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ken3940さんのシンフォニック=レイン 愛蔵版の長文感想

ユーザー
ken3940
ゲーム
シンフォニック=レイン 愛蔵版
ブランド
工画堂スタジオ
得点
100
参照数
7022

一言コメント

止まない雨はあるのかも知れません。でもこころにはいつでも微笑みを…長文感想はとても長いです。プレイした人はこの解釈をどう思うのでしょうか。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

感想ではなくほとんど考察に近いです。
引用大半です。
まずは、小ネタから



al fine(音楽記号:終わり)、

da capo(音楽記号:最初から)

各キャラの名前もイタリア語に語源があるものがあるようです。


アリエッタ(Arietta)  ・・・そよ風、小さなアリア(歌)
アル・フィーネ(al fine) ・・・(音楽記号):最後まで
ファルシータ(Falsita) ・・・偽り、偽善、偽証、偽造
トルタ(Torta)      ・・・タルト、ケーキ、パイ
フィーネ(fine)      ・・・終わり、末尾、目的、意図、細かい、細い、薄い、洗練された、良質な                (音楽記号):終わり
アーシノ(Asino)     ・・・愚か者、頑固者
ニンナ(Ninna)      ・・・子守唄
グラーヴェ(grave)    ・・・深刻な、重い、重々しい (音楽記号):非常に遅く




ここからは物語りその物の考察にうつりたいと思いす。



個人的解釈ですので、嫌悪感を抱かれる方は回避推奨でおねがいします。

前半の鬱展開。しかしラストのフォーニルートはそれを払拭するやさしくも温かなハッピーエンド。

それでいいとおもいます。
アルとクリスは慎ましくも幸せに暮らしました。
END
 



しかしながら

実際にやってみて、アリエッタエンド(ラストのルート)に対し疑問を抱きました。


・それはなぜ、アリエッタエンドが「da capo」内に存在するのかということです。

気にしすぎかもしれませんが…


true endのはずのシナリオ・・・アリエッタルートが何故ダカーポなのかな。ハッピーであるかないかは別として、繰り返されるべき話ということになります。もう一度やり直してFineしてくださいということなのでしょうか。
そしてそこではなぜ、他のエンドと同様、エンディングで「星空を飛ぶフォーニ」が描かれたのか…なぜそこだけで、アリエッタが甦った――すなわち「奇跡」が起こったのでしょうか。


私はこう考えました。


・da capoとは音楽記号で「初めに戻ってやり直し」という意味を持ちます。
実際に思い出すと、da capo内の(トルタ、リセ、ファル)エンドはどれもこれも何か問題があり最終的にal fine(トルタ視点)に辿り着くまで何度も「初めに戻ってやり直」さなければならなかった。
da capoに含まれるエンドは、それぞれ何か、「問題」 を抱えたままなのです。



・al fineとは「終わりまで」という意味を持ちます。だからこそ、このal fineのエンドのみが、物語的な意味で「結末」を意味すると思います。
そして実際に、このエンドのみでもはや わ ざ と ら し い く ら い に 無遠慮に
「ゲームクリアおめでとう!」と(”本編のヒロイン”)トルタは叫びます。(通常版)


・「星空を飛ぶフォーニ」は、アリエッタの魂を意味するとおもいます。
ゆえに、アリエッタエンドでさえそれが飛んだ以上、あのエンドでもアリエッタは死んでいると思います。ならばいったい、あのアル(クリスの側で微笑む彼女は)は 本当は誰 なのでしょうか?



私的解釈ですが、


アリエッタエンドで、最後にクリスの側で微笑んでいるアリエッタは、トルタだと思います。

奇跡など、起こりませんでした。
アリエッタは死んでしまいました。それでもトルタはアリエッタのふりをし続けるしかない。
クリスの認識の脆弱性は、例の雨の前例により、いやが応にも証明されています。
クリスにとって“そうだ”と思い込んだものは“そう”なるのです。
トルタがアリエッタになりえると思います。
そこに細かな差異は、まったく意味をなしえないと思います。

アリエッタエンドとは、『シンフォニック=レイン』で最も残酷な虚偽に満ちたエンドではないでしょうか。

信じている限り、最も幸せなエンドなのに。


トルタ視点の
al fineルートは、12/15から始まります。そして次の日は? なぜか12/8です。
そして次の日は、当然のように12/1を語り、さらに11/24まで戻った翌日、ついに3年前にまで物語はジャンプします。
al fine序盤において物語は、なぜか戻って行っています。そして、物語が戻るに従って、私たち読者は、その語り手が「アリエッタではなくトルタであること」に気づきます。

