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north and southさんのうたわれるものの長文感想

ユーザー
north and south
ゲーム
うたわれるもの
ブランド
Leaf
得点
90
参照数
2263

一言コメント

思っていたよりも奥の深い作品だったのかもしれない。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

以下、ほぼ完全なネタバレがあります。ご注意ください。



 長くなるので、最初に概要を述べておく。
1.まず、『うたわれるもの』の世界が、よく考えて見ると異様なものであることを指摘する。
2.次に、その異様さは、一体何を意味しているのかを考察し、その上でゲーム中のいくつかの場面を分析してみる。
3.以上を踏まえた上で、このゲームのラストシーンが持つ意味を解釈してみる。


1.まず、『うたわれるもの』の世界の異様さについて。

 物語の結末近くになって、このゲームの世界に登場するキャラクターたちは、すべてハクオロ(アイスマン)を素体として作られた実験体(マルタ)の子孫だったということが判明する。
 この実験体というのは、前後の文脈から解釈するに、遺伝子組み換えを施した、ハクオロのクローンと考えてよいだろう。
 これはつまり、この『うたわれるもの』世界の登場人物は、全員、ハクオロの遺伝子を受け継いだ、ハクオロの分身のようなものであるということ。

 正確に言うと、登場人物の全員が分身というわけではない。
 アイスマンを研究していた科学者たちのなれの果てである、オンヴィタイカヤンという例外がある。
 だが、彼らが表舞台に出てくることはない。彼らは、この『うたわれるもの』世界の、目につかない片隅に押し込められている。
 しかも彼らは、不定形な生命体で、自らの外見を持つことを許されていない。
 彼らオンヴィタイカヤンは、このゲーム世界において、他のキャラクターの外見を真似する事でようやく自らの外見を手に入れることが出来る、哀れきわまる、キャラ未満のキャラとして存在している。
 この、物語中でハクオロの遺伝子を受け継いでいない例外的なキャラクターである彼らの、徹底的な虐げられぶりは、注目に値する。

 ハクオロがトゥスクルのウルオになってからは、謎の人物が暗躍して、周辺国を巧妙にそそのかし、トゥクルスに戦を仕掛けてゆく。不本意ながら、自国の民を守るため、気が進まない戦を次々に行わねばならぬハクオロ。
 だが、これも結末近くになってわかるのだが、この戦の仕掛け人である謎の人物ディーは、文字通りの意味で、ハクオロの分身なのである。
 ハクオロがクッチャ・ケッチャとの戦いが終わった後、「何の為の戦だ…」と呟く印象的なシーンがある。
 このセリフを呟いたときのハクオロが、この無益な戦を引き起した張本人が、実はハクオロの分身、すなわち自分自身だったと知ったなら、何と言っただろうか。

 仲間も自分の分身。手下も自分の分身。敵も自分の分身。愛人も自分の分身。脇役も自分の分身。
 戦までもが自作自演。
 ハクオロの視点に立って、改めてこのゲームを眺めてみると、『うたわれるもの』世界は、自分自身で充満した世界という風に見えてこないだろうか。

 もう一つ。
 これもやはりゲームの結末近くでわかるのだが、この『うたわれるもの』世界の生態系は、一度終末を迎えて滅んだ地球上に、科学者たちの手によって、元々あったものを再現したものであることが明かされる。
 すなわち『うたわれるもの』世界は、元々の現実世界を模倣してできたものであるということ。

 ここまでをまとめると、『うたわれるもの』の世界は、ハクオロにしてみれば、自分の分身ばかりがいる、現実を模倣したイミテーション世界ということになる。


2.次に、この自分しかいない世界は、何を意味しているのかを考察してみる。

 考察にとりかかる前に、ここで次のような仮説を提示してみたい。
 この『うたわれるもの』世界を、ウィツァルネミテアにとっての、一種の脳内楽園と考えると、上記の異様さは、かなり説明がつくように思われる。

