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oku_bswaさんのギャングスタ・アルカディア ~ヒッパルコスの天使~の長文感想

ユーザー
oku_bswa
ゲーム
ギャングスタ・アルカディア ~ヒッパルコスの天使~
ブランド
WHITESOFT
得点
70
参照数
916

一言コメント

私にとってのディストピアは、貴方にとっての理想郷になり得る。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

※『未来にキスを -Kiss the Future-』にも少し触れているので注意して下さい。

前作『ギャングスタ・リパプリカ』の感想で「この世界は天使によって安寧がもたらされる管理社会としての一面がある。たがこのまま天使の介入を許し続けると、人は精神的高揚を感じる機会を奪われ、やがては現実世界に意味を見出せなくなる~」みたいな事を書いたが、本作で明かされた対立構造は全く真逆だった。

天使・アマネは人類に降りかかる災厄(ループするのが当たり前になり過ぎたことで人が選択や決断をしなくなり、人格を喪失してしまう将来)を防ぐために人類に介入しようとする。だが、叶たちギャング部の面々はその介入を良しとせず、アマネと対立することを決意する。

自分が当時予想したのは見当違いもいいところだが、これはループしない世界に生きる人固有の価値観として当然のことなのかもしれない。何故なら人格(=個)が消失し統一化された世界って理想郷なんてものじゃ決してなく、我々が一般に思い描くディストピアそのものだからだ。我々の常識だとそのような世界は忌避するべきものであり、望まれるものではない。
シャールカやこおりがループしない世界での社会の成立を想像出来なかったように、自分もまたループ現象を当たり前に受け入れている人固有の価値観を共有することが出来なかった。

ループする世界には過去から現在、現在から未来へと流れていく時間の流れがない。今ここにいる自分こそが全てであり、時間に意味を見出す必要がないのだ。現在の自分と過去・未来の自分は繋がっておらず、独立して存在している。だから未来に思いを馳せることなんてしない。過去の選択を悔いることなんてしない。
これは時間が不可逆的で取り返しがつかないものであり、経過する時間の中で選択を積み重ね成長してきた我々には共有出来ない感覚である。

自分には選択の必要がなくなり、人格が消失した世界は想像するだけで恐ろしく、間違っているとしか思えない。ループにそこまで拘る必要があるのかとさえ思う。ループがなくても人は、社会は存在できるというのに。
だが彼らにとってはループこそが世界の象徴であり、それに比べたら人格の消失などは瑣末な事に過ぎないと思っている。この認識の差(=断絶)を埋めることは出来ない。
どれだけ歪に思えてもこれがこの世界に生きる人にとっての真実であり、その先に彼らが目指す理想郷があるのだ。

叶が「選択をしない選択」をし、アマネが「納得」したことで災厄への、理想郷への道が拓かれた。まだ大きな変化はなくても叶とシャールカの意識は確実に変わっている。ラブレターで感じるようなドキドキをもう現実世界で感じる事もない。それは地続きの人間だけが持つ権利だからだ。
終わらないモラトリアムの中で生まれる子供の王国。子供が子供を生む社会。この先どうなるかは誰にも分からないが、その場その場でみんなが適当にゆるく楽しんでいくのだろう。彼らが掴み取ったソファの上の理想郷の名の下に。
そうして叶は今日も仲間と共に同じ世界を生きていく。


「コミュニティ追求型ADV」と銘打たれた前作の時点では、仲間と対立しつつも未来に向かう彼らの姿にこれまでとは違う、外に開かれた物語であることを感じさせた。ところが本作までプレイすると『未来にキスを』と本質的な部分は何も変わっていないように思う。

どちらも世界を閉じることで完結する。世界を閉じる為にキスをして、肉体を捨て自己の内的世界に構築した他者だけを見つめた『未来にキスを』。
終わらないモラトリアムの中で、人格を捨て子供の王国を築き上げた『ギャングスタ・アルカディア』。

そしてその世界が我々現代人には辿り着く事が出来ない極地であるが故に、逆説的に美少女ゲーム世界を自己賛歌する内容になっている。
インターネットの普及により直接顔を合わせずとも他人と交流することが可能になった。だが、本当の意味で他人と触れ合わずに生きていくことは不可能だ。我々が圧倒的な楽園に辿り着くことは出来ない。
我々はループ出来ないが故に、経過する時間の中で選択を積み重ね大人へと成長してきた。そのため我々が居心地の良いモラトリアムに浸かり続けることは出来ない。ソファの上の理想郷なんてない。

この二つは大きくは肉体か人格かの違いだけで、伝えている内容までは大きく変わらないと思う。(ただ、その閉じた世界に肉体を持った他者を内包した分だけ本作の方が広がっていると言えるのかもしれない。例えそこに他者を他者足らしめる人格が無いとしても。)
いずれにせよ明確な優劣を付けることも出来ない。(何故なら、肉体を捨てるのと人格を捨てるのではどちらが先進しているのか?という問いに対して自分は明確な解を持てないから。)
閉じた世界で生を謳歌する彼らは羨ましくもあり、どこか淋しさを感じさせる。それは圧倒的な楽園にしてもソファの上の理想郷にしても我々にとってのユートピアには成り得ないからだ。

さて、『フロレアール』以降から元長氏が続けてきたこのテーマ(「私」と「あなた」、コミュニケーションと断絶、圧倒的な楽園)だが、現状では停滞しているように思うし、そろそろ次の一歩を見てみたい。例えば、ここまでの結論を起点にして我々にとっての理想郷モデルを探していくのも面白い。元長柾木が描く21世紀の圧倒的な楽園に我々現代人も招待して欲しいな…なんて。
そんな希望を綴ったところで本感想の終わりにしたい。