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katoriさんのリトルバスターズ!の長文感想

ユーザー
katori
ゲーム
リトルバスターズ!
ブランド
Key
得点
90
参照数
2009

一言コメント

弱さを認め、強さを目指し、理想は「ない」としながらもそれを願う気持ちを肯定した物語。麻枝准をもっと身近に感じれる作品だと思いました。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

過酷な現実を受け入れ、いつまでも逃げていないで戦ってみせろ…という、麻枝准からの叱咤激励。それをこの物語の“一つ”の主張だというのはやり終えた者なら誰もが辿り着くことだと思う。その主張は“よく伝わった”

今作が今までよりも格段に進歩したのはシナリオの統一性だ。
個別シナリオは各ライターが担当してはいるが、間違いなく麻枝氏の手が入っている。



※ここから先は、私が感じ取れた本作の感想です。
 ネタばれを大量に含みますので未プレイの方は回避推奨





■神北小毬

まさにテーマを真正面から捉えたであろうKeyの王道的シナリオ。
現実を夢と思い込み逃避する小毬。それを救う理樹の話。
この話の伝えたい事はたったこれだけで語ることができる。


   「ここはゆめじゃないから。
    …悲しいことだって、いっぱいあるよ。
    小毬さんは、ひよこやにわとりがどんどん前のことを
    忘れていくのが悲しいっていったよね。
    …違うんだ。
    きっと拓也さんは、そんなことを小毬さんのために
    描いたんじゃない。
    ひよこやにわとりは、悲しいから忘れるんだ。
    …もう戻れないから、それが悲しいから忘れるんだ。
    でも、それはいつまでも繰り返していく。
    …それじゃいけないんだ。
    絶対に、それじゃいけない。
    いつかそれを受け止めなきゃいけないんだ。
    …だから、にわとりは、最後に…
    自分がたまごだったことを思い出すんだよ」



   「悲しいことはなくならないけど。
    …ステキなこと、いっぱい探そう」


こうして救われた小毬が最後に鈴を救うのは自然の流れです。
幸せスパイラル自論を持つ小毬が鈴を救おうと願うのは当然ですし、
小毬は鈴の“先輩”に当たりますからね。


   「あなたの目が、もう少し、ほんのちょっとだけ
    見えるようになりますように」


にわとりと卵の話を単純に『死』だけで片付けてはいけない。
忘れていたのは――小毬。
悲しいから忘れていたのは――小毬。
最後まで忘れていられるなら幸せなのか…そう思っていた人は後悔した。

“あなたの目が、もう少し(まわりを)ほんのちょっとだけ(みわたして)見えるようになりますように”

自分を見てくれている人を“みえる”ようになりますように。悲しいことたくさんあったけれど、楽しいこともあったってことを“みえる”ようになりますように。それこそが小毬の願った言葉の意味だった。










■能美クドリャフカ

“あの時、ああしていれば…”というのは誰でも経験する事。
それよりももっと多い事は“その時、どちらを選択すればいいのか?”という事。
それを決めるのに簡単な方法は自分の中でのルール、優先順位を決めておく事。
クドは理樹の方を優先した。だから宇宙飛行士の夢、その為の勉強道具…そして届けられた母親のドッグタグを箱の中に封印した。


   「『それ』は、あとから手に入れた、堕ちたロケットの欠片」
   「私の『きもち』のざんがいです…」


でも、後悔なんてものは絶対残るんですよ。だって、選ばなかったもう一方が大事じゃないなんてことはないんですから。選択というのは、選ばなかった方を“切る”行為。そして、切る場所は自分自身からなので傷つかないはずはない。だから2度目が来たとき、クドは決められなかった。母に会いに行って結果は悲惨だった。
“これでよかったのか?”と疑問に思うことが…
「リキ!」と叫ぶ姿こそが既に満足してない証拠に他ならない。



