強くて賢明な女性を書かせたら瀬戸口の右に出る者はないと思っていたが、その思いは今作によって一層強くなった。
【総評】
強くて賢い明子さん・朝さんが余りにも魅力的だった。Musicusの三日月といい、Black Seep Townの松子といい、こういう女性を書くのが瀬戸口は本当に巧い。彼女らの強さ賢明さが、作中人物だけでなく、作品世界そのものを救済している。
女性たちが強くて賢明であるがゆえに、幾つかのエンディングで彼女たちが辿る悲惨な末路は殊更に堪えた。そうしたバッドエンドには、「この主人公の性格を考えると、ちょっと無理しているな」と思わせる選択肢を選ぶと行けるのだけれども、こうした過度に説明的で態とらしい所も含めて、いかにも瀬戸口らしい作品であった。
【エンディング】千種正光2・天間武雄3
千種先生や武雄さんの性格から考えて一番ありそうな選択肢を選べば、順当にトゥルーエンディング。千種先生も武雄さんも本質的にtender-mindedであるにもかかわらず、あえて理屈っぽくtough-mindedな選択をするとバッドに行く。
【千種先生の話】
千種先生の場合、母親を東京に引き取らない選択肢を選んでしまうと、自分の考える「あるべき医師」イメージに縛られてワーカホリックになる。そんな千種の状態を見た朝さんは、彼に迷惑をかけまいとして病状を取返しのつかないほど悪化させてしまう。
こんなふうに誰かが意固地になり、周りとのコミュを断った結果、そのコミュ全体が崩壊する話は、瀬戸口作品ではお馴染みだ。しかし、あの愛すべき、未来ある、その名も朝さんが、正体を失って汚い小屋に押し込まれているシーンは実に遣る瀬ない。
これに対して、母親の末期を東京に引き取って看取ってやると、千種先生としては医者となった目的の一つを達成したことになるのだろう。小さい頃からの「あるべき医師」への執着心が薄れて、そのおかげで周囲とも上手くゆく。周りを頼れるようになって、いろいろなことが円滑に進むようになる。父の子爵が言うように、先生は前々から誠実に努力していたので、それを見ていた周りの者も頼られて悪い気はしないというわけである。
朝さんも素直に千種先生を頼れた結果、病状も酷くは悪化せず、そのおかげで社会の中で活動し続け、どうやって留学しようかなどと幸せに悩むことができるようになる。
私は、正さんが朝さんを引取る場面が、このゲームで一番好きだ。千種先生に掛かると「一番大事な患者」が最高の愛の告白になるのだから、苦笑しながら感動するよりほかはない。このあと、朝さんの正さんに対する言葉遣いが大人の話し言葉になるのも好い。
【武雄さんと明子さんの話】
武雄さんと明子さんの話は、基本の作りが千種先生の話よりも単純だ。いな、絶対的に単純だ。これは、美男美女の病気系メロドラマであり、それでしかないからだ。
千種先生の話では加鳥先生があからさまに呉英三だったが、こちらも夏目漱石らしき小説家がいて、その娘が平塚雷鳥と同名のハルという才媛である。一高の秀才が寄宿しているが、この男も沈着冷静で胆力がある男の傑作である。さらに常見家には、夫とウマの合わなかった、漱石の奥さんに相当する母親も居ない。美男美女が惹かれ合うには、絶好の状態である。そこに女が病気と来れば、典型的なメロドラマになるのは当然だ。
前の千種先生の話は善悪併存の長編小説的人物から成っていたが、こちらの人物造型は単純で、従って完璧に美しい。いかにもメロドラマだ。
しかし、メロドラマだと判っていても、登場人物の言動が単純に過ぎれば読者は変だと思うものだ。
たとえば、武雄さんは気が回る上に、熟慮の上で行動するひとなのだが、そういう人間が抑も「(ひひるに)手を下」したり、肝心要の勘所で「常見家を出て入寮」したりするものだろうか。エンディング分岐の為とはいえ、不自然である。
また、よく物を考え、世事も呑込んでいて、あれほど娘の行く末を気にかけていた鎮柳先生が、どうして自殺するのか。あれは、書き割りに従って死なされているようにしか思えない。
思えば、『こころ』について、「あの場合、自殺そのものが不自然ですねえ」と言われた本家本元(漱石)も、「そうかねえ、不自然かねえ」「自分じゃ、ちっとも不自然だとは思わないがね」などと応えているので(江口渙『わが文学半世紀』)、書き手というものは、自分の書割に従っている限り、登場人物がおかしなことをやっても、それを変だとは思わないらしい。それもそうか。
どうにも私には引っかかるのだけれども、それでも、否、それだからこそ、この話はメロドラマとしては良く出来ていると思う。そして、誰だって良く出来たメロドラマで泣かないわけにはゆかないので、もちろん私もやられた。メロドラマで泣かない唯一の方法は、メロドラマを読まないことであるが(坂口安吾)、こんな単純な話をうまうまと読まされてしまったのは悔しい気がする。