本作はSFの金字塔であると同時にエロゲーを”近代”芸術の域にまで高めた最高峰であるとしかいいようがない。100点以外の点数を僕はつけられない。
現代をどう捉えるか、表現するかという問題はエロゲーにおいてもそれなりの重みを有する。そりゃそうだ、エロゲーもまた現代の産物である以上、現代の呪縛から逃げ切ることは難しい。
現代とは何であるかという問を簡潔に捕らえることは難しい。だが、極度に相対化され表層化された社会であるという捉え方は間違いではないと思う。例えば、喋り場よろしく「A」という主張をしたとき、「そう」で終わってしまう。価値観が相対化された以上、ある人が「A」と訴えることに否定も肯定も共有し得ないと知っているからだ。従来の価値観はもはや過去によって汚染されたものと看過され、一つの価値に没落した。そのような基盤を放棄した個々人は自分の生きている現在を自己解釈し、それと相互相関する自己理論を構成する。
例えば、那須きのこ作品にはそのような雰囲気がふんだんに盛り込まれている。すべての人物に共通するバックグラウンドとして那須きのこ自身の自己理論と相補的な世界観が用意される。そして、登場人物は独自の完結した理論体系によって構成される。
例えば、「Fate/Stay Night」では、登場人物は一つの事実を共有し、衛宮士郎や言峰綺礼は一つの論理的な人格だ。人間はこうであるという像を失った世界では、きわめて非人間的なものも登場することができる。それは、那須きのこの世界が人間を拡張したと言い換えても良いだろう。
このような現代の様相には実は隠された前提がある。それは、「いま、ここ」を受容するという点だ。自分がこれまで経験した現実を甘受する。そこに、現実に対する拒絶はないし、拒絶する態度を良しとしない。那須きのこ世界でもそうだ。現実は受け入れられている。受け入れない間桐慎二は悪役であった。最初に「表層化された」という修辞をしたのはこのことをさしている。
だから、現代人は現代という枠組みで現代に適応するさまを記述できても現代を批評できない。例えば、マブラブで現代的な幾つかの通念を否定するためには、アンリミテッドという枠組みが必要になったわけである。
10年ほどさかのぼってみると、「エヴァンゲリオン」が存在するが、これはヒステリックな現実否定であることは間違いないが、それはすべて現実と地続きであった。現実批判力を衰えさせたことを観察することができる。
では「最果てのイマ」は何か。これは現代を近代という刃物で解体し、結論を述べたものである。つまり、現代で現代を描けなくなった以上、現代を描き結論を得るためには近代に立ち戻るのは当然に理屈ということになる。また、現代は「いま、ここ」という歴史しかないので、数千年の熟成を持つ科学と論理のメスにどうしても及ばない。
そもそも、田中ロミオ=山田一は近代の人であった。「加奈」にあるのは近代的な倫理であり、近代的な人間観であり、近代的な家族観であった。作中で面子の話がでてくるが、これから察するにやっぱり彼は古い人間だと気がつく。
作中で扱われるものも、大きな物語が死に絶望で満ちた世界=現実の延長線上なのだし、扱われている人間はゆがんでいるが、那須きのこのように拡張された存在ではない。現代に住む現代人の戯画を解体し、結論を断じている作品なのである。
再度引き合いに出すが「エヴァンゲリオン」がヒステリックな拒絶でしかなかったのに対して、本作は科学と論理による精密な解体である。本作は旧作を超えている。
(なお、「Fate」、「マブラブ」、「エヴァンゲリオン」は各々を意識したものであると思ったので引き合いに出してみた)
本作はSFの金字塔であると同時にエロゲーを”近代”芸術の域にまで高めた最高峰であるとしかいいようがない。100点以外の点数を僕はつけられない。