愛して。 愛して愛して好きって言って。 そうして誰もが愛情を求めるが、「どうしてお前は愛してくれないんだ!!!」と責め立てる。 じゃあ愛情って、なぁに?
もともとパコられから山野氏のファンなだけあって(もちろんみさくら氏の絵は好きだが)お望みは鋭利な刃物で突き立てるような言葉の数々を並べてくる山野節でした。
この物語で強く思ったのが、責め言葉の一つ一つがとてつもないブーメラン(全体攻撃)だということ。
言った相手にも、言ってる本人にも、それ以外のキャラクターにも、それを眺めている我々にも、終いにはこれらの感情を知っている作者自身にも当たっているかもしれない。
果たして主人公の飯島くんの感情や美憂ちゃんの言葉を完全に他人ごとと切り捨てられる人ってどれだけいるのでしょうか。
全てではないにしても一部の感情は見知っているものだったし、今の自分ですら他の人にとってはそう見えることもあるかもしれないと警戒してしまう。
さて、ブーメランと書きましたが……それでも責められるのは基本的に主人公ひとりです。
責め役である美憂と辻さんですが、この2人の言葉ってのはそのままそっくり返すことも出来るはずなのに。
美憂「だいたい、飯島くんは最初からおかしかった! 変だよ! いつも自分だけは違う~、みたいな顔して、みんなのこと見下して!」
そんなだから、みんなと仲良くできなかったんだよ!友達いないんだよっ! 気取ってばっかりで、なにもできないくせにっ……えらそうな顔しないで!」
ツイッターの書き込みを見る限り美憂も他人を見下しながら生きています。自分は違う。特別だ。他の女とは違う、と。
ナチュラルに男は自分をちやほやするのが当然と思っており、だからこそ彼女は女友だちがいないとも独白しています。
人を見下し、友だちがいない。完全なブーメランですね。
辻「テメェ、自分が可愛いだけなんだろ? そうなんだろ? わかってんだよ、普段の態度で……そういうヤツはな、他人にマイナス感情しか与えないんだよ!!」」
こちらはどうでしょうか。 この物語は主人公さえいなければ平和に終わったのかと言いますと、そんなことありません。
美憂を肉便器にしようと提案したのは辻さんだし、平沢も時折やり過ぎ、野崎は……まぁ流されているだけかw
けれどもああやって公衆の面前で露出ショーをしてたのは主人公の有無っておそらく関係なくて、それなのにみんな我が身可愛さに警官が来たら逃げている。
それはこの辻さんも例外ではなく、彼自身も自分が可愛いだけなのだ。
また彼自身の言動で、マイナス感情を覚える人もいるでしょうしこれもブーメランな言葉なのではないかなと思います。
しかしどうだろうか。 責め立てられるのは主人公だけ。
なぜ? どうして?
多分その先の問題に向き合わなければこの飯島という主人公はその呪縛から解き放たれることはないのだと思います。
同族嫌悪は何も生まないのに。
自分はちっぽけな存在に過ぎないというのに。
言葉にしなければ伝わらないというのに。
日常での態度で本性は見え透いてしまうというのに。
誰も彼もが愛情を求めている。 求め方はそれぞれだけれども、欲しているものは愛情。
じゃあ愛情ってなんでしょう? 美憂が求めているもの? 飯島が求めているもの? 辻が求めているもの?