繰り返しになりますが、このトルタ視点の物語は当初(すなわち12/15)、「まるでアリエッタによって語られているかのように」思えます。
その実、それはトルタが語っていたわけですが、少なくとも私たちはそれを「アルが語っている」と信じそうになったとおもいます。
トルタは極めて優秀な、嘘の紡ぎ手です。
それが嘘だとわからない限り、彼女がそれを明かそうとしない限り、
彼女の嘘は真実だとしか思えないです。


嘘は、それが本当だと思いこまれる限り、真実になりえます。
少なくとも、そう「信じた誰か」にとっては。


また、al fineで1/5、トルタが「手紙」に関して行う独白の場面




『ただひとつ、聞かせてください。トルタのことをどう思っているか』
もしもクリスが私のことを好きだと言ってくれれば、私は何に変えても彼のために全てを
捧げるだろう。アリエッタのことも、卒業演奏のあとにきちんと話し、その上で彼の支えになる。
望まれようと望まれまいと、最後まで彼の幸せを願って行動する
『そしてもし、アリエッタのことが一番大事だとクリスがまだ思っているのなら――
私は身を引き、アリエッタとして彼をいたわるだろう』





この場面でトルタはもしそうなら、「アリエッタになろう」と決断していると思われます。
アリエッタエンドは、「クリスにとっては」違ったとしても、事情を知らないトルタにとってはまさに「アリエッタのことが一番大事だとクリスがまだ思っている」エンドでした。
そして実際、クリスはアリエッタ=フォーニだと結論づけましたし、彼はフォーニを選びましたからアリエッタエンドとは、
「アリエッタのことが一番大事だとクリスがまだ思っているエンド」なのです。

そしてトルタは、アリエッタになってしまいます。

それは嘘なのに、疑いを持たない限り、本当になります。
死ぬまで気づかなければ、死ぬまで本当なのだと思います。




ではいったい、「何が」おかしいのかな ――そして「誰が」偽っているのかな

  
納得がいかないと思います。どうして、アリエッタを思い続けたら、こんな結末になってしまったのでしょうか。

そこには間違いなく、まだ何か、極めて重大な嘘が残っていると思います。

この疑問は「結局、クリスは誰が好きなのか」という事に、
置き換えて考えられるべきだと思います。
そしてその疑問の答えは、da capoトルタパート12/25に存在します。



「僕は上を向いて、その丈夫で美しい天蓋を見上げてみた。
トルタの言うように、漏れるなんてことはありそうにない」
「雨を避けるために作られたその屋根は美しく、
機能のためだけそこに存在しているとは思えなかった」



天蓋。世界すべてを覆う、悲しいくらいに美しい、クリスの嘘。
「雨」とは、クリスのココロの雨ではなく、アリエッタの、そしてトルタのココロの雨なのだとおもいます。


雨は、クリスによってのみ見られた「偽り」でしたが、それでも天蓋の下には降ってこなかった。

それは、嘘を嘘として成り立たせるための、最低限の「お約束」でした。
なのに、このシーンでその「お約束」は破られることになります。

それまで、いくら雨が降り続けていたとしても、天蓋のなかで、雨が降るなどということは、ありえませんでした。
それは「絶対にあってはならないこと」なのです。

でも、そこにはあえて一つだけ、
絶対的な嘘が一つ、ぽつりと一滴「落とされます」。

つまり、このシーンが持つ「嘘」は、「暴かれなければ意味がない嘘」なのだと思います。
あるいは、「暴かれないといけない嘘」なのかもしれないです。
それは、『シンフォニック=レイン』の根本であるが故に、どうしても暴かれないとならないのだと思います。

けれど、そのためには、「絶対にあり得ないこと」の力を借りるほかなかった。
「絶対にあり得ないことが起こる」それはすなわち、「奇跡」です。

この日は降誕祭。ゲームの中で起こった、ただ一つの「奇跡」は、
まさにこの聖なる日の、一滴の「雨」。


――ものすごい皮肉だと思いました。「奇跡」は「嘘」なのです。


雨を感じられたのはクリスだけ。
フォーニを見ることができたのもクリスだけ。

たぶんフォーニは、クリスにだけ見えていたアリエッタの、そしてトルタの、本当の想い。

そのココロの涙が、「雨」だけが、唯一、物語を、いや読者を、finaleへと導くのだと思います。




「トルタは僕にとって、なんなんだろう…と。
昼に、おじさんは恋人のようだと言った。
でも実際は、僕たちはただの幼なじみで、同じ学院に通う親友だった。
でも、それだけではない。そう割り切ってしまえるほど、浅い関係でもないような気がする。
それを言葉にしてしまうのは嫌だったから、
僕はただ、それを疑問に思い、答えに気づかない振りをした。」




