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oku_bswaさんのMaggot baitsの長文感想

ユーザー
oku_bswa
ゲーム
Maggot baits
ブランド
CLOCKUP
得点
80
参照数
1885

一言コメント

無尽の悪意と絶望の怨嗟の中で、それでも人の世界を肯定する。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

見る者を慄かせるグロリョナ描写のオンパレード。人が持ちうる暴力や残虐性、嘆きや絶望を集約したと言っても決して大袈裟にはならない純度の高いシーンが大半を占めるこの物語が伝えたかったこと、描こうとした結末は一体何だったのだろうか?

勿論本作がまずエロに対する比重を置いた、所謂「抜きゲー」と括られる作品群に位置することは間違いない。それは他ジャンルの作品とエロシーンの数を比較してみれば明らかだ。ただし、作中で描かれる一切の容赦も慈悲もない徹底した残酷描写と、それを成し得る悪意と絶望が蔓延る舞台設定。そしてその世界を這い上がろうと藻掻く彰護とキャロルを始めとした登場人物の生き様を見ていると、単なるおかずとしての満足度だけではなく、それ以外の部分でも何か語りたくなってしまうような魅力を感じるのもまた確かだと思う。
本作のエロ(抜き要素)に対して自分がどのような評価を下しているのかは、数少ない「かなり使えた」を付けているところから察してもらうとして、ここではシナリオについて考えたことを中心に書いていきたい。

とは言え、本作のシナリオを語る上でエロ(18禁描写)を外すことはできない。詳細は後述するが、人の世界の残酷さや不条理さを表現する上で18禁描写は無くてはならないし、それがあるからこそ最後に語られる結末にも上辺だけではない重みが感じられる。コンシューマ化してエロシーンを他の描写に置き換えることなど到底出来ないし、或いはパッチを適用して気軽に取って付けられるような、そんな浅い関わりにはなっていない。エロとシナリオが不可分の関係にあるという点において、本作は正しく“エロ”ゲーである。これはまさしく18禁だからこそ表現できた物語であり、そしてゲームだからこそそこに文章だけでなく画像と音声も乗せて、より実体と迫力をもって読み手に伝えることができた。

監督を務めた阿久津亮氏はスタッフルームで「こんな残虐なゲーム」と謙遜しているが、自分も含め一定数のユーザーは「こんな残虐なゲーム」を求めてエロゲーという物語媒体を嗜好しているのは確かだろうし、他の制作スタッフの方々のコメントを拝見しても、批判を恐れずにこのような作品を作り上げたことに対する自負や達成感が感じられる。
勿論こうした作風であるので人によって好き嫌いは絶対に出てくるだろうし、単純に評価の高さに釣られてプレイすると痛い目を見るかもしれない。ただ個々人の好みは抜きにしても、エロゲーという媒体が許す物語の多様性を改めて見せつけたという点において、この作品の価値は認められるべきだと自分は考えているし、また実際に大きな反響を呼んでいる(発売後にAmazonやDMMのランキングで一位を獲得するなど)のも嬉しく思う。
学園を舞台にして美少女との恋愛を楽しむ物語だけがエロゲーなのではない。あらゆるジャンルや作風の物語を表現することが許されるのがエロゲーであり、決して表舞台には立てない物語媒体だからこそ出来ることがあるのだと自分は信じている。



メインシナリオライターである昏式龍也氏が過去にシナリオを担当した多くの作品からは、ある種の人間哲学のようなものをテーマとして読み取ることができたが、本作も同様に人間としてのある一面が克明に描かれ、それが物語を構成する大きな要素になっている。
この物語の本質は、人が持ちうる暴力や残虐性とそれに蹂躙される者の嘆きや絶望、世界の残酷さや不条理さを徹底して説きつつも、それでもその人の世界を肯定する人間賛歌にあるのだと思う。これを「人間」と「蛆虫」の対比、そして「人の愛」と「神の愛」の対立から描き出している。

