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oBtさんのアマツツミの長文感想

ユーザー
oBt
ゲーム
アマツツミ
ブランド
Purple software
得点
97
参照数
667

一言コメント

言葉と、心と、命の物語

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

前述の通りアマツツミはいくつかの観点から角度を変えて物語を視て、読み解いていく。そんな物語。個々のテーマが全編通して互いに絡みながら問題提起されてとても考えさせられ、とても感銘を受けました

◆言葉から視るアマツツミ
言霊ただのご都合主義じゃねーか!なんていう感想も見られましたが、私はそうは思わない。確かに言霊は「他人に行動を強制させる」ことの出来る能力でそう見えてしまうかもしれないが、アマツツミという物語に於いては重要なキーワードであり物語を動かす舞台装置であり、根幹を語るためには欠かせないものである。(ご都合主義云々は私とは見ている方向が違うように思う。卵が先か鶏が先か、ということなのではなかろうか)話を戻そう。誠たち言霊使いにとって言葉とは「自らの命を相手に分け与える」ものである―つまり、言霊を込めることは命を込めることであり、互いの命が混ざることだと愛は言う。言葉は命であり、自分の心を伝える手段である。それは物語を彩るテーマであり、言葉であり、私が心に留めたいと思った教訓である。

◆心と命から視るアマツツミ
響子ルートと愛ルートでは残された者の想いを少しだけ角度をずらして語っており、「進んだ先に何があるのかは、進まなくては分からない。」「答えを知るために歩いた場所が、やがて道となるのだ。」というほたるEND2のセリフが心と命についての解釈なのだろう。
響子ルートにおいて登場する鈴夏。彼女は響子の心の中に存在している「鈴夏への想い」と「響子から見た鈴夏」を繋ぎ合わせ、言霊の力の一端を基に(恐らく)偶発的に産まれた。(本物が混じっていると後に判明するがあくまでも本来存在しない、想像だけの存在である)誠の言霊と同じく響子は鈴夏に心を―命を―与え続けることで鈴夏は本物の人間に近づいていく。響子は鈴夏への贖罪(自分だけが助かった)として幻想の存在である鈴夏に命を返そうと独り決意するのだが、それは周りを顧みない自分本位の贖罪で、自らが常に感じてた「残された苦痛」を自分の周囲の人間に与えることになる。先述した、言葉は心を伝える手段であると言ったように人間は一人で生きるのではなく他者と関わり生きていく姿勢が必要なのだと誠は響子に説いた。
愛ルートでは希を遠征組に抜擢させたことで村に流行り病を持ち込ませてしまった罪の意識が恋塚希(の代わり)として生きていく決意を希が病床で使った雪の言霊の”呪い”を”絆”として抱えている。響子ルートでは「被害に遭った自分を助けたがために相手が死んでしまった」という観点から、愛ルートでは「自分の感情を制御できずに起こした行動が相手を死なせてしまった」という観点から心と命について語っている。

◆天津罪について
簡単にいうと「天津罪=神が犯した罪」と考えて構わないだろう。私は詳しい事は知らないのでこれ以上の事は折口信夫などの研究者の本を読んだりネット等で個人で調べていただきたい。
上記の一部であり、ほたるENDで語られる”天津罪”とは敷播――「誰かが必死に生きようとする、その意志や願いを奪うことは、罪」というもの。つまり、1話でほたるが誠に語った「誰かを”死ね”って思う」事を言霊で実現してしまうこと。それがほたるEND1であり、天津罪を犯した結果である。
ほたるEND2ではほたるEND1でのほたると『ほたる』の定義を入れ替えることを「この願いを僕は叶えない」「僕は人間だ」という信念のもと、天津罪を犯さずに得た結果。言霊の力を命に変えてオリジナルのほたると複製(増加)されたほたるの意識を統合する。という言霊は自らの命を言葉に乗せて相手に分け与えるという言霊の本質を存分に駆使した、とても鮮烈で眩い、美しい回答が示される。