彼にとってトルタは、親友以上です。でも、恋人ではない。ならそれは何でしょうか?
言いたいことがわかる方もいるとおもいます。






  ――『僕は、アリエッタが好き』



これこそが、『シンフォニック=レイン』最大の「嘘」だと思います。
彼は「本当はトルタが好き」なのだと思います。
降ってくるはずがない雨がなによりの証拠です。
なのにそれに「気づかない振り」をし続けているのです。
そう、この物語で最大の嘘つきは、トルタではなくクリスです。

だから、彼がその嘘を暴かれない限り、『シンフォニック=レイン』という物語は、
「ゲームクリア」にならないのです。すごい。

ここでも、
私たちが信じていたものが逆転しました。



雨は、偽りでした。なのに、雨が真実を教えてくれました。

でも、その真実とは、気づかぬ限り嘘でした。
私たちは気づかない限り、一生でも「嘘」を「真実」だと思い続けてしまうと思います。
そこに「本当のこと」があるとしても、それがわからなければ意味がないのかな。

トルタエンド以外のクリスの選択は、常に彼に「許し」という行動を行わせていたことに注目してみてください。
例えばファル。例えばリセ。アリエッタエンドの描写さえも、『愛』ではなく、「許し」なのだと思います。クリスはトルタとの『愛』を選ばず、常に「許し」を与える側になろうとしていたのだと思います。
そもそも3年前、彼は”横に並んで歩くトルタ”ではなく、”一歩下がってついてくる”アリエッタを選んでいます。
彼は、いつも恋人より優位に立とうとしているのです。
それははたして、『愛』なのでしょうか?
クリスはずっと、『愛』から逃げてきたと思います。
「許し」続けてきたのです。
そしてal fineで初めて、
彼は『愛』を”受け入れる”ことができたと思います。


ここに来て、ファルやリセといったいわゆる「グッドエンド」が、
なぜあんなに「違和感」に満ちていたかが少しわかります。

それらは確かに、「バッド」ではなかったかもしれない。
その意味では確かに、「グッド」だったのかもしれない。
リセは回復したかもしれない。ファルの言葉は正しいかもしれない。

しかし、それらは間違いなく、「空しい」のです。
そこに、『愛』がないから。愛がなければ、全ては空しいと思います。



この嘘だらけの世界で、
真実のない世界で、どうして『愛』だけが、『愛』を信じることによって物語を結末に導くことができたのでしょうか。
正直に言うと私は、この部分に明確な結論を下すことはできません。

ただ、それこそが『シンフォニック=レイン』という作品の告げたかったことであり、それはおそらく、

『シンフォニック=レイン』の語り手が、
――そして故;岡崎律子が――(おそらくは極めて深い悲しみと悩みに満ちた)彼女の人生をかけて辿り着いた、「”この世界”を生きるということ」の答えなのだと思います。


だから、この答えは、それはもう「信じる」か、「信じない」かしかないと思います。そして私は、その答えを信じます。



ごめんなさい。ほとんど全てが、嘘なの。でも、これだけは信じて。
私はトルティニタ。そして、あなたのことを愛してる。
それが全て。


『シンフォニック=レイン』を総括する言葉。
世界に「真実」はないか、あるいは見つけられなかった。
ただ、それでも、そこにあると「信じたい」もの。
それは『愛』であり、それが「全て」なのだと思います。

私は、アリエッタの想いを、否定しているのではないのです。
むしろそれは正反対に、フォーニの存在こそ、”この物語を包む、壮絶な愛”そのものだと思います。
彼女を襲った運命は、間違いなく悲惨で、理不尽で、納得がいかないものだった。
交通事故に遭った上、わけのわからない妖精の姿にされて、あげく「私はもう長くない」と彼女自身が理解している。
こんな残酷な話はないと思います。
それなのにアリエッタは、ずっとクリスを正しい方向へと導こうと、(何もしなければクリスを獲得できるのにもかかわらず)、自らの益にならない行動を採っていた。

自分を捨ててでも、誰かに尽くすことが愛の定義なら、アリエッタの行動はまさに愛そのものだと思います。 
もちろん、これはトルタにも当てはまる。
彼女はずっと、身を捨てて、もはやおぞましいまでに自分の想いを偽って、クリスの世界が崩壊するのを防いでいた。

…なのに、そんな限りない二つの愛に囲まれながら、それに気づかない振りをして、彼女たちの想いに行き場をなくさせていた張本人は、他でもないクリスです。

だから私が最終的に断罪したのは、アルでもトルタでもなく、主人公たるクリスなのです。
私は彼が憎いです。許せない。
自分だけには何の罪もないような悲しげな顔をして、みんなを「許そう」としているなんて。


アリエッタの想いは真実でした。彼女はクリスが大好きだった。
ただ、彼女はそれではいけないと思っていた。
なぜなら彼女は、クリスが本当に好きなのは誰かを知っていたから。