話題変更。
さらっと普通にドッグタグの持ち物は母親のものだと言いましたが補足しておきます。
理樹が読み取れた最初の「C」という文字。クドの母親の名前は「C・イワノヴナ・ストルガツカヤ」ということから母親のものだと考えられます。では何故そんなものがあったのか?…それは舞台が現実世界の延長戦であるということが根拠になります。現実世界において、クドは修学旅行前にロケットの残骸を手渡されました。それを繰り返しの世界に持ち込んできたわけです。あの世界は8人で構成したものですから、改変はある程度可能なわけです。その干渉力にはある程度差と条件があるようですが、クドの罪の意識からドッグタグは持ってこられたと考えられます。



このシナリオはライカ犬のエピソードをかけた非常に秀逸なシナリオです。クドがテヴァに向かうことは、ライカ犬――クドリャフカが宇宙へ飛ばされたエピソードと同じ事だからです。夢の世界、繰り返しの世界ではクドはいかない選択肢を選び続けることが出来ます。それはライカ犬が地球に残れる選択肢を意味する。とても幸せなことです。どんな名誉よりもクドリャフカはストレルカとヴェルカと共にいることが幸せだったでしょうから。しかし物語はクドをテヴァ(宇宙)に向かわせることを“理樹の成長”と、“クドの解放”として描いて行く。この展開に麻枝氏らしさを感じるのは私だけでしょうか?優しいユメの繰り返し世界ならクドリャフカはストレルカとヴェルカと共に生きる事が出来た。しかし、物語は現実にあったエピソードと同じく、クドリャフカを死地に向かわせているのです。このあたりのはがゆさが最終シナリオの『リトルバスターズ』のあのシーンで効いてきますね。ゆえにあのエンドは私の中では“あり”です。










■三枝葉留佳


  「世界のどこを探したって、
   悪意を持とうと願う人はいないのです」


クドシナリオで語られた言葉だが、同じライターが書いたこのシナリオはその言葉を皮肉るかのような内容になっている。最も共感出来た話であった。正直、ゲームの物語は…いや、ゲームだからこそだろうが、他人を比較的あっさりと肯定しすぎだと思う。特にKey作品においては善人が多く、悪人というものが徹底的にいないのでそれが顕著に表れていた。ゆえに人生において付きまとう自分と他人の比較、妬み、憎悪というものが見られなかった。
それは“理不尽な世界”――そちらに向けられていたからだ。
その対象をようやく人に、自分に向けた時、Keyの方向性は広がった気がする。
実はこれはCLANNADの朋也と父親の関係で描かれていたことだった。
朋也が父を認めた時、許した時、成長したのは言うまでもない。
…では葉留佳はどうやって成長できたか?


   「誰もが自分が一番不幸だと…思いがちよね」


思いがちでも、心の底から思っている人はいない。
一番ではないけど自分が不幸だと思ってる人は確かにいる。
そこには大きく3通りの者がいると思う。

①自分が不幸だと認め、受け入れる者。
②不幸だと思うが、もっと不幸な人がいることに安心し、自分を慰める者。
③どうして自分だけがこんなに不幸だと嘆く者。

この話にはこの3つが明確に示されている。
③は葉留佳だった。そして父親は②の可能性を残した。最後の葉留佳は①だった。

無視されて、否定ばかりされて育ったものが他人を認めることなどどうやって出来ようか。葉留佳が佳奈多を、世界を否定するしか出来なかった事は当然の事。葉留佳が成長するには、まず誰かに自身を肯定してもらわければ無理だっただろう。この話で本当の父親が誰かなのかを示す必要がなかったのは当然の流れ。問題は自身の内面。『自分の受け入れ方』に他ならないから。嫌いな人間に好かれても嬉しくない、なんて言うのは嘘もいいとこ。自分を好きでいてくれる人には優しくしたい、好きでいたい、というのは、嫌いな人間の嫌な部分もその好きでいたい気持ちが許してしまえるから。

