2011年。「水平線の歩き方」を観て感想追記(タイトルの意味について)。彼らが目指すのは、追っても追っても届くことはないもの。しかしそれは追い続けるだけの魅力に溢れている。その何かを水平線に託して・・・
序盤が厳しい。それがこの作品の大きすぎる欠点。
ヒナタが部活に参加するようになるまでが、もう耐え難い。
しかし、そこからは非常に良い。
さわやかでまっすぐな学生たちのお話。
痛みのない感動を描ける作品は貴重だと思う。
攻略順が非常に大事。
会長は絶対最後にやるべき。
さて、では以下この作品への賛辞を。
この作品の本質は「参加することに意義がある」だろう。
この言葉、本編の中でさえ、ややネガティブな意味で用いられるが
それを突き詰めていく作品の描写を観ると、「参加」の大きな意義に気づかされる。
「参加」することには様々な困難が付きまとう。
(この話は時間があったら追記)
そして成功は「参加」の上にしか成り立たない。
成功するかしないか、というのは「参加」するかしないか
に比べればたいした決断ではないし、困難もない。
人間が生きていく中で、もっとも困難なのは未知へ踏み出すこと。
その決断こそが「困難」の本質なのだと思う。
しかし、人間はすごい生き物で、ある一定の期間において、
この「参加」をいとも簡単に決めることが出来る。
そしてその期間を誰もが経験するからこそ「参加」が軽んじられるのだ。
実際のところこの作品は、「参加」を決める描写はほとんどない。
主人公は流されて勢いで決めてしまう。
この時間こそが人間の勘違いの元凶である。
まぁ、しかしながら、この決断は流されるままの主人公とは違い
そこにいたるまでの会長の深い思慮に裏打ちされた決断も想起される場面ではある。
ともあれ、彼らはいとも簡単に最大の関門をくぐることになる。
さてさて、では「いかに参加するか」と言う点に話は収束していく。
その関門をくぐることと引き換えに、彼らは大きな大きな鎖に縛られることになる。
それは「目的」である。
本来「宇宙科学会」の存続こそが目的であるから、
それを達成することを考えれば、リスクを極力拝したプランを立てるべきだ。
しかし彼らはそうしようとしない。
なぜなら彼らが縛られる「鎖」とはまさしくそういう規制だったからだ。
彼らはとにかく走るだけだ。ペース配分などは思考からはずされ、
とにかく走り続ける。疲れてもそれ以外の手段を知らないから、なお走る。
彼らの当初の「目的」は最早あってないようなもの。
走り続けることこそ「目的」なのだ。
そしてゴールは本番当日競技開始直前。
スタートラインにたった場面で既に彼らの物語は終わっている。
もう走る必要がないから、いや走る舞台がないからだ。
彼らの目的は「走る」ことそのものだったから、
本番はもう蛇足でしかない。取るに足らないエピローグなのだ。
最後まで走りきることで示した
「参加することに意義がある」
やはり「参加」することは美しいことだと思う。
2011年追記。
キャラメルボックス(演劇集団)の「水平線の歩き方」をみて思ったことを追記。
水平線までは約4.4キロだそうです。ピタゴラスを使えば簡単にわかりますが
そういわれるまでまったく知りませんでした。そしてそんなに近いんだ、と驚きます。
それをふまえてこのタイトルを考えると非常に味わい深いです。
水平線。それは果てしないものの代名詞。地上にいる私たちからみると、
そこは憧れても届かない場所。
このタイトルも果てしないことへの挑戦。というタイトルだと思ったけど
それは間違いでした。
厳密に言うと半分正解だけど届いてないなぁ、と言う感じです。
水平線という一見果てしない場所。それは果てしない希望・夢と同義。
彼らの挑戦は果てしなく見えるけれど、
実は挑戦を始めてしまえば難しさはあまりない、といえるでしょう。
改めて、遠くに見えるものでも歩き始めなければしょうがない。
また、最大の困難は一歩目を踏み出すことなんだ、ということを
教えられました。このタイトルはすごい。