作中で例えられる蛆虫とは、人間を人間足らしめる守るべき倫理や規範に唾を吐き、我欲のためには手段を選ばない者のことを指している。己の愉悦を満たすために魔女を犯し蹂躙しようとする関東邪法街の住人はまさに蛆虫と呼ぶべき下劣な存在だろうし、彰護や芹佳にしても目的や金のためには他人を陥れ殺すことも厭わない。災禍の魔女は元より人の理から外れた存在であるし、一切の倫理や規範を備えておらずただ本能のままに行動する。
冒頭で「この物語は人間を描くものでは決してない。これは、蛆虫のための物語である。」と語られたように、これは紛れも無くそんな蛆虫の物語だ。

だが彰護の正体が「蛆虫の皮をかぶった人間」であったように、どんなに卑劣で悪辣な行為に手を染めても、それを正当化する“正しさ”が己の中にあるのならば人は人のままでいられる。そしてこの自己の正当性を何かに見出そうとする心の働きは、どれほど冷徹や残酷であろうとしてもヒトという生き物である以上、避けられないことなのだと思う。
彰護が無意識の内に七年前の事件で蹂躙された少女たちの仇を取ることを免罪符としていたように、全てを失ってもそれでも貫きたい信念とそれを正当化する理由はどうしても心の奥底から湧いて出てくる。或いは大多数がそうであるように、人は神や社会といった大きなものに身を委ねることで自分は正しいのだと安息を得ようとする。
ならばここでの人間と蛆虫の違いとは、それぞれが見出す正しさが人として守るべき倫理や規範に許されるかどうかの違いでしかない。だが、もしそれを区別する基準が普遍的なものでは有り得なかったとしたら、果たして人間と蛆虫に違いなどあるのだろうか?

ヴァレンティノスを見てみよう。彼は神の名の下に異教徒に対して容赦ない殺戮を行う。この行動は恐らく多くの人に望まれる、正しいことなのだろう。信仰する神を冒涜する存在を許さないヴァレンティノスは、正義の代行者と呼ぶに相応しい。
だが、作中でのヴァレンティノスの振る舞いは我欲のために特権的な力を奮う蛆虫のようであり、醜悪にすら思えた。関東邪法街の住人からすれば圧倒的な力を奮うヴァレンティノスは災禍の魔女と何ら変わらないだろう。詰まるところ、人が見出す正しさとは一面的なものでしか有り得ず、万人に通用する普遍の理念など存在しないのだ。

これは人類がこれまで歩んできた歴史が証明している。宗教戦争、民族虐殺…、人類は大多数に支持された正しさが、そこに属さない他者を虐げることを認めてきた。そして今でも平和という大義名分の下にそれは行われている。果たしてこれは虐げられる側にも通用する正しさなのだろうか?
勿論、特定の個人に限った話であれば私欲を追求せず平等であり続けた清廉潔白な人間はいるだろう。だが人類という総体で捉えた時に、我々は蛆虫が如き醜悪な一面から逃れられることはできない。人の世界とは醜く利己的で、普遍的な理念など存在し得ない。だからこそ他者の排斥と殺戮の歴史が築かれてきた。この物語は人間の本質を露悪的に見せているだけに過ぎない。

本作が示す人の世界の不完全さの根拠として、絶対的な理が存在しないことも挙げられる。災禍の魔女が圧倒的な暴力を有しながらも強者として君臨できなかったように、己の軸となる信念なき者は使われる側でしかいられないし、時には容赦なく蹂躙され尊厳を奪われる。逆にどんな崇高な理念を有しても、圧倒的な暴力や悪意の前では時としてそれは何の意味も持たない。かつての彰護が絶対だと信じていた正義が何の力も発揮しなかったように、囚われた26名の少女が為す術もなく蹂躙されその生を終えたように、そしてキャロルが彰護への愛を貫きつつも悪意ある者からその身を汚されることを防げなかったように。
何時如何なる時でも強さを発揮できる理などこの世界には存在しない。愛は世界を救わないし正義は悪を挫かない。だから全てが救われる結末など起こり得ないし、いつまで経ってもこの世界は残酷で、不平等で、不条理であり続ける。

無名の魔女は人の世界が抱える欠陥を嘆いていたからこそ、これを是正するために愛に満ちた新世界を創生しようと目論む。それが成されたのが「血の収穫」エンドであり、逆に野望が挫かれ人の世界が保たれたのが「灰とダイアモンド」エンドになる。だがこの二つのエンドの攻略順が固定されている以上、この物語の最終的な主張としては人の世界を優先(肯定)していると言えるのではないだろうか。