他人に褒められて謙遜する人間がいる。私もその一人。
でも謙遜している一方で本当は“もっと褒めて”と思っていないか?
褒められた時、素直にありがとうを言えた時――それはきっと成長の証。

単純に、葉留佳という女の子は愛情に飢えていただけの話だったのだ。
自分を認めてほしい、愛して欲しい、否定して欲しくない、ただそれだけの話。
…でもそれが最も共感出来る。私も同じだから。
その自分の気持ちを認めた時、葉留佳は嫌いだった姉に歩みよる事が出来た。


   「…自分だけ辛いんだと、思ってた」
   「奪い合うゲームをしてるんだと…思ってた」
   「そうか…私『たち』はやっぱり、ただ、奪われていただけだったんだ…」


自分だけがどうしてと嘆いていた者が、自分の不幸を受け入れた。


   「うん。…私は私でしかないんだ。もし『どちら』だったとしても」
   「誰も悪くない…」
   「だから誰も憎まなくていい…」


このシナリオは自身の受け入れ方。それを描いた物語。自身の弱さを受け入れた時、相手の事を受け入れられる。理樹は葉留佳に歩み方を示した。葉留佳は姉に歩み寄った。そうして、姉は自分の心をさらけ出した。そうして人は“理解”し合う。

自分は不幸だと認める事は出来るものはいる。でも受け入れる事が出来るものは少ない。自分が不幸だと受け入れる事が出来る者なら、現実と向き合えるでしょう。他人も不幸なんだと認める事が出来るでしょう。それが強さなんだと物語は謳っています。










■永遠の世界(西園美魚&来ヶ谷唯湖)

西園美魚が望んだ永遠の世界。
来ヶ谷唯湖が望んだ永遠の世界。
『独り』の世界を望んだ美魚
『二人』の世界を望んだ唯湖。
世界から独りになりたくて永遠を望んだ美魚。
独りだったのに直枝理樹に出会い、二人の永遠を望んだ唯湖。
理樹と共にあるために願いを捨てた美魚。
理樹と共にあるために願いを叶えたのに失った唯湖
共に永遠を願った両者の願いの先は、実に対照的な形となった。
この両者のシナリオは個別の中でも群を抜いて高いと思いました。
正直、私はまだ推し量れていないと思う。










■西園美魚


   「ねえ、理樹君は先週の月曜日の夕飯、何食べた?」


美魚シナリオでの1シーン。覚えている人は多いと思う。
理樹は夕飯と美魚は一緒じゃない、と言った。
では、夕飯を時間に…「思い出」に変えてみよう。
先週の月曜日の夕方、何してた?―――覚えてない。
まぁ平日のことだし仕方ない。なら日曜は?―――覚えてない。
印象が薄い事なら覚えてないのか…なら特別な日。
例えば誕生日とか?―――覚えてない。
修学旅行は?―――あまり思い出せない。
結婚式は?運動会は?コンサートは?エトセトラエトセトラ・・・



何かをした事は覚えている。けどどんな内容なのは説明できない。
そんなスカスカな記憶ならあってないようなものではないか?
だから私たちには「なにもない」
価値があると信じている日常も、その積み重ねも、空のように溶けていく。
その程度のもの。ゆえに「透明」…でも


   君はいた。
   間違いなく、君はいたんだ。


なにもない。眼鏡をかけてたかどうかも思い出せない。
でも、その「なにもない」日々があったから、美魚と美鳥は違うのだと言えることができる。その積み重ねがあったから美魚を忘れない、と意地になれる。
顔も料理の味も思い出も曖昧になった相手でも、好きだって気持ちは確かに残っていた。

それは「なにもない」日々の積み重ねがあったから。
確かに今の自分を形作っているのはそれの積み重ねだったから。


   僕には『なにもない』から
   僕は『青』になる。
   『青』と『白』は決して混じらない。
   混じらないから、美しい

   (中略)

