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neruruさんのD.C.P.C. ~ダ・カーポ プラスコミュニケーション~の長文感想

ユーザー
neruru
ゲーム
D.C.P.C. ~ダ・カーポ プラスコミュニケーション~
ブランド
CIRCUS
得点
99
参照数
365

一言コメント

誰がなんと言おうと譲れません。いかに不完全でも、いかにご都合主義でも、いかに現実的な意味でつまらなく、二番煎じでも、私はジーザス的な自己犠牲精神(?)を以てこの作品を愛しますwたとえ、世界で最後の一人になったとしても、クマとメガネと人形使いを愛しますwなぜか。それは……… 感想は無印も含めたものです。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

ダカーポの良さを語ることは非常に難しいです。
絵、音楽、声優、歌は一流、シナリオ、キャラなどは
二流以下というのが一般的な位置づけです。
絵はいわずもがなですね。
好き好きはあるかと思いますが、CGもきれいですし、とても丁寧です。
音楽は確かに良いです。心に残る曲ばかりですね。
そして、それを挿入するタイミングがなかなか絶妙です。
声優さんたちも素晴らしい。彼女たちの力が、作品に花を沿え、
どのキャラも甲乙つけがたい魅力を放っています。(とくに無印は)
歌も文句なしです。特にエンディングのノスタルジックな雰囲気は、
作中のこそばゆい(by Circus)切なさも相俟って、
これ以上ないくらいマッチしています。
では、シナリオとキャラはどうでしょうか。
突拍子もないキャラ設定。そして、それすらも生かされていない中途半端さ。
泣かせたいのか、考えさせたいのかわからない結末。
激しく落差のある各ストーリー。エロシーンの無理やりさ。
なんだかネガティブな部分ばかりになってしまいます。
唯一、見られるのは美春くらいでしょうか(これも非常に個人的ですw)
しかし、私の中で、そんなことはどうでも良いのです。
いや、どうでも良くないのですが、さして重要ではない。
ゲーテは言いました。人間とは不完全だから愛らしいのだとw
ダカーポにその言葉を適用するのも欺瞞という気もしますが、
私はそのやりきれない未熟感と、そこから沸き立つむせかえるような「ギャルゲー感」
が大好きなのです。

私は、この作品から、エロゲー界に足を踏み入れました。
正確には無印ダカーポからです。
衝撃でした。
ここからつまらない過去回想です。そして蛇足です。
うらぶれた海岸に打ち付けられた海藻のように無意味なので、見たくない人は
飛ばしてください。たぶん、一人も見ないでしょうw
(この先の記述には、文学的な誇張表現が多々あります)

あれは、数年前。
私はまだ、多角的な意味で放たれ小僧でした。
世界は狭く、自分は偉大で、
この世で一番うまいものはスイカだと思い込んでいました。
朝は寝坊し、だらだらと必要なことを不十分にこなし、だらだらと帰宅していました。
だらだらという言葉が、レトリックな意味で素晴らしい表現だとすら考えていました。
あのときの私の生活は、何の実りもない、
まるで冷蔵庫の奥のひからびたナスのようなものでした。
それは乾燥しきっていて、どこにもいけない何にもなれない。
冷蔵庫の奥の袋小路に安置されている。そんなようなものだったんです。

その春の雲のように間延びしきった僕の生活を
いっぺんに変化させる出来事がありました。
それは、エロゲーです。
もう、ほんとに唐突にエロゲーです。青天の霹靂。
何の前触れもなく、彼らは私の目の前に現れ、いままでの私の常識を、
まるで油菜を摘むみたいにさっと持ち去り、代わりにいくつかの意味ありげな小石を
私の内側に投げ込んで、あっという間に通り過ぎていきました。
その前後の関係は、限りなく独立的であり、絶対的でした。
私はそれまで人生とは、連続的で、相対的だと思い込んでいました。
しかし、世界は広い。間違っていたのです。
本当に、それは唐突に転がり込んできたのです。
彼は笑顔で言いました。
「やってみないか、エロゲー(サムズアップ)」
彼は親指を立てて言いました。なぜ親指を立てたのかは今もってわかりません。
私に把握できたのは、現実的に私はエロゲーを手にしているということ、
そして彼の親指に、何かの暗示のように濃い毛が生えていたということくらいです。
そのどちらも私には理解できませんでした。把握できても理解はできなかった。

