高濃度に煮詰めたインターネットの闇
低価格同人ゲーなので流石にプレイ時間は長くは無いのだが、その分内容は濃縮されていて、起動時の注意書きにあるように人によっては精神に来るゲーム。
自分はプレイした時のメンタルがあまり良くなかったこともあってか、かなり「持って行かれた」。
フォロワーの数字に物足りなく「ピ」をブロックする、真面目にバイトし始めるも飽きて逃げ出してしまう…バッドエンドの数々は実際ににゃるら氏が承認欲求女子図鑑という本を作る過程でインタビューした女子達の体験談を参考にしているらしく、妙なリアリティを感じた。一方でお薬のやり過ぎで現実と幻覚の境界が曖昧になっていくような非現実的なエンドも多数用意されている。銀河鉄道に乗って旅立ってしまうエンドは特に印象的だった(このエンド自体「素晴らしき日々」のオマージュと言われているらしいが、自分は未プレイ)。
ゲーム全体を通じて90年代~ゼロ年代前半のインターネットやエロゲのパロディが隙間なく仕込まれているが、日常の延長の身近な闇とぶっ飛んだフィクションや救済がごちゃ混ぜに同居する、ゲームの構造自体も「あの頃」のインターネットを彷彿とさせる。今に比べると絶対的な情報量は少なかったはずなのだが、あの頃のインターネットには僕らが現実世界に求めても手に入らない「何か」が何でもあるような期待感があった。
救済も絶望もインターネットの回線の先にあるのだ。
(一応の)Happy Endが、プレイしているPCのインターネットをリアルに切断することでたどり着けるというギミックも、「インターネットやめろ」のインターネットミームのパロディである点で、逆説的だがインターネット的であり面白い。インターネット切断ENDですらインターネット文化の影響下にあり、インターネットの無くなった世界を現実的にシミュレーションしたものでは全くないのである。そもそもインターネットの一配信者に現実世界に影響を及ぼし全人類にインターネットを辞めさせるほどの影響力は持ち得ないだろう。インターネットをやめたからといって人は幸せにはなれない。
そして全てのエンディングを解放してTrue ENDにたどり着くとどんでん返しが待ち構えている。
ここまでは一応、「性格に難アリとはいえピを捕まえて同棲出来る程度には社会性のある、まあよくいるっちゃよくいるメンヘラの女の子の物語」だったのが、真なる孤独と狂気を抱えた人間の物語に反転していくのは恐怖だった。
人の考察受け売りではあるが、このゲームそのものがあめちゃんがインターネット上で起動しているシミュレーター(プレイヤーはシミュレーション上の登場人物)なのではないかという説はそれなりに納得行くように思われる。シミュレーションなのであれば何度も繰り返して様々な「ピ」の可能性を試している=色々なエンディングに辿り着くというゲームの構造とは親和性がある。インターネット切断ENDが「不明なエンディング」なのもシミュレーターがインターネットから切断されることを想定していなかったのであれば説明がつく。
結局、「ピ」があめちゃんの創り出した実在しない人物(あめちゃん自身)なのであれば、「好感度」というステータスはあめちゃんの自己肯定感を表すということになるのかな。出会い系やエッチな配信はやればやるほど自己肯定感が下がっていくというのは結構リアルな教訓じみたものを感じた。
ところでこの最終ENDはHAPPY ENDなのか、BAD ENDなのか、どちらなのだろうか。個人的には、好感度100(自己肯定感MAX)でイマジナリーフレンド(プレイヤー)から独り立ち出来るのであればそれはそれで良しなのではないかとも感じた。でもまた次のイマジナリーフレンド(彼氏)を作ることを示唆しているし、エンディングの一枚絵にあるようにあめちゃんは幼児性から抜け出せていないと考えると、終わらない無限ループのようなBAD ENDと言えるのかももしれない。そう考えると、イマジナリーフレンドから卒業してリアルで男の人と付き合うことが出来た寝取られENDが実は最高のHAPPY ENDということになりはしないだろうか…?
インターネット切断ENDの元ルートである(Un)happy End Worldでは「一般的な幸せが本当に彼女が求めるものだったのでしょうか?」という問いかけがなされるあたりからも、何がHAPPYで何がBADなのかは人それぞれであり、全てプレイヤーに委ねるという製作陣の強い意志を感じた。ただ、INTERNET OVER DOSE ENDは演出的に明らかに気合いの入りまくったBAD ENDだったので、インターネットは用法容量を守って使用しましょうというのが製作陣からの唯一確実なメッセージなのかもしれない。