   僕は『あを』なんだ
   透明な僕は、青になる。


――だから『あを』
「透明」の積み重ねた日々は空と同じく「あを」になる。
そしてそれは決して「しろ」とは共有できない。


   「僕らは決して、交わらない」
   「決して、溶け合わない」
   「どんなに僕が」
   「僕が西園さんのことが、好きだとしても」
   「僕らはひとりぼっちなんだ」
   「西園さんが望むまでもなく、僕らは孤独なんだ」


白鳥がどんなに空を飛んでも溶け合わないように空と鳥は決して交わることはない。
自分の何もない日々――『あを』は
他人の何もない日々――『しろ』とは“永遠”に
溶け合わない、交わらない――だから美しい。
だから私――「あを」は、他人――「しろ」を求める。
溶け合わない相手と一緒になろうとする。求める。
その矛盾を、“美しい”と感じた。


   「だって、わたしは『空っぽ』だから」
   「空に浮かぶ雲みたいに、あやふやでぼんやりとしていて」
   「それがたまたま、人の形に見えた。だから、お姉ちゃんはそれを人だと思った」
   「あたしを…妹だと思った」
   「だから…あたしには、雲が他の何かに見えるわけがなかった」

   「誰か大切な人が傍にいて、初めて人は『自分』になるの」
   「他の誰でもない、自分。お姉ちゃんは、それを『孤独』と呼んだ」


雲だった美鳥は雲が他のものに見えなかった。
『意識』されない人は雲と同じ。
誰か大切な人を意識した時、人は初めて自分になる。
他人の存在を知って、自分の存在を知る。そして孤独を知る。


   ああ接吻 海そのままに 日は行かず
   鳥翔ひながら
   死せ果てよ いま


伝わる瞬間、その瞬間に『永遠』を願うこと。
「孤独」であるけれど「一人」じゃない、と想える瞬間。
だから『海そのままに 日は行かず』――時が止まる事を願う。


   風に乗り 白い翼で 君と行く
   青の狭間の 常夏の島


孤独を願っていた美魚のこの短歌が人の矛盾の綺麗さを見事に表していますね。
人の孤独と矛盾と日常の価値のなさと、その“なにもなさ”の価値を見事に表している。“詩的”に“美しく”そしてテーマに見事沿えたこのシナリオは本作で最も評価できます。










■来ヶ谷唯湖


   話し声が聞こえた。
   『みんな』が話をしている。
   …どうして『みんな』だけで話をしているの。
   僕も混ぜて欲しい。
   けど声が届かない。
   空を見た。
   星が見える。
   暗くて、何もないような気がする。
   そんな中、『みんな』の声だけが聞こえる。
   …そんなことは無いよ、僕は大丈夫だよ。
   …『みんな』だって、そこにいるじゃないか。



8つの願いが繰り返しの世界を生み出し、そこで理樹と鈴の成長を促す。
↑の理樹の見た夢は世界が始まる前の8人が二人をどう成長させるかを相談するシーンだったんですね。確かに理樹と鈴はまざることはできませんねそれでは。
8人は舞台のGM(ゲームマスター)の権限を持つPC(プレイヤーキャラクター)であり、役目を終えた以降はGMの権限をなくし、PCとして繰り返しの世界で機能していく。
本作では少しこのへんの仕組みが曖昧で、GMとしての強制力は恭介だけは他と違い強かったり、クドや小毬のように、GMであることを忘れていたりする者がいる。
攻略したヒロインの話にオールクリアするまでもう一度入れないのは、TRPGにおけるルールによって、あるいはPCであるヒロイン達が拒否していたからである。ルールとはもちろん、理樹と鈴の成長を促すこと。同じ事の繰り返しになるから二週目は出来ないってことですね。

その流れから一人だけ違う者がいた――それが来ヶ谷唯湖である。



TRPGにおける設定された目的(二人の成長)を止めてしまう願いをGMの権限を持つPCである来ヶ谷が持ってしまったがために、役目を放棄して設定が狂った世界は崩壊する。あるいは修復か?

