このゲームは、ジュードのように孤独な仕事人間で、しかも、現代社会に抑圧装置以外のものを見出せなくなった2020年代の中高年に、これ以上なく安らかな死と終末のイメージを与えてくれる。グラフィックも音楽もシステムも素晴らしい。
これまでのロミオ作品の底には、アナログな人同士の繋がりや、シビアだがそれなりに包容力のある共同体といったものへの信頼があったと思う。そこの脇役には、癖はあるが分別もある中高年が出て来て、これが物語世界を支える社会を作り、主人公達の最終的な受け皿にもなっていた。
ところが、本作には、そうした分別ある中高年男女は出てこない。精確には、そうした中高年は社会の中には存在しない。ここでの社会は、ひたすら抑圧的で暴力的なだけで、他人は文字通りの他者でしかない。しかし社会の外側には、社会の間をつなぐ運び屋とか、社会を俯瞰する科学者とかで、そこそこ分別ある中高年が辛くも生き残っている。もちろん、その連中だけでは昔の社会は取り戻せない。
ところが、そこに、ちょっとした偶然というか、突然変異が発生する。そこに、あとの無くなった中高年たちが引き寄せられるようにして集まり、なけなしの希望を未来に繋ごうと、旧社会人最後の物語を紡いでゆく。
【総評】
フィリアやデリラの脳が粘菌で出来ている、と知ったときに、ああ、ロミオのようなアナログな昭和人でも遂に社会の未来を信じられなくなったのか、と思った。
今までの作品の基調に在った、どこか懐かしい柳田国男の常民共同体はもう使い物にならず、ミクロの粘菌をマクロの真言曼荼羅につなぐ南方熊楠のブッ飛んだ世界にしか希望が残されていないとは。
【梗概】(既プレイの方は読み飛ばして下さい。)
メインのストーリーは甚だ単純だ。
現代社会が崩壊した後の世の中で、独身中年の運び屋(ジュード)が、アンドロイド少女(フィリア)の搬送を請負う。文明が滅んだ世界にあって、都市の廃墟や森林山岳を、半ば野生化した人類や、下手をすると攻撃してくるAIロボット(シンギュラリティマシン)を躱し、時には戦いながらの道中となるので、運び屋が必要なのである。
このアンドロイドは変っていて、確かに機械であるにも拘わらず、そこらの小娘程度の知性・体力しかない。ただし、なぜか、「人間になりたい」という欲求を植付けられている。荷主(ウィレム・グロウナー公爵)の依頼もあって、ジュードは目的地に向かうあいだ、少女を荷物としてではなく人間の少女として教育する。道中の紆余曲折を経て、ジュードも絆され、旅も終わる頃にはフィリアを半ば娘のように思い始めており、手放せなく成りつつある。
その一方で、運び屋という仕事に生涯を捧げている身としては、ジュードは、公爵の許にフィリアを届けねばならない、という思いも強くある。というのも、ジュードにとっての運び屋とは、たんなる生活の伝手ではなく、ほぼ完全に壊れかけた人間社会を繋ぎ、そこに最低限度ではあるが文明をもたらす存在であって、人間の文明だとか文化だとかの命綱だからであった。しかも、運び屋となるにあたって、ジュードは妻子を捨てたという経緯もある。そんな人間が、いまさら娘を持つのは、ジュード自身が分析するとおり、たしかに都合の良すぎる話で、二重の意味で欺瞞なのである。
目的地に到着したジュードと公爵との対談から、文明の崩壊からシンギュラリティマシンにいたるまで、物語の伏線は、ほぼすべて回収される。(到着直前にジュードとフィリアとが出会った、フィリアと同タイプのアンドロイド少女(デリラ)に関するサイドストーリーに含まれた謎は、この少し前に明かされている。)
もちろん、このグロウナー公爵がラスボスである。ただし、ジュードが理解しているとおり、この老公爵は悪党ではない。むしろ「科学の信奉者」であって、フィリアを要する目的も、人間社会・文明の復活という、運び屋ジュードと同じものであった。
結局のところ、ジュードは公爵にフィリアを引渡さず、引き留めようとする公爵を殺してフィリアと共に元の世界に戻り、フィリアを一人前の運び屋に育て上げ、そこで死ぬ。
【印象に残ったところ】
初期設定通りに博愛主義の綺麗事を並べていたフィリアが、ついに銃を人に、しかもジュードに向けるほどの深く憤ったシーンには見入った。フィリアを突き放し、怒らせたジュードの発言は、予想通りの内容であったが、ここでフィリアが銃を向けてくるとは思わなかったのである。
銃嫌いのフィリア銃を撃てるようになる、という流れが、この物語では成長なのだろうとは分っていたが、ここでやるとは。子供の成長は得てして思いがけないところに実感されるそうであるが、本当だった。ジュードの言うとおり、確かに撃たれても構わないと思わせるものがあった。
【あと一歩だったところ】
これに対して、ジュードの死は、美しく、理想的ではあるけれども、さほど感じ入らなかった。
その理由は、1つには、公爵との対決からジュードの死に至る2ヶ月間の話に尺が取られていないのと、もう1つには、あの静かな死が、生命活動を死の直前まで100%に保つ薬という薬の恩恵を蒙りすぎているからである。とってつけたような奇跡の薬は、御都合主義のデウス・エクス・マキーナだ。あの薬を登場させずに、死に至る過程が詳しく書込まれていたら、さぞや感動しただろう。
また、ジュードとフィリアが、宇宙基地で分解されたアンドロイドの肢体を発見するシーンは安直だと思った。
このシーンを入れれば、グロウナー公爵を撃ったジュードの決断にプレイヤーが共感しやすくなると考えたのだろうが、もともとグロウナー公爵は、ジュードのネガか分身のような存在で、ジュードが実現し得なかった、科学による人類の救済を実現しつつあった。話の本筋は、そういった半身を切り捨ててフィリアという一個の人間を択ぶまでのジュードの内なる懊悩にあったはずで、そこに「あいつは切り捨てられて当然の奴だった」という外付けの理由が唐突に入り込んでも、しっくりこない。