答えは誰にもわかりません。愛情の形なんて人それぞれで違うでしょうし、何が愛情なのかなんてその人が何を望んでいるのかを正確に読み取らなければただの独りよがりになってしまう。
美憂は自分勝手なやつです。自分は多くに愛想を振りまくのに他の女が寄り付くのは許せない。
誰にとっても自分が一番じゃないと気がすまない。自分が差し出すものと自分が求めるものが釣り合ってません。
そこに気づかないのが美憂という女を歪めている根幹なのかもしれません。
飯島と辻は同じです。自分自身が支配して、それに服従してくれること。
ただ、この2人の違いは、美憂のことをそれなりに理解しようとしているかどうかでしょう。
飯島は、美憂の綺麗(そうに見える)な部分しか理解しようとしていなかった。
逆に辻さんは、美憂の汚い部分を含めて理解しようとしていた。
そう考えると飯島という主人公は、実は誰かに何も差し出せていなかったのではないかと思うんですよね。
美憂は勝手ではあるが、女の子を知らない男たちに少しいい思いをさせてきた。
辻さんが本編で言ってるように、それはそれで美味しいものとして割り切ってしまうのがいいのかもしれない。
辻さんは辻さんで、曲がりなりにもサークルのムードメーカーであり、美憂とのセックスの際は彼女を気持よくさせようと腰を振っていた。
(同人誌「おわりのはじまり」より)
じゃあ飯島は何を差し出せていたか? っていうと、本辺の描写見る限り何もできていないんですよね。
思ってはいる。考えてはいる。 だけれども実行しない、何もしない。逆に支配するという自分の欲望ばかりが前面に出てしまう。
自分の心なんて他の人にはわからないものであり、例え1人に対してどれだけ会話しても完全に理解することなんてできやしない。
けれどもある程度の理解をすることは出来る。100%は無理だけれども、少しずつ少しずつわかっていくことは出来る。
それが友人としての信頼関係ではないだろうか。
いろんな人と話して、いろんな人の感じ方を知って、知らなければその呪縛からは解き放たれない。
ヨット部のイケメンとか美憂ちゃんの本性を瞬時に見抜いてたりするし、彼らは人間性のパターンを多く知っているだけなのだ。
だから見下すのではなく、人生の師匠とでも思ったほうがいいのかもしれない。
…
……
………
いやいや、長くなってしまいましたね。
こんなこと書き連ねてるのはいいものの、これすらも本編で言うところの『独りよがり』に過ぎないのではないだろうかと怖くなります。
みさくらなんこつハースニールという大手であるから、多くの人の手にとってもらえることを考え少し軽めになるのかという危惧もありましたがそんなことありませんでしたね。
差はあれどかなりの劇薬となっています。
怒りに震える人もいれば、昔を思い出して苦しむ人、はたまたそれでも夢から覚めない人もいるかもしれません。
極稀にそんなことを一切関係のない『名無しのイケメン』で本作をプレイする人もいるかもしれませんが、かなりのレアケースでしょう。
逃げ場のない袋小路のような構成と言葉の数々はさすが。
正直なところ本作の後味は決して良くないのだが、だからこそ『面白かったです!』と賛辞したい。
こんなに考えさせられて、こんなに自分を振り返らせてくれる作品なんてそう多くはないのだから。
劇薬は、劇薬とはいえど薬には違いない。
あとは、飯島や美憂の心理描写が緻密で「ああ、こういう人らはこういう思考回路なのか……」と知れたのが良かったですね。
オタサーの姫のような人って、確かにいるんですよ。美憂のように自分が一番じゃないと気がすまなくてギブアンドテイクがつりあってない人。
けれども美憂ちゃんのようにめちゃくちゃ淫乱でもめっちゃ可愛いわけでもないから、うまくいってないケースがほとんどだけど……w
でも望みはおそらく美憂と同じなんだろうなって。こういう思考回路でこういう順番で考えているから、姫が出来上がってしまうんだなって。
山野氏はこういった理解し難い感情を持つ人たちの思考回路を、鮮明にわかりやすく描写するのがものすごく上手くって、だからこそ惹き込まれるし、オタ姫はこの人にしか書けなかったと思う。
絵の退廃的な雰囲気や桃也氏の超絶絶叫演技、そして言葉の刺さり具合からパコられの方が好きではあるけれども、オタ姫はオタ姫で面白い作品でした。
惜しむらくは、辻さんや野崎、平沢の心情描写も見てみたかったことかなー。
多分それも山野氏はどういった経緯でそうなっているかを知ってそうな気もするから、読んでみたかった。
製作期間や制作費の都合上難しいかもしれないが、群像劇の色が強かった分そこも覗いてみたかったかなと、思う。
まぁ、なによりエロゲーで男の心情描写ばっか見たくねぇよ!!! という声のほうが大きいかもしれないが……w