 仮説と言ったのは、『うたわれるもの』世界を形容する適当な言葉を、困った事に、思いつけないからである。
 ここではとりあえず、脳内楽園という言葉を使ってみたが、仮想現実という言葉も捨てがたい。だが、どちらの言葉を使ってみても、このゲームを解釈する上で、矛盾が生じてきてしまう。
 一応筆者は、脳内楽園=自分で生み出した空想の世界、仮想現実=自分以外の人が制作した空想の世界、というニュアンスで、これらの言葉を使っている。私見では、このゲームは、ある箇所では脳内楽園という言葉が、別の箇所では仮想現実という言葉が、ぴたりと当てはまるように思われる。
 おそらく、脳内楽園と仮想現実とを足して2で割ったあたりに位置しているのが『うたわれるもの』の世界なのだろう。そしてこのゲームの主人公は、この世界の製作者(生みの親)であり、この世界を享受しているユーザーでもあるのだと思うが、話を先に進めすぎた。
 ここでは考察を先に進めるための便法として、脳内楽園という言葉を使う。

 ここがウィツァルネミテアの脳内楽園だと考えると、『うたわれるもの』世界が分身だらけな理由は、ひとまず説明がつけられる。
 というのも、妄想の中に登場する人物は、自分の妄想を材料として生まれた、もう一人の自分のようなものだから。

 では、『うたわれるもの』世界がウィツァルネミテアの脳内楽園だとすると、ウィツァルネミテアにとってのハクオロは、どういう意味を持っているのだろうか。ウィツァルネミテアとハクオロは、どのような関係にあるのだろうか。
 仮説から導き出される結論を述べる。
 ハクオロは、ウィツァルネミテアのアバターとしての役割を果たしている。

 ウィツァルネミテアは、傲慢で横暴、性格も根性も悪く、幸と禍とを同時にもたらす矛盾した存在で、一応崇拝はされているものの、その実体を見たものからは、忌み嫌われ、恐れられている。
 その外見は醜く、異様で、初めてウィツァルネミテアと対面したキャラクターの多くが、嫌悪の表情を浮かべ、あるいは泣き叫ぶ。
 また、あまりに隔絶した能力、神に類する力を持っているため、自らと対等の存在を、どこにも見出すことができない。
 彼は孤独な存在だ。テキストを注意して読むと、ところどころに、自らの孤独を嘆く彼の声を、聞き取ることができる。例えば、アイスマンの前身である考古学者が、初めてウィツァルネミテアを見出したシーンなど。
 ウィツァルネミテアの分身であるディーの言動からも、孤独が透けて見える。ディーの行動と情熱のすべては、自らと対等の存在を作り上げることに傾けられている。また、彼は友人というものに、異様なこだわりを見せている。ゲンジマルに対する彼の態度など。
(余談だが、筆者には、ディーの唱える進化とは、虚構のキャラクターをリアルな人間と同等のレベルにまで高めるという意味なのでは、と思えてならない)

 一方、ハクオロは、ウィツァルネミテアとはまるで正反対の存在である。
 頭が切れる。度胸がある。けっこう強い。正邪を判断する力がある。いざという時の行動力がある。温かい心の持ち主だが、冷酷な大人の判断も下せる。度量が大きい。かといって完璧超人ではなく、時に負の感情を抱いたり、けっこう馬鹿なこともやっていたりして、人間臭く親しみがもてる。
 多くの人に慕われ、愛されている。女性などは、求めなくても向こうから競争で押し寄せてくるくらいである。
 これぐらい好感を持てる主人公も、なかなかいないだろう。

 ハクオロとは、誰からも好かれない孤独なウィツァルネミテアが望んだ、理想の自分と言えないだろうか。

 ハクオロは、仮面をつけて登場する。この仮面は、最後の最後まではずれない。これはハクオロが、何者かの仮面的な存在(アバター)であることを象徴していると解釈できないだろうか。
 ハクオロの記憶喪失とは、リアルの自分を忘れて、つまり我を忘れて、脳内楽園に没頭していることの譬えと考えれられないだろうか。