そういう経緯で(どういう経緯だ)エロゲー、つまりダカーポを手に入れた私は
さっそくそれをプレイしてみました。
自慢ではないのですが、それまで私は完膚なきまでに一般人でした。
一般人にありがちな感性をもってして、それなりに洒落た格好をし、
一般人にうけそうな話題を持ってきて、つまらないコミュニティを作り、
一般人にありふれた感覚をもってして、オタクを馬鹿にしていました。
そう、自分は偉大だったのです。
私は、素敵な修辞でいくらでも自分を美化し、高い壁をもってして、どんな箱庭でも
築くことができました。その壁は、冷たく、静かで、何も寄せ付けませんでした。
しかし、エロゲーはそれを、軽く飛び越えてきました。
パソコンにゲームをインストールする私の手に迷いはありません。
今考えれば不思議です。その前日まで一般人(であったはず)の私が、
ある日の午後11時20分頃を持って、
オタク的な世界に入り込んでいったのですから。
でも、それはとても自然なことだったし、とっかかりも、違和感もありません。
むしろ、しっくりとした不思議な抱擁感すら感じました。

私が最初にプレイしたのは、音夢ルートでした。
たぶん5時間とかそれくらいかかったんじゃないでしょうか。
下手したらもっとかかったかもしれないのですが、あまり覚えていません。
ただ、一気に終わらせました。一瀉千里の勢いです。
これはもう、非常によかった。
何がよかったのか、うまく形容できません。
それは、生まれて初めて日の出を目撃したときの感覚に似ているかもしれません。
自分の中の何かのアケボノです。
始まったのです。その日そのときその瞬間から。レッツおたくライフ。
そのときから私の人生は、素敵に弧を描いて脱線していきました。
世界は広く果てしなくそして青く、自分は矮小ながらも確かで、
スイカは確かにうまいけど、マンゴーはそれに比肩するということが理解できました。
いまでは、過去私の乗っていた人生という名の列車は、線路のない草原で
静かに朽ち果て、たくさんの草花や名も知れぬ小動物たちの住処になっています。
私は、見果てぬ地平に向かって、ゆっくりと歩いています。
それは、あのときダカーポをプレイして目撃した朝日を再び見るための旅でもあります。
レッツラゴー。死語ですね。


過去回想終わり。


そういうわけで、私にとってダカーポは思い出深い以上に、意義深い作品です。
この作品は過去の私の日常を穿ち、風穴をつくり新たな可能性を見せてくれました。
もちろん、それが良いことなのか悪いことなのか、わかりませんw
わかりたくもありませんwそういう分別は、とくに必要としていませんのでw

いろいろ前置きが長くなりました。相変わらず支離滅裂ですね。
で、前述したとおりダカーポをプレイしてから数年が経とうとしています。
もちろん、私の立場上、姿勢上、批評はできません。したくありません。
ダカーポという作品について、系統的な解釈を見つけることもしません。
それは過去のもの、しかもある程度遠いかこのことですので、
その権利はありませんね。
だから、覚えている限りの感想です。
というより、どっちかと言えば、
そのときに抱いたある種の衝撃とでもいいましょうかw

最初にも書いたとおり、この作品ははっきり言ってアンバランスです。
正直に言えば、完成度はそこまで高くないんじゃないでしょうか。
私の周りでも、挫折した人が幾数人。
昨今のギャルゲー市場のレベルから見ると、明らかに劣っています。
もちろん、絵や、音楽、歌、声優さんたちの熱演など、
きらりと光る部分も無視できません。
ただ、ギャルゲーというものが、一種の「読み物」的な体裁を
持っている以上、シナリオそしてキャラ性は決して無視できません。

また、純粋な、エロゲーとして勝負していないのもなんというか中途半端です。
この作品が、キャラ萌えだけを前面に押し出し、そのキャラとのHを楽しむ作品
(ファンディスク的な作品)であれば、ある意味完成されていた気もします。
しかしそうではない。
明らかにこの作品のシナリオは、「読ませよう」としています。
少なくても私はそう感じました。シナリオを蔑ろにできる作品ではないのです。
そういうところがこの作品のアンバランスさなのです。
どっちつかずとでも言えばいいのでしょうか。