こんなに悲しい想いを抱えたヒロインを、私は他に知りません。

そして、こんな理不尽な運命にもかかわらず、最後まで自分の愛を貫いたヒロインも。

私には彼女が何か、いわゆるヒロインを越えた何かだと感じられてならないのです。

クリスにとってのヒロインは、トルタでした――公式HPにも記載の通り。

ただ、私たち全員にとってのヒロイン、それはアリエッタなのではないでしょうか。

彼女の愛こそが、この作品を、
この冷たい世界を、間違いなく、限りなく暖かく包んでいる。私はそう思います。


私の解釈を要約するとこうです。
「そもそもクリスはアルよりトルタが好きだった。けれど振られて傷つくのは嫌なのでアルで手を打った。
アル自身はそのことを知っていたし、それが大きな間違いだとも気付いていたけれど、
アルはクリスのことが本当に好きだったので、言い出せなかった」。

シンフォニック=レインという物語は、この隠された前提を持って開始され、それを解決する方向へと展開する物語だと、私は認識しています。

そして、この隠された前提が暴かれるのは最後のシナリオ、つまりアリエッタエンドの持つ矛盾への疑問によってであり、その意味でアリエッタエンドはシンフォニック=レインの最大の虚偽であるゆえに最も重要な、真実を導くシナリオなのだと思います。

シンフォニック=レインに含まれるすべての物語は、「クリスがアリエッタと結ばれるため」ではなく、
その実「クリスが彼自身の本当の気持ちをしるため」――つまり、「クリスがアルと決別するため」に用意されているのだと思います。

ならばこそ、クリスが真実求めていたのは、アリエッタではあり得ない。
それは本当に壮大な、皮肉の物語です。
この意味で私はクリスを、シンフォニック=レイン最大の嘘つきであると断言します。
そしてそのほとんど無敵の嘘(だってそうでしょう? 「クリスはアリエッタが好き」、それはほとんど”設定”なのですから。
まるで反則です)を暴くこと、読者をそこへと導くことができたのはたった一人、今はなきアリエッタの魂だけなのだと思います。

アリエッタ/トルタはまさしく一命を投げ出して、クリス/読者の”目を覚まさせた”。

そして何より、とても皮肉なもの、悲しみに満ちたその心を、
「言わない方がいいこともある」と胸に秘めながら、

それでも「いつか分かるから、いいの」と優しく告げて、一人旅立つアリエッタ――フォーニの想い。

この果てしなく美しい物語において、私は生まれて初めて、創作物への涙を経験しました。


私がシンフォニック=レイン最大の虚偽と呼ぶアリエッタエンドとは、クリスの持つ無敵の嘘を解除する鍵なのです。

あのシナリオが存在しなければ、トルタエンドさえ、恋人のアリエッタが死んだからトルタへという単なる妥協の産物に過ぎませんし、
リセやファルに至っては、それぞれの結末がどんな意味を持っていたのか理解できないです。

けれど、まさにアリエッタエンドを否定することのみが、それまでの全ての結末の意味を塗り替え、偽りとしてのアリエッタエンドの指し示す必然こそが、シンフォニック=レインのすべての結末を一つの物語へと結び直します。

そのすべての場所に、その一人一人に向けて、「本当の気持ちを思いだして」と願うアリエッタの暖かな想いが溢れる、ずっと大きな物語へと。



アリエッタという名前は、”そよ風”を意味するのだとか。

タイトル画面でトルタの髪をそよがすもの、それはとても優しいそよ風、間違いなくそこにいた誰かの気配です。

そしてシンフォニック=レインの世界のどこにでも、私たちは彼女の気配、その優しい息づかいを感じることができたのではないでしょうか。
そう、彼女はどこにもいなかった。
けれど、どこにでも存在していました。


だから今は、シンフォニック=レインという作品、そのものすべてがアリエッタの愛であり、そして真実、それは今はもうこの世を去った、あの人の残した物語でもある


――私はそう考えて、この物語に満足しているのです。





さいごに:

音楽担当の
岡崎律子さんは、
シンフォニックレイン制作後しばらくして敗血症性ショックによりお亡くなりになられました。
彼女が闘病中に病院のベッドで作り歌った曲、とくに「I'm always close to you」と「いつでも微笑みを 」
を聴いていますと、この曲そしてシンフォニック=レインには一体、岡崎さんのどんな想いが込められているのだろうかと考えさせられてしまいます。

I'm all right (私は大丈夫)
I love you (貴方を愛しています)
I love my life  I'm always close to you (この人生は大好きだった そしていつもそばにいるからね)



ごめんね お別れが突然で今は ちょっとね 寂しいけど
かなしみじゃないのいつか ちゃんと想い出になる
約束 お願いはひとつだけ生きて 生きて どんな時にも なげてはだめよ
それは なによりチャ一ミングなこと

 故岡崎律子さんに永遠の冥福があらんことを。