 このハクオロ=アバター説を敷衍させて、二つのエピソードを考察してみたい、

 一つはクーヤとのエピソードだ。
『うたわれるもの』に登場する数々のヒロインの中でも、クーヤは丁寧に表現されているキャラクターだ。
 彼女がハクオロに、少しずつ心を開いてゆく過程は、他のヒロインにもまして、あせらずじっくりと描写されている。
 ゲーム終盤に入ると、あらかたのめぼしいヒロインとのHシーンは終わり、残るはクーヤだけとなる。
 ゲームのプレイヤーとしては、思わざるをえない。他のヒロインとのHシーンは終わった。(さすがにアルルゥとの濡れ場はないだろうから)次はクーヤとのHシーンが来るだろう、と。
 だが、プレイヤーの期待が高まってきたまさにそのタイミングで、次のエピソードが登場する。
 ハクオロが彼女の前で、初めて己の真の姿、ウィツァルネミテアの空蝉としての姿を見せてしまうのだ。そのとき、クーヤは泣き叫んで逃げ回るのである。しかも、ハクオロ以外の他の男の名前を呼びながら。
 結局、主要なヒロインの中で、唯一クーヤとのHシーンは最後まで実現しない。このエピソードには、明らかにゲーム製作者の意図が込められていると思われる。

「クーヤは、アバターであるハクオロのことは慕ってくれていた。だが、本当の姿を見せた瞬間、彼女からは嫌われ恐れられてしまった」
 このエピソードの持つ意味を解釈すると、こうなるだろうか。

 もう一つは、クーヤエピソードの次に、ほとんど間を置かずに出てくる、エルルゥとのエピソードだ。
 クーヤエピソードのあと、回想シーンがあって、そこで初めて、エルルゥがウィツァルネミテアとの契約を結んでいたことが明らかにされる。
 そのことに衝撃を受けるハクオロ。
 すぐその後でエルルゥが登場し、無事だったハクオロを見て、嬉しさのあまり泣き崩れる。
 泣き崩れるエルルゥを見つめるハクオロの頭の中では、ウィツァルネミテアの契約シーンが、何度もフラッシュバックする。

「私は今まで、エルルゥは自分の事を、慕ってくれていたとばかり思っていた。だが実は、自分がエルルゥの愛情と思っていたものは、契約によって強制されていたものだった。今自分の目の前にいるエルルゥは、契約によって縛られた、心のない人形のような存在なのではないだろうか」
 この場面でハクオロが感じた事を言葉にしてみると、このようになるだろう。
 このエピソードのあとで、ハクオロはエルルゥをひたすら避けるようになる。そのあまりに気弱な態度には、これがあのハクオロかと驚かされる。

 これまで『うたわれるもの』世界を、脳内楽園という曖昧な言葉を使って考察してきた。
 このゲームの作品世界は、単純な図式に当てはめることのできない複雑さを持っている。一本の物語にテーマが何本も絡み合っていて、それゆえ一つのメタファーとしてこの物語を解釈すると、どこかに矛盾が生じてきてしまう。
 多義的な物語であるゆえに、単純な絵解きをすることが難しい。
 だが、上記のクーヤエピソードから結末にいたるまでのストーリーに関しては、かなりその意味が絞られているように思われる。
 すなわちクーヤエピソードから物語の結末までに話を限定して見れば、『うたわれるもの』世界は現実を模倣した虚構でしかないギャルゲー世界の象徴、ハクオロは多くのユーザーを満足させるいかにも主人公らしい美質を備えた視点キャラクターの象徴、エルルゥは記号の組み合わせでできた心のない美少女キャラの象徴、そしてウィツァルネミテアは現実世界では彼女どころか友達すらいないキモオタの象徴として描写されていると言ってしまいたいくらい、テーマがはっきりと絞られているように思われる。

 ここで、筆者が、このゲームの中で、とりわけ重要だと考えている場面を考察してみたい。
 ハクオロが、これまで自分と行動をともにして来た仲間たちに自らの真の姿を現して見せ、もう一人の自分と対決しに行くシーンの直前に、その場面は出てくる。
 ハクオロが、(エルルゥ、それでもお前を……)と心の中で呟き、無言でエルルゥにキスする場面だ。
 これまで述べてきた作品解釈を踏まえたうえで、この場面でのハクオロの内心の呟きを補ってみると、次のようになるだろうか。

「エルルゥ、俺はこの世界が、俺にとっての脳内楽園、仮想現実のようなものだという事を知っている。また、お前が、俺との契約によって縛られた、心のない人形のようなものだという事も知っている。それでも俺は、この世界を否定する気にはなれないし、お前のことも、お前との間にこれまであった事も、否定する気にはなれない。お前がどうあろうと、俺はお前の事を愛している」