そして、そのアンバランスさが、この作品の評価を著しく下げています。
いまさらこの作品の新解釈や、シナリオの奥深さなど語ることはできないと思います。
なぜなら、そのアンバランスさは歴然たる事実であるから。
この作品は、シナリオも浅いし、キャラの掘り下げも不十分。そうなのです。
だけど、私にはそれが心地良いのです。
これはもう、はっきり言ってとてつもなく個人的な領域です。
私の(あくまで、私の個人的な認識です)中では、ギャルゲーというのは、
どこか読み物としては二流以下であるという認識があります。
それは、ダカーポで始まり、現在に至るまで一貫して変わらない認識です。
でも、その二流感というのは、とても尊いものです。
文学がなんでしょうか、精緻なプロットがなんでしょうか。
メッセージ性や、文学的な系譜としての重要性、はっきり言ってどうでも良い。
あらゆる人間が、一流を目指してまるで穴に集まるうなぎみたいに、
作品を作り続ける。
それって、息が詰まるような気がしませんか。
一流なんてごく少なくていいんです。
少なくても、一流を目指す人は少なくていい。
何が一流なのかという問題にもよりますが、
ダカーポをやったときはたと気づかされました。
この、ぬぐいきれない手作り感。
作り手のちょっとおかしな狙いや、苦労のようなものがにじみ出てくる感じです。
それが本当に心地よいのです。
これは「良い本」を読んでいるだけでは決して味わえない
(一部の作家の処女作などでたまーに味わえるくらいです)得もいわれぬ感覚です。
作り手の手触りのようなものが感じ取れるのです。
そこから透けて見えるのは、確かに、深いメッセージでも、
世の中を震撼させる驚きの展開でもありません。製作者の、慈愛でも、風刺でもない。
どこか人間らしい、不完全な感動なのです。
それは、私たちに、潜在的に潜んでいる原初の感覚です。
多くの人の心の影にひっそりと住んでいる「何か」です。
その、心の奥と通じ合う二流感が、
ダカーポにはもっとも顕著に現れている気がします。
それはたぶん、一部分の出来がとても良いからでしょう。そして出来が良い部分が、
作品のファクターとして、本質からやや離れたところに存在しているからだと思います。

ダカーポは、不思議な作品だと思います。
今でも音夢や、ことり、さくらと言ったキャラは人気があります。
シナリオは微妙でも、声優と、たぐいまれなるキャラ性に恵まれた彼女たちは、
二次元世界の偶像として、これからも息づいていくことでしょう。
本質的なサーカスの狙いは、まず十中八九私の考えているものとは乖離していると思います。
だから(といってはいささか語弊がありますが)サーカスは曲芸商法をしますし、
奇妙なファンディスクも発売していきます。
だからこれは、あくまで私の独りよがり…だと思います。
ただ、そうも言い切ってしまいたくない何かがあるのです。
それを言葉にできないのがもどかしいのですが、tororo氏はある程度それを
狙っていたんじゃないんでしょうか?と思ってしまう瞬間もあります。
それが自覚的にせよ、無自覚にせよ、感じさせる因子として発現している。
どうしても、そんな気がしてしまうんです。
(宣言しておきながら、どこか解釈的になってしまいましたね。
これでは間違いなく詭弁です。でも、私の考えることはいつだって詭弁ですw
すみませんでした)


私は、この作品がエロゲーデビューで幸せだったと一人で勝手に思い込んでいます。
それはこの作品を通じてエロゲーや、そういったものに対する基準を明確に作ることが
できたから。そして、その邂逅によって、読み物へのスタンスというものを
もう一度きっちりと考えることができたからです。
でも、これは副次的なことで、ダカーポが好きな要因ではありません。
私がダカーポを愛するのは、あくまで…これ以上言うとくどいのでw
とにかく上記のとおりでございます。

長くなりました。すみません。
相変わらずまとまりが皆無ですね。また書き直します。
最後に一言。
ダカーポは永遠なり。ニーチェ的に。そして曲芸的に。