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judge13さんのForestの長文感想

ユーザー
judge13
ゲーム
Forest
ブランド
Liar-soft(ビジネスパートナー)
得点
100
参照数
3141

一言コメント

なぜこの作品に100点を付けるのか。

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

おそらくは意図的に、ライアーソフトはこの作品の体験版を用意していない。
プレイを始めるとすぐに摩訶不思議な[森]の世界に飛ばされるのに加え、
序盤で作中世界についての説明をしないので、面食らった人も多いのではないか。

作中世界の概要が初めて焦点を結ぶのは7月のリドル『ザ・ゲーム』。
ここまでがプロローグ的な役割を果たしている。
ここで初めて、[森]とは何であるかが示される。

  あたし、気づいてたんだから!
  リドルの仕掛けは!
  あたしの本棚から選ばれてるって!

誰も元ネタを知らない「星犬シリウス」。
アマモリの飼い犬なのだから当たり前だ。
真実を舞う「ペッコリア」。
「コッペリア」ではありえない。
アマモリの認識に基づくのだから当たり前だ。
[森]はアマモリの想像力/創造力が生み出したもの。

 =====

では、[森]は空想でしかない荒唐無稽の世界なのか。
それを紐解く意味で、この作品で最も重要な場面が、5月の『アリス』だと思う。

灰流は、[リアル新宿]の厚生年金会館の前で黒いアリスに出逢う。
しかし、リドルが発動する気配は無い。
結局、二人はそのまま新宿の街をぶらつくことになり、ラケルでご飯を食べ、
二丁目のアングラ劇場に足を踏み入れる。

その中で、アリスが新宿の街を歩いていた英国人の子供に話し掛けられる場面がある。

  アリスは子供たちに挟まれて
  すまし顔をしてみせる。

  子供たちはまるで落ち着かずに、
  はにかみながら
  アリスを質問攻めにする。

  ダイナはどこ?
  どうして黒いの?
  不思議の国の入り口はどこ?

  ―――今夜は遊びに行っているわ。
  ―――手垢にまみれているせい。
  ―――ここよ。

最後の一言の意味は大きい。
アリスは、新宿アルタの真ん前で、不思議の国の入口を「ここ」だと言ったのだ。

作中で描かれる[森]は想像力/創造力の賜物である。
しかし、それと同様に、あの新宿の街も、大元は想像力/創造力で出来ているはずだ。

新宿御苑に入り英国庭園を廻れば、都心の喧騒から切り離された別世界に
足を踏み入れた感覚は簡単に味わえる。
木々に囲まれた御苑から周囲のビルはあまり目に入らないのだが、
南口にそびえる巨大なビッグベン(ドコモタワー)だけは別格。
歌舞伎町に足を踏み入れれば情欲溢れる世界が待ち構えている一方、
西口の都庁は我々を見下すかのような無言の権力の象徴である。

[森]は数々の作品を元ネタにして積み上げられているが、
その中に新宿そのものがごく普通に組み込まれている。
「新宿ジャンキー」九月周が何の違和感も無いかのようにリドルに挑むのは、そのためだ。

 =====

しかし、この作品は、現実に敗れたアマモリが[森]に閉じ篭ることを良しとしない。
灰流は家庭教師時代から、彼女に対し「外」の世界に出てくるよう促し続ける。
そして、アマモリ自身もそれを願っている。
彼女は、自分が「OL」であることに頑なに拘る。
それは彼女にとって世間との唯一の接点に他ならないから。

では、宮野伽子はどうか。
アマモリと同じ灰流の教え子でありながら、不治の病に冒された少女。
未来を持たない伽子(かこ)に対し、灰流はアマモリに対するのと同じように
振舞うことはできない。最期に灰流は伽子を抱く。

しかし、伽子は最期にこんな一言を残した。

  「私、死んだわ」

これは、『ハムレット』の今際の台詞「I am dead.」が下敷きにある。
……しかし、これを聞いた灰流は静かに怒る。
伽子の死までもが、「お話」の一環として形作られていることに。

  わかるか、アマモリ?
  空き缶の中にはクッキー!
  物語の中には「キャラ」だ!

  こんなくだらない俺たちを想像しやがった
  頭のおかしいやつが、どっかにいるなら!
  そいつの幸運を祈ってやろうぜ!

  そいつを想像したやつも!
  そのまた外にいるやつも!
  いつまでも!幸せに!暮らすがいい!

