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michelseebachさんの乙女理論とその周辺 -Ecole de Paris-の長文感想

ユーザー
michelseebach
ゲーム
乙女理論とその周辺 -Ecole de Paris-
ブランド
Navel
得点
100
参照数
445

一言コメント

死ぬ前に一本だけエロゲをプレイするとしたら間違いなくこれを選ぶという程度に好き。最も優れているとは言わないが最も好きな作品で、もう全て登場人物全て愛しくなってくる。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

100点満点なんてものは本来は理論的最高点として残しておいた方が採点にリアリティが出ると思われるが、
これを超える完成度の作品は出ても、これより好きになれそうな作品は生まれなそうなのでこの点数に。

実妹ゲースキーとしては本来なら前作からして、りそなこそ最高と声高に叫ぶべきなのだが、
ルナ様が最高のご主人様過ぎてしまい、桜屋敷の小倉朝日の相手はルナ様以外に考えられなかった。
だが、フランスで大蔵遊星としてならば、りそなと幸せを素直に祝福できる。
この発想の転換は非常に画期的だ。
りそなが求めるのが実兄の遊星であり、小倉朝日は永遠にルナ様のもの。
これならば何の齟齬も矛盾もない(断言)。

ただ、りそなの場合は遊星の妹として魅力的なのであり、
俺の嫁ならぬ、俺の妹とは口が裂けても言えない。
その点では妹が可愛い妹ゲーなのだが、しかし通常の妹ゲーとは少し趣が異なる楽しみ方をした。
関係性萌え的な。もしくは姉妹百合的な。

また、私は男の娘ゲーでも、乙女ゲーでも、BLゲーでも面白いもんなら構わずに食っちまう派閥なので、
スルガと朝日の耽美的な関係性にも非常に萌えさせて貰った。
黒短髪スーツタレ目とか最強過ぎるでしょう。
朝日はスルガにとって「あなたの青年の日の心の中にいた青春の幻影」という感じなのだろう。
続編でも女の影が見えない辺り、表層的な言葉以上に本気だったんだろうなぁ。
彼の求める心の綺麗な人って条件で、朝日以上の相手なんていないだろうし。
このプラトニックなのに強い執着というのが妄想を膨らませてくれてとてもいい感じ。

体は男でもその男性としては殆ど去勢されてるんじゃないかってぐらいに性に対して疎い遊星は、
女装することで性を超越した存在。
まさしく天使的なものになったことで、彼の神聖性ってのが明確になっている。
世界名作劇場並みに不幸な生い立ちなのに、決して誰かを憎まないという非人間的なまでの攻撃性のなさも、
その存在としての超越性が故に違和感なく馴染むという特殊な構造。
むしろ彼こそ衣遠兄様のように大蔵を手にすることに妄執を抱きそうな境遇なのだが、
それが彼の男性としての自己認識の希薄さから来ていると考えると納得出来てしまう。

故に、妹を悪意から守る為に戦うと覚悟を決めて、人らしい敵意を獲得することで、
彼は男性としての主体を選択し、りそなという女性を選ぶことが出来たんじゃないか。とか。

ルナ様は天使のような無垢な朝日(遊星)の不安性さも含めて、他者全てから守ってしまえるから、
その善性のまま中性的な存在としていられるんじゃないだろうか。とか。
(まあ、ルナ様が最高すぎてルナ様ルート以外まともにプレイできてない人間の妄想だけど)

大蔵家の両親世代について、
手首ぐるんぐるんの熱い手のひら返しを見せる金子とか、
あそこで泊まってたら明らかに遊星の貞操の危機だった真星とか、
老害を体現したままの日懃とか、
彼らが何のお咎めもなしなのはどうよと通常の作品なら思う所なんですが、
これが大蔵遊星の物語だとするならば、全ては彼の優しさに回収され皆を許す結末以外ないのだろうなと。
結局彼はそれまでの境遇にも仕打ちにも何の恨みも抱いてないのだから。
本当に尋常じゃない天使っぷり。
でもそんな彼であるが故にルナ様も、りそなも、スルガも彼を欲したわけで。
だからなのか、普通ならこういった展開に憤る私のような凡人も、
遊星の視点で物語を追ってきたからこそ、
大蔵の家の人々に何の憤りも抱かずに結末を喜べたのだろう。

何が言いたいかって言うと、全てを失い異国の公園で佇む兄妹の前で、
アーモンドの花弁の中で登場するルナ様が格好良すぎて、
心のまんまんが濡れるわ~っていう益体も無い感想なんですがね。
やっぱりあそこまで追い詰められるからそこヒーローの登場が映える。
あれをやられたら幾らスルガがイケメンでも朝日はルナ様のものですわ。

おかしい、りそな可愛いと書く予定がルナ様のことに戻ってしまう。
まあ、りそなは最高に可愛いけれども、この作品の最大の魅力は、
全ての登場人物の魅力の融合というところに集約される。
つまりは好意にしろ悪意にしろ感情論にとっての理論は後付けに過ぎず、
CLAMPの『すき。だからすき』という言葉のように、
ファンというものは論理性のない感情論でしか語れないのであった。