「血の収穫」で語られる新世界は確かに素晴らしいのかもしれない。万人に対して平等に愛を与えんとする、神の愛と呼ぶべきものが普遍の真理となり、そこではあらゆる争いが世界から駆逐された。蛆虫が如く醜悪な一面など欠片もない。だが同時に、人間性が失われ人ではない別の何かに変貌してしまったように思う。
あの世界で生きる最後の人間は、最後の災禍の魔女でもあるキャロルだ。人の愛とは万人に振り撒かれるものではないし、代わりが効くものでもない。だから彰護を失ったキャロルは無価値の愛に満たされたあの世界を拒絶し続ける。

最終エンドとなる「灰とダイアモンド」では神の愛の成立が阻止されるに至ったが、それを成し得たのは一体何だっただろうか?「血の収穫」で彰護とキャロルのどこまでも互いを想い合い、自らを犠牲にすることも厭わない愛情が絶望へと変わり新世界を樹立する最後の一押しとなったように、二人の美しい愛情だけでは無名の魔女の野望を阻止することはできなかった。そこにあったのは至門の、愛する者を手中に収めるためにはどんな手段も厭わない、利己的で蛆虫が如く醜い情愛だ。だがこれも人の愛としての一面だ。
人の愛とは美しくあるだけでは決して有り得ない。このように一面的な見方で終わるのではなく、美醜含んだ人の愛の本質を描き出すことで初めて人の世界が保たれた。

本作で特筆すべきは、人の世界や愛を肯定する上でそれが有する醜さや残酷さを隠さないところにある。至門の利己的な愛情が叶ったのもそうだし災禍の魔女の扱い一つ取っても明らかだ。序盤は場面が切り替わる度に思い出したかのように凌辱されるが、中盤以降は全く出番がなかったエドナ。そもそもエロシーンでしか出番がないカーラ。タイトル画面を飾る主要キャラクターと思いきや、どちらのエンドでも完膚なきまでに尊厳を奪われるウィルマとグロリア…。キャロルとその他の災禍の魔女とでは悲しいまでに明確な線引きがなされている。生前から続く彼女たちの過酷な運命に果たして救いはあったのかと聞かれると、残酷な答えになるが無かったのだと思う。人の世界の不条理さや不平等さを示すために、フィクションとしての救済や公平さなるものは排除されている。

それでもこの物語は最後には人の世界を肯定し、キャロルが人としての生を再び獲得して彰護との子を授かった様子が描かれている。作中でことある毎に描かれた絶望の怨嗟で幕を閉じるのではなく、特定の誰かを愛し子を成すという人類が殺戮の歴史と共に歩んできたもう一つの美しい一面を強調しているところに、残酷で不条理な人の世界に対する怨嗟や諦観ではなく、祈りにも似た強い希望を自分は感じずにはいられなかった。



『Maggot baits』で描かれているのは人間の蛆虫が如く醜悪な一面と、罪なき者がそれにただ蹂躙されるだけで終わってしまう残酷で不条理な末路だ。だがこれは人の世界の偽らざる真理でもある。そこでは何の言葉も意志も力を持たないし、信じる者は救われ悪は裁かれるようなエンターテイメントとしての痛快さなど欠片もない。それでも最後に与えられた結末が示すように、この物語はそんな人の世界に対しても一筋の光明を見出だせることを祈っているのだと思う。

無名の魔女が願った愛に満ちた新世界と依然として変わらぬ悪意に満ちた人の世界、果たしてどちらがより良い世界なのだろうか?その答えは作中で出されていないが、そもそも答えようがないし答えを出す必要もないのだと思う。有史以来、人類は争いのない時代を経験したことがないし、それはこれから先も変わることがないからだ。生まれたからにはこの世界で生きねばならない。けれど自分もまた、諦観ではなく希望をもってこの世界を肯定したい。
本編オールクリア後の作中の雰囲気とは対極の美しい百合の花(花言葉は純潔、純粋)で彩られたタイトル画面を見ながら、そこで流れる生の祝歌(キャロル)に耳を傾けていると、生前の瞳子が最後まで貫いたように、そんな“綺麗事”を自分もまた信じたくなった。