 この場面でハクオロは、『うたわれるもの』世界のいびつさ、おかしさを自覚しながらも、このいびつな世界のことを肯定しているように思われる。
 その肯定の仕方の、何と遠まわしで控え目なことだろう。
 この遠まわしで控え目な姿勢は、「お前は現実逃避をしている」という、あまりに正論すぎる正論を、痛いほど意識している人間のそれを思わせる。正論を十二分に自覚した上で、彼はこのいびつでおかしな世界を、(でも、この世界は自分にとって大切なものなんだ)と、あえて肯定しているのだと思う。
 この静かな、そっと囁くような肯定の仕方に、切実さを感じる。ここにはカミングアウトのような響きすらあるように思うのだ。
 このような解釈をした上で、クライマックスのシーンを改めて見てみると、そこに含まれている意味に驚かされる。
 ハクオロ=ウィツァルネミテアは、『うたわれるもの』世界を肯定するあまり、その世界に禍をもたらす自分自身を断罪するに至るのだ。その世界の生みの親であるような自分自身をである。
 これは『うたわれるもの』世界の、究極の肯定行為と言えるのではなかろうか。
 と同時に、このシーンには、脳内楽園、仮想現実にすら、ついに自らの居場所を見つけることができなかった人間の悲痛さを感じてしまう。

 ここで、最後の戦いが終わった後でのエルルゥのセリフにも注目してみたい。
 エルルゥは、ハクオロを愛する気持ちがありながらも、これまで契約に縛られて、自らの気持ちを自由に表すことができなかった、という事実がここで明らかにされる。
 つまり、これまでゲームのプレイヤーが接してきたエルルゥの言葉や行為のすべては、契約に制限され、半分操り人形と化した人のものだったということ。
 思えばエルルゥは不思議なキャラクターである。心のない操り人形と、温かい心を持った生身の人間との間を、揺れ動いているように見える。
 私見では、彼女は、ギャルゲーのプレイヤーが、二次元美少女に対して感じる両義的な感情を体現しているように思える。
 多くの人はギャルゲーをプレーするとき、これは作り物の世界なんだという、いくぶんアイロニカルな気持ちで臨むものだと思う。登場する美少女キャラにしても、その言動に、プレイヤーを萌えさせようとするライターのあざとい計算を読み取ってしまったりする。そんなシニカルな目でゲームをプレイしている時、プレイヤーにとって美少女キャラは、心のない記号の寄せ集めだと言える。
 だが、プレイヤーは時として、それが作り物の世界であることを忘れて、不覚にもゲームに没頭する。美少女キャラの言動に、リアルの人間に対している時のように、心を動かされ、波風を立てられ、揺さぶられる。そんな時、記号の寄せ集めであるはずの美少女キャラは、プレイヤーにとって、リアルに近い存在と化している。
 アイロニカルに接しているときは、どこまでも心のない人形。だが、ゲーム世界に没頭しているときは、リアルに近い存在と化す。
 エルルゥは、そんな美少女キャラの象徴として描かれているように思う。

 結局、どこまでも『うたわれるもの(疎われる者)』でしかないと自らを定義し、『うたわれるもの』世界から身を引こうと決意したハクオロ=ウィツァルネミテアは、意外なことに、これまで行動をともにしてきた仲間たちから慕われている自分を発見する。
 これは、アバターハクオロへ寄せられていた敬慕が、そのままウィツァルネミテアへも寄せられたという面もあるが、それだけではない。
 ハクオロ=ウィツァルネミテアの空蝉は、記憶喪失であったがゆえに、つまり『うたわれるもの』世界に没頭し、登場するキャラクターを、リアルなもの、自らと同等の者として、彼らのために考え行動していたがゆえに、彼らの愛情を勝ち取ることに成功したと言えないだろうか。
 その点、わが子たちを愛していると言いながらも、決して自らと同等の存在として認識していなかったディーとは、対照的だ。ディー(分身)とハクオロ(空蝉)との直接対決の時、ディーに味方しようとするキャラは一人もいない。
 ここにも、アイロニカルに接しているときは単なる記号の寄せ集め、没頭したときにはリアルに等しい存在という、空想の世界の特性が示されているように思われる。

