主張がはっきりとした力強い作品。本人以外は本質的に理解できない苦悩がある。長文は最終章に関して。
現実的な3章までに対し、最終章はオカルト要素が持ち込まれる。これは「自分以外の苦悩を本質的に理解することはできない」を示唆するためだと思っている。
真琴に好意的で理解を示そうとしていた市郷や兄ですら、真琴の真の苦悩に気が付けず自殺を止められていない。
「自殺の片棒を担いだ者は、自殺志望者の苦悩を理解できる」とも示唆されている。
本質的に理解されることのなかった真琴の悲痛の叫びは、死をもって初めて理解され、市郷や兄の心情を大きく揺さぶっている。
>高田さん『早起きが出来ないんです』
>真琴(それぐらい自分でなんとかしてー……!)
何気ない描写ではあるが、真琴は「早起きが出来ない」ことには悩んでいなかったので、本質的な理解は出来ていない。
しかし真琴のカウンセリングが強い説得力を持ち、悩みに向き合えるのは、カウンセラー自身が自殺するほどの苦悩を抱えていたからだろう。本質的な理解は出来なくとも他者の苦悩に向き合い手助けすることは可能である。
オカルト要素の持ち込みには戸惑ったが、読了後には上記の理由である程度納得できた。
■欠点
「切っ掛け」と書くべきところを「切欠」と誤変換している。頻出する単語だけにどうしても気になってしまう。