◇水無月ほたるという少女
アマツツミという物語に於いて語るべき存在は何と言っても水無月ほたるであろう。彼女のルートは、所謂グランドルート―trueルートに値する。ストーリー構成として各キャラの本筋ルート(≒共通ルート)を終えると各キャラとのアフター(派生ルート)へと続いていく。こころ→響子→愛→ほたると順に語られていく物語は後続のシナリオに問を、答えを受け渡していく。それらの集大成―回答がほたるルートである。
誠が出会った水無月ほたるは本物の水無月ほたるではなく、本物の水無月ほたるは末期癌に体を蝕まれて病院から出ることはできない。その時、水無月ほたるは世界を呪った。「死にたくない」「生きたい」「元気な姿に戻って生きたい」と狂おしく”生”にしがみついた。するといつの間にか自分の目の前に健康そのものの『水無月ほたる』が現れた。響子ルートでの鈴夏のように(ほたるは一人で生み出した―奇跡を起こしてしまったという違いはあるが)彼女は自己の分身―ドッペルゲンガー染みたモノを産み出した。
この増加した『ほたる』は末期癌に罹患したオリジナルをベースにしており、記憶も経験も保有しているが1週間という期限の中でしか生きられない。彼女は産まれた瞬間から自分が水無月ほたるの偽物であると同時に『水無月ほたる』である事を認識させられる。それは『ほたる』にとって自己同一性を、自己の不連続性を突きつけられる。故に彼女は自分の事をほたると呼ぶ。しかしその一方で世界を憎むほたるの代わりに、かつての水無月ほたるのように世界を愛そうと『わたし』としても行動し、『わたし』の考えも漏らしている。それは『ほたる』にとって自己の”ゆれ”を抑え、『わたし』を世界に残すための行為であった。その『わたし』の行動はオリジナルのほたるには知らされていないので、後続の『ほたる』には知る由もない事なのだが、それこそが「きれいでまぶしい、かつての水無月ほたる」なのだ。



”吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神”という言葉は言霊使いの事を指すと同時に物語の全てにおいて下地のようなものとなっている。「みんなのために自分を守る。」ことは「みんなの笑顔と幸せを守る。」ことに繋がり、「”約束”は普通の人も使える言霊」「言葉で騙せば言葉の価値は落ちる」と、他者と関係する事を切に語っている。
「物事の価値は自分でしか決められない」ので賛同しかねる方もいるでしょう。しかし、なんといっても私にとってこの作品は名作である。


*ところで誠の名字ってなんだったんでしょ?



補遺

◇オリジナルほたるの“願い”と複製『ほたる』の“願い”
末期癌に罹患したオリジナルほたるが神に至るほど願ったのは“死にたくない”という生への渇望。そして、複製『ほたる』の願いは“生きたい”という願い。この2つの願いの【差】というものは得てして創作物に於いて受動と能動の違いとしてよく語られるものではあるが、それ以外にも人間として命を失いたくないという想い、擬似存在として人間の様に命を得たいという想い。そのような潜在的な意識の違いが描かれていたのではないのかな、と

◇「神」の定義
日本は古来より、万物に神が宿るという“八百万の神”の信仰がある。世界的に見ても信仰(≒宗教)としての神が複数存在するというのは特殊な部類である。その中でも日本の八百万信仰は群を抜いて特殊な考え方である。(私はその分野を専攻しているワケではないので、あくまでもこれまでの見聞による個人的な見解であり、確たるソースは存在しない。以下の解釈もこれに基づく)また、神にも幾つかの分類があり、
①山窩といった自分たちとは異なる生活環境で暮らしている者(≒自分とは違う存在)として信仰されるカタチ。
②山や川などといった自然や天災を神として見立て、信仰するカタチ。
③アルビノや奇形児などの忌み子を神として扱うなど。
アマツツミにおける「神」とは人智を越えた存在であるといっていいだろう。前述に沿うならば①と③。神の末裔―言霊使い(①)であり、意識を増殖する能力を得たオリジナルほたる(③)である。
しかし、オリジナルのほたるはあくまでも人ならざる人であり、神としての格は誠に敵うものではないので、オリジナルほたるに「死ね」と言った誠は“天津罪”を犯すEND1を迎える。また、複製を殺すオリジナルほたるも上位の存在として複製の進む道を途絶えさせるので限定的に“神”として君臨しているため“天津罪”を犯している。


散文で尚且つ半端な文章ではありますが、補遺とします。