純粋にいい話を楽しめていた、子供のころを思い出した。
とりあえず、苦言をひとつ。
せっかくのキャラクタがストーリィに引っ張られてしまっている。
これがとても残念。
それは、ななかルート、小恋ルートに顕著だったと思う。
ヨシユキをはじめ、この作品に悪人は登場しない。
社会的に悪人、ってことじゃなく、もっと情緒的な意味で。
にもかかわらず、そのルートではヨシユキ、渉、などの思考に
一貫性が失われる。これはどう考えても不自然。
ストーリィに引っ張られる形でアイデンティティを捏造されてる。
これは残念だった。
正直この両ルート、後半は流し読み。
ただ、そんなことは微々たること。
この作品の本質はもっと別のところにある。
この作品は、不毛で無意味に美しい。
話のシステムがかつて読んだ童話の形にとても似ている印象を受けた。
童話というジャンルでは、喪失をモチーフにした作品が圧倒的に多い。
何かを失い、それを取り戻す。それが童話の基本形。
童話は取り戻すとき、ただ、取り戻す。なぜ、どうやってに注目しない。
なぜなら、重要ではないから。
童話はゴールが決まっている。
だから、大切なのは決まったゴールまでの筋道。
つまるところ、失ったら取り戻すのがかつての童話。
それに対して現在のストーリィは奇跡を許容しない。
奇跡を起こすにもそれなりの下地があることが必要になってくる。
確かに、それは面白いしリアリティのある作品になり得る。
でも、純粋な奇跡。話を作りきって、後はポン、って奇跡を起こして終わり
っていう、不毛な物語もやっぱり面白い。
安心できる。何の背景もない奇跡はゴールの収束を意味しているな、と思う。
この不毛な奇跡は、作中に入れ子式で語られている。
学園祭(?)の人形劇ではサンタをモチーフに奇跡が語られる。
重要なのは、ナレーションで奇跡、という語を使っていること。
これにより、人形劇<本編の物語順位が決定した。
本編の奇跡が創作ではなくメタ物語中の奇跡であることをアピールした。
そして、あのさくらルート。
この作品がただの童話でなく、それを見事に現代風にアレンジしている
ことがわかる。
この作品は久しぶりに、いい物語だったなと思った。
不毛で無意味な奇跡の純粋さを感じたし、それゆえの美しさを持っている作品だと思う。