っている時の発言とは到底思えないし、それよりだったら黄昏時が見せた幻にでもした方が腑に落ちる。

そして、稟は依然として直哉と圭が夢見た場所を飛び続ける。その先に辿り着ける場所があると信じて。
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【稟】「あれから何年経ったかな……」
【稟】「まだ、なおくんの中で炎は燃え続けている……」
【稟】「だから、私は行かなければならない……」
【稟】「私では行けない場所……、約束された地点……」
(「Ⅵ 櫻の森の下を歩む」)
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【稟】「この桜……、私には、まるでいろいろな感情が電灯の様に光って見える……。
そしてそれぞれの光りが重なって因果交流の光として世界を作り出している
様に思えるんだ……」
【稟】「なおくんは、そういった因果交流でひときわ輝く存在。
そこが私と違う……」
【稟】「だから、いつか、私は、私の絵となおくんの絵が交流し、その因果で世界を映
し出せたら良いと思っている」
【稟】「だから、まだ早いんだよ……」
(「Ⅲ A Nice Derangement of Epitaphs」)
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約束された地点がどこを指しているのかは現状定かではない。幼少期に願った絵を通した直哉との交流のことだろうか?いずれにしても稟との物語はまだ終わりを迎えてはいない。
直哉と藍が主役の『幸福な王子』を『サクラノ詩』とするならば六章は正しい終わり方だが、それでも釈然としない気持ちは残る。

また、『櫻達の足跡』が更新されたことで今一度人々の注目が集まり、あの作品に関わった誰かの想いを契機として再び弓張の地に千年桜が狂い咲くかもしれない。あとは単純に藍せんせーともっとイチャイチャしたいし、桜子を始めとした未来の学生組も攻略したい。他にも大人になった里奈と優美のドキドキ同棲生活なんてのもどうだろうか。(ふと『H2O』のはやみアフターが思い起こされた。)

そしてこれは意図的なものだろうが、直哉と周囲の人々との過去にあった繋がりを明らかにしていくことを話の中心に置きつつも、最後まで明かされなかった直哉と圭の出会い、直哉が筆を折った時の圭とのエピソードも見てみたくはある。(ただこれは直哉と圭だけが共有するものであり、プレイヤーには秘される部分であって欲しいという想いもある。)
つまるところ、本作は物語としてはまだまだ広がる余地が残されている。その辺りは続編として構想予定の『サクラノ刻』に期待したい。



10年(実際は11年?)越しのプロジェクトの結実ということで大きな注目を集めた作品であり、実際他の作品では考えられない程の様々な立ち位置のユーザーが本作をプレイするのだと思う。初期の段階から予約して待ち望んでいた人(現役エロゲーマーでこの層は一体どれくらいいるのだろう…)、『春ノ雪』をプレイしてこれは凄い作品になると確信して期待していた人、殆どエロゲをやらなくなったけど『サクラノ詩』だけはやるという人…。その人だからこそ見える事、言える事は当然あるだろうし、それは尊重されるべきだと思う。

自分が『サクラノ詩』の存在を知ったのは4年くらい前で、当時は「何やらとても長い期間延期しているエロゲがあるらしい」程度の認識だった。良く分かってもいないのにTwitterなどでも散々延期をネタにした。ところが発売が現実味を帯びてきたらミーハー根性丸出しで周りに乗っかる形で期待を煽り…と、本作に対してかなり都合良く振る舞っていたと思う。そんな自分だが今回こうして感想を書いてきて、作品内容に対しては真摯に向き合い、出来うる範囲で考える事ができたと思っている。

恐らく時間を置いて再プレイした時には今回得られなかった新しい発見があるだろうし、或いは他の方々の鋭い批評を読むことで、自分では思いもよらなかった視点が与えられるはずだ。『サクラノ詩』という作品にはそれだけの深さと歴史(歴史は決して良い事ではないが)があると思う。そうして幾度となく本作に対する見方が更新されていけば、作中の言葉を借りるならそれは永遠であり、そこには幸福がある。

そして同じように、この感想(私が伝えたいこと)を読んで誰か一人でも本作に対する見方を更新する事があるならば、それはささやかな、だけど確かな幸福であるし叶うならそうあって欲しい……という個人的な願望を記して本感想の結びとしたい。



※1(https://twitter.com/SCA_DI/status/649158303356862464)

※2(http://www.tgsmart.jp/article.aspx?a=1745)

※3(https://twitter.com/SCA_DI/status/52571791406796800)

※4
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僕たちの頭はこの空よりも広い……
ほら、二つを並べてごらん……ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう……
そして……あなたまでをも……
ぼくたちの頭は海よりも深い……
ほら、二つの青と青を重ねてごらん……
ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう
スポンジが、バケツの水をすくうように……
ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ
ほら、二つを正確に測ってごらん……
ちがうとすれば、それは……
言葉と音のちがいほど……
(『素晴らしき日々』 6章“JabbarwockyⅡ”)
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「僕たちの頭」と「神様」の重さを比べると、その差は「言葉」と「音(旋律)」の違いほどのようだ。なら「神様」と「旋律」を秤に乗せてみたら…?

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【希実香】「きゃははははははっ。旋律ですよー」
そう言って希実香は大きく空に手をかざす。なぜかそのひらには秤がのっており天を指していた。
【卓司】「はははははは……バカかお前っなんで秤なんて持ってるんだよ」
【希実香】「きゃはははは、神様の重さを量るんです!だから秤をもってきました!」
そう言って希実香は秤を大空に掲げる。
【希実香】「さぁ、神様、天秤の片方にお乗りくださいませっっ。もう片方にはすでに旋律が乗っております」
【希実香】「旋律ですっっ、私は旋律担当、そして救世主様が奇跡担当ですっ」
【希実香】「さぁ、神様、ここです。この天秤にお乗り下さいませっっ」
【卓司】「はははは、どんな組み合わせだよ……なんで奇跡と旋律なんだよ」
【希実香】「そんな事ありませんよー。神様は旋律ですって!」
【希実香】「神様は旋律なんですよー」
【希実香】「私、今分かりました!神様は旋律ですよー」
(『素晴らしき日々』 3章“Looking-glass Insect”)
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※補足 神(生の意義=幸福に生きよ!)について
我々は永遠の相の下を生きているのだから、ただ幸福に生きようとするだけで良い。
すべての生命の創造主たる神はそうあるように生を命じた(=幸福に生きよ!)

・永遠の相とは?
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ウィトゲンシュタインの「永遠の相の下」は、我々は死を経験出来ない。経験出来ないものは永遠に来ない。つまり今を生きる者は永遠の世界で生きている事と同じである、というアクロバティックでありながら単純明快な思想です。
(『素晴らしき日々 ~不連続存在~ 公式ビジュアルアーカイブ』p,100 「製作総指揮すかぢinterview」より)
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