生は暗く、死もまた暗い。ではそれらを暗くしてしまうほどの明るいモノは何なのだろうか。
両親からたくさんの愛情を注いで貰いながらも身体が弱いばかりで何も返せない陽子。
彼女は物語序盤から母親としての自覚を持ち、秋の国の霧ではその母性で包み込みことによってみすずの寂しさを愛情で満たし、彼女の母親像を変化させる。
両親から貰った愛情を娘に、後世に伝えていくことが彼女なりの両親への精一杯の親孝行だったのだろう。
祖父母や父親からの愛情を注いで貰っていたが、母親がおらず気丈にふるまいながらも本当は寂しかったみすず。
作中の主要人物の中で最も冷静で落ち着きがあるように見えたのも、母親の死を目の当たりにし、それでも生きていかなければならなかった残酷な世界があったからである。
しかしその本質は自己の実存や家族としての役割に揺れ動く幼い子供。
一見して直情的で幼く見える他の二人ではあったが、彼女たちには母親として、娘としての役割に迷いがない。
その場面を最も表していたのが列車の中で、母親としての役割で揉めるシーンや秋の国~冬の国でのシーンである。
特に秋の国の霧の中では幼い日のみすずから成長していないことが分かる。
彼女はこの作品の中でも主人公に一番近い立ち位置であり、冒険を通して一番成長した人物でもある。
彼女は家族として、母親としての役割に迷いながらも、秋の国で陽子から注いで貰った愛情を以て、冬の国ではツムギを助けるための化け物(母親)となった。
幸せな家族に囲まれて、満たされていたからこそ何も失いたくないツムギ。
夏の国での言動や冬の国でみすずを決して見捨てようとしなかったことからも彼女の本質が見て取れる。
彼女は優しい母親と父親に囲まれた現在の生活を何よりも大切なものだと考え、その生活を壊したくないのである。
だからこそみすずの負担を心配しながらも母親であることを"娘として"強制する。
欠陥を持って生まれたが故に家族から愛されず、全てを憎みながらも心の奥底では家族愛に飢えていたヒルコ。
彼は陽子の子として生まれることができなかった罪悪感と上記の見捨てられた経験がごちゃ混ぜになっている。(前者は嘘である可能性があるが)
しかし物語終盤で彼自身が語っていたように、捉え方によっていくつもの可能性が浮かび上がるため、単純に推測することは難しい。
彼は同じく欠陥を持って生まれた陽子に共感を覚えていたのだろうか。
あるいは自身と同じ境遇にも拘らず家族から愛されていた陽子がうらやましかったのだろうか。
一度死んでいたはずの陽子を神々の国に招くことでチャンスを与えたのもその辺りが理由なのではないかと推測する。
こうして主要人物の背景や心情を鑑みると、非常に丁寧なキャラ付けや対比がされていることがよくわかる。
特に一見して共通点の多そうな3世代の女の子は三者三様だ。列車内で母親としての役割で揉めていたシーンなんかは最たる例だと思う。
同じ家族であっても境遇によって考え方は全く異なる。うそうその森でヒルコが語っていたように、家族であってもお互いが何を考えているかは分からないのだ。
家族になることで芽生える愛情もあれば、家族になることで植え付けてしまう加害性もある。
家族としての在り方に正解はなく、それをどう捉えるかは人それぞれなのである。
最後に総括。
家族としての在り方を春の国、夏の国、秋の国、冬の国でそれぞれ描きながらも、その中心にはいつも3世代の家族観がある。
何を描きたいのか、それによって主要人物の心情はどう揺れ動くのか。
最初から最後まで描きたいものが一貫されており、中弛みもなく非常に綺麗な作品だった。
シナリオが良いのはもちろんだが、演出や音楽、その他、作品全体が非常に丁寧に作られていることが実感できる。
特にみすずの成長物語・家族愛を描いた作品として見ると、私は終章のお話が一番好きだ。
序盤から口ずさんでいた「たねつみの歌」が世代を繋ぐための歌として描かれるのもグッとくる。
ああいう暖かいお話で綺麗なEDに入るのは完璧な終わり方ではないだろうか。
生は暗く、死もまた暗い。
ではそれらを暗くしてしまうほどの明るいモノは何なのだろうか。
その答えが、この作品とタイトルである「たねつみの歌」に込められているのだと思う。
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ED後のタイトル画面に映る幼子は、みすずの弟として生まれた、ありえたかもしれない在りし日のヒルコなのだろうか。