ここで思い出されるのが小毬。最終シナリオにおいて小毬だけがわがままを言って一人だけGMの権限を持ったまま残っている。他のヒロインと違う立ち位置となっている。
(アンインストールして)2週目に気づいたことだが、どうやら来ヶ谷ルートのデートの誘いの演習において一度攻略したヒロインはその演習の相手に誘う選択肢が選べなくなる。ただ、例外として小毬だけは選択肢から外れる事がなく、演習相手として選べる。
(私は初回時、小毬→来ヶ谷の順で攻略したので分からなかった)



…前置きが長くなったが何を言いたいかというと、役目を終えてもなお、理樹達の成長のために残った小毬。永遠の6月20日を願い、役目を終えたのではなく、役目から外された形となってしまった来ヶ谷。
両者は本作におけるお互いの『アンチテーゼ』です。


   「…ともだちって」
   「何がしてあげられるのかなあ…?」
   (鈴シナリオ より)




   「あ、宮沢くん、いいとこにきてくれた。棗の奴がさ、電気も
    つけさせてくれなくてさ…」
   「就職活動ももうしないって…漫画の世界に逃避しちゃってさ…」
   「あんな中で漫画読んでても目が悪くなるだろうし…」
   「なんとか言い聞かせてくれない?」
   
   今のは誰だ? 誰が心配している?
   (Episode:謙吾 より)





   「…お願い事、ひとつ」
   「りんちゃんも、ちゃんと笑っていられますように」


ルームメイトを操作して心配をしていたのは小毬。
自己の幸せよりも、理樹と鈴の…皆の幸せを願った小毬。
自己の幸せの為に、二人の世界の日々の繰り返しを願った唯湖。
この二人の対比が各ライターのシナリオに麻枝氏が手を入れていると思うに至った決め手だった。しかし、なんたる皮肉だろう。キャラの思いとは裏腹に、来ヶ谷シナリオは最も報われず(最後はハッピーエンドもあるが)最終的に『リトルバスターズ』という作品の舞台の一番の伏線として機能させられている。最後来ヶ谷一人だけ寂しそうだと表現されているのがなんとも言い難いですね…










■Refrain

このシナリオはもうそのままを感じればいいでしょう。
伝えたい事ははっきりとキャラクターが主張してくれてます。
ずっと続いて欲しかったという気持ち。
それが叶わない理不尽に対する悔しさ。
それでも生きていかなきゃいけないんだというメッセージ。
恭介が、謙吾がそれをダイレクトに伝えてくれてます。
でも、これが効いてくるのは個別シナリオがあったからなんだと私は思います。
ある意味、Refrainのシナリオは一番薄いんです。










■総評

個別シナリオをメインテーマ、メインシナリオ『Refrain』の為に統一性を持たせた構成。過去作にはなかったこの作りは、私的に満足にたるものだった。



『青』である私は『白』である他人とは混ざらない。だけど伝える事が出来る。
不幸な人は私だけではない。あなたもそうだった。
何を選んでもきっと後悔はしないことなんてなく、
どんなに願っても永遠はなく、生きている限り失っていく。
そんな悲しいことばかりだけれど、ステキな事見つけよう。
生きる事は失っていくことだけれど・・・


   たくさんのであいがまってくれている。
   たくさんのかけがえのないじかんが、まってくれている。
   そして、いつか、みんなにつたえよう。
   うまれることはすばらしいよ、って。
   うまれることをおそれているひとたちにつたえよう。
   すばらしいであいがたくさんまってたよって。
   とてもしあわせだったよって。