 以上のまとめ。
『うたわれるもの』は、ギャルゲー批評のギャルゲーという側面をもった、一種のメタゲームである。また、このゲームでは、ぎりぎりのところで、時に現実逃避的と非難されることもある、二次元世界、仮想現実が肯定されている。


3.最後に、このゲームのラストシーンを考察する。

 ハクオロ=ウィツァルネミテアが『うたわれるもの』世界から去り、エンディングムービーが流れたあと、物語の後日談が語られてゆく。
 その中で、この世界を去ったはずのハクオロ=ウィツァルネミテアが、再び戻って来たのではないかという予兆が、暗示的に示される。
 最後にエルルゥが登場し、彼女が“あれ、誰か来たのかな”という表情で、背後を振り向いたまさにその瞬間のCGが示されたところで、このゲームは終わっている。
 この最後のCGについて考察してみたい。

 この最後のCGで描かれたエルルゥは、視線の先にある人物が誰なのかを認識する直前の表情をしている。
 やってきた人物を認識した次の瞬間、彼女の表情はどのように変化するのか。
 それはわからない。
 そもそも、この時エルルゥの背後に近付いてきた人物は、何者なのか。
 すべてはプレーヤーの推測にまかされている。

 素直に考えれば、やってきたのはハクオロ=ウィツァルネミテアだろう。その目的も、エルルゥと、穏やかな暮らしを営むためと思われる。
 そもそもハクオロの前身である、アイスマン=ウィツァルネミテアは、愛する人と穏やかに暮らせれば、ほんの少しの幸せで十分に満足できてしまうような人だった。
 科学者たちから過酷な扱いを受けて、怒りのあまり、長い年月、歪んだ状態にあったウィツァルネミテアだが、エルルゥがミコトの子孫とわかった時点で、その怒りもほとんど解けている。
 それゆえ、あの最後のCGの後で、エルルゥは再会したハクオロに嬉しげな笑顔を見せ、それに続く物語はハッピーなものになることが予想される。
 だが、戻ってきたハクオロ=ウィツァルネミテアが、今までプレーヤーが見てきたハクオロと、同じ存在ではないのも確かだ。
 戻ってきたハクオロ=ウィツァルネミテアは、アイスマンと分身と空蝉の三者が入り混じった人物なのだから。

 一度は『うたわれるもの』世界のために、我が身を封じさせたハクオロ=ウィツァルネミテアだが、再び戻ってきたということは、自らが抱えていた問題に、何らかの解決策を見出せたのだろう、と考えられる。その解決策とは、『うたわれるもの』世界の住人たちと、自らとが、幸せに暮らしていけるような、自らのあり方だろう。
 だが、そもそもハクオロにしても、ディーにしても、善意でやった行為が、禍を引き起こしてしまうという、どうしようもない業をかかえた人たちだった。
 それゆえに、あのラスト一枚のCGには、かすかな不穏さが漂う。

 あのラストのCGのあとで、エルルゥは微笑むのか。あるいは、まさかだが、ハクオロの本性を初めて見たときのように、恐怖の表情になるのか。

 また、仮面を失ったハクオロ、つまりアバターでなくなったハクオロは、いったいどのような存在となるのか。
 ここでのエルルゥは、ゲーム冒頭でのように、鏡を差し出して、はい、これがあなたのアバターですよ、と教えてくれたりはしない。

 この最後のCGで描かれたエルルゥの視線は、いまだ形を定めぬアバターを通り抜けて、これまでずっとハクオロというアバターの影にかくれ、ウィツァルネミテアと同じ立ち位置に立ってこのゲームをプレイしてきたプレイヤーに、直接突き刺さり、「あなたは誰?」という問いを、問いかけてきているように思われる。そして、その問いに対する答え―――戻ってきたハクオロ=ウィツァルネミテアは、一体どのような存在になっているのか―――という問いに対する答えは、このゲーム全体をプレイヤーがどう受け取り、どう解釈しているかによって大きく異なってくるだろう……という私的見解を述べて、この長文を締めくくりたい。