でも、そんな綺麗事ばかりで誰もが納得なんて出来ない。


   「そんなの、俺のほうが嫌に決まってんだろおぉぉ!!
    なんで、おまえらを置いていかなきゃいけないんだよ!!
    俺だって、おまえたちと居てぇよ!!
    ずっとずっと居たかったんだよ!!
    なんで、こんな理不尽なんだよ!! ちくしょう!!
    ずっとずっと、そばにいたかった!!
    俺のほうが、ずっとずっとおまえたちのことが好きなんだよ!!
    なのに…おまえたちを置いていくなんて…
    そんなの…ねぇよ…
    なんでだよ…
    わけわかんねぇよ…
    くそぉ…」


この言葉で麻枝氏のことが少し解れた気がした。
そう願いながらも氏の物語は最初から理不尽を背負わせてばかりで、
でもそれは現実はそうはならないから理不尽を描くことしかできなくて。
でもやっぱり幸せな理想を叶える場所があってもいいじゃないかと思ってて・・
だから『願いの叶う場所』を作って、それを最後には壊し現実に戻す。
最後に選択肢があらわれる。


    いい
    よくない


強く生きろという言葉を真に受けとめるなら、ここは『いい』を選ぶべき。
それが現実を強く生きるという意味になるからだ。
そもそもここで選択肢なんて用意するべきじゃない。
なのに『よくない』を入れたのは何故か?――その答えが↑の恭介の言葉です。
「いい」と選べる強さ、そして実際待ち受ける現実は「いい」と選んだ側の世界。
「よくない」と選ぶ弱さ、そしてそれは本当は自分もそうあってほしいと願う理想。

強くあれ、と主張しておきながら、自分も本当はおまえらと同じなんだぜ、という弱さを見せる。智代アフターではその弱さが私には感じ取れなかった。今なら違う見方が出来る気がする。だから本作のテーマはとても伝わったんです。
弱さを見せることで、強くなれという言葉にうなずく事が出来る。
弱かった二人が成長する姿を描いた。
スーパーマンだと思ってた恭介の弱さを見せた。
その為に様々な伏線とメッセージを残し、主張を強く際立たせた。


弱くてもいい。弱いならまず鈴のように手を借りてでも進め。
少し強くなれたなら、理樹のように手を引いてられるようになれ。
いつか恭介のように現実と戦えるようになれ。
そして出来るなら、最後の二人のように皆を救えるようになれ。


稚拙な文章ですが、私はこのように受け取りました。










■あとがき、そして愚痴

まだまだ来ヶ谷シナリオとか謎が解けてない部分もあり、正当な評価とは言えないかも知れませんが、舞台設定の矛盾とか(あるのかどうかも分からないが)そういった点はあまり重視していません。話においてそれはそこまで重要とは思えないからです。
あくまで物語が描いているのはキャラクターの成長であり、麻枝氏がずっと掲げてきた「強さ」というテーマへの挑戦であると思いますので・・・



(ここから人によっては見ていてあまり気持ちのよくない愚痴になりますのでご覧になる方はご容赦下さい)































まぁつまり、ここ(批評空間)での得点にかんすることです。
単発IDだの、信者、アンチだのでいたずらに得点が操作されたりしていますが、
『中央値』の意味を考えたらあまり益のあることだとは思えないんですよ。
0点を付ける人は100点の人に対するあてつけならばその人にとってこの作品は50点の価値しかないってことでしょうか?(ちょっと極論ですけど平均値って意味ではそうなります)
でも結局そんなことしても最終的には中央値に落ち着くんですよ。
だからまあ素直に感じたままの得点を付けたらいいと思うんですよ。
もちろん主観評価ではなく客観的に見て、と考えて付けるやり方はありです。
0点をつけても80点90点、あるいは100点をつけても10点、20点のデータ数が多ければ結局その0点も100点も“あてにならない”ものとして扱われるんです。
操作をしている人にとって、そんなふうに扱われるのはどんな気分ですか?
(ちなみに自分は素直に0点や100点をつけているって人は軽く流してやってください)



だから私は素直に本作にこの点数をつけさせてもらいます。
「リトルバスターズ」は私にとっては間違いなく素晴らしい作品でした。