 =====

アマモリは灰流が伽子を抱いたことを知り(自分の場合とは違って!)、
塔から身を投げ、砕け散る。
その欠片を追い求めた灰流は、何十年も新宿を彷徨った果てに、
ついに、欠片の全てを見つけ出す。

この作品における「アマモリ」とは何なのか。いかなる存在なのか。

彼女の本当の名前が呼ばれる。「魔女アマモリ」ではなく、「雨森 望」と。
それは黒いアリスと宮野伽子の関係と並列であり、
[森]の住人と[リアル新宿]に生きる生身の人間との違いであるはずだ。
こうして彼女は、新宿の街に戻ってくる。

雨森は、「語り手」ではない。
「聞き手」でもない。
刈谷のような「読み手」でもない。
「伝え残す」のでも「インスパイアされる」のでもない。
「踊る」のでも、ない。
「パドゥア」と称される彼女は、この作品における絶対的・主観的存在なのだと思う。
この作品は「雨森の」物語であり、他の何物でもない。
これは、彼女の見た夢なのだ。

 =====

最終章『春』。

  いまのいま。
  ここは新宿――

燦々と陽が降り注ぐ新宿の街を、彼女たちが歩いていく。

九月周。
新宿ジャンキーの彼女が、実家に帰るという。
新宿無しには生きられないと言った彼女が、一時的とはいえ新宿を離れるという。

刈谷真季。
[森]を最も現実的に受け止めていたはずの彼女は、
一つの存在を持ち帰った。
そして、店と一人の男に仕えた彼女が、自分で店を開くという。

黛薫。
教授に愛されれば他には何も要らないと言った少女、
ラピュタのクリスタルの中で夢を見ながら歌っていた少女は、こう言う。
「悪いんですけど、ボク、歌でごはん食べる気ないんです。やりたいこと、たくさんあるし。」

この三人…「大人」として[森]に足を踏み入れた彼女らもまた、
[森]での経験を経て、変わっていく。
一つのものを失う代わりに、一つのものを手に入れて。
でも、それを忘れるのではなく。
「新しい世界」へと、彼女らは歩いていく。

そして、雨森も。
誰よりも現実に打ち負かされ、幸せな結末を望んでいた雨森は、
今や真っ直ぐに前を見据え、背筋を伸ばして新宿を歩いてゆく。
確かに一瞬、灰流と眼が合った。あのシーン、雨森は灰流に気付いていたのだと思う。
雨森と灰流の家庭教師時代の存在を否定していない。
しかし彼女は灰流に関わらなかった。
ジャグリングの邪魔だからという理由だけではあるまい。
雨森に、灰流への執着・依存は、もう無かったのではなかろうか?

かつての教え子は、自分の足で歩いている。それを見た灰流の表情には、影が差した。
このリドルを通して、最も変容しなかった人物は灰流に他ならない。
リドルが終わりを告げた今、自分だけが昔のまま残されたのだ。
もちろん、雨森の変化は彼自身が望んだこと。
しかし、だからといって灰流の孤独が癒されるわけではない。
「教師」とは、こういう存在なのか。
でも、おそらくこれもまた、生きるということなのだろう。

 =====

この作品には、「物語」に対する根本的な問い掛けが込められていると思う。

この作品を読み終えてからしばらく経って、自分もかつて子供の頃、
アマモリと同じように「自分の世界」を空想していたのを思い出した。
それをしなくなって、このリアルの世界こそが唯一無二になったのはいつからだろう。
でも、そうしたものが、新宿を初めとしたこの世界を生み出すための
源泉になっているのではないか。
空想の世界と同じ発想で、都庁舎やドコモタワーは積み上げられたのではないか。

この作品の発想は群を抜いている。
既存の作品の常識をいとも容易くぶち抜き、今でも私を圧倒する。
それ自体が、人の持つ想像力/創造力に対する賛歌に他ならない。
にもかかわらず、この作品は決してその中に溺れない。
我々の生きるリアルそのものの魅力を詰め込んでくるだけでなく、
物語として用意される「幸せな結末」をも断固として否定する。
その中で雨森は、時に「外の世界」に傷付けられながらも、
灰流の言を信じ、外界との接触を渇望し続ける。
そして最後には、この街でしっかり前を向いて歩いていく。
その姿は、今作を何よりも象徴していると思う。

この作品はこう締められる。

  いまのいま。
  ここは新宿――

  別々の方向へ歩き去っていく。
  それぞれの決意、それぞれの道。
  かれらが、どうなっていくのか――それはまた、別のお話。

私達が歩くのはこの[リアル新宿]に他ならないのだけど、
そこには、いたるところにこれでもかと「物語」が込められている。
道を歩く誰も彼もが、その中に「物語」を抱えている。
こうして、この街は出来ている。それは[森]と大差ないはずだ。

 =====

この『Forest』という作品は、[森]に代表される作中世界の奥深さ・緻密さ、
この上なく独創的なボイス演出、この世界観を表現するための独特のグラフィック、
圧倒的なテキスト表現の作り込み、場面とのマッチングが素晴らしいBGM、
登場人物の持つ深みと、それを魅せるための文章的演出、
現代新宿を背景とするゆえの強烈な現実感、真剣に一人の少女の「成長」を描く物語性、
そしてその一点に全てが集約される構成力と、
数々の要素において非常に素晴らしい作品だと思う。

そして、それだけではなく、この作品は、エロゲに限らず
他のあらゆる物語を俯瞰するポジションにある。
「なぜ私達は物語を読むのか」「そこに何を求めるのか」という、
おそらくは最も根底のところの意義を、高らかに示している。

だからこそ、私はこの作品に最高点を付けるのだ。

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最後に補足。

この作品のラストシーンの舞台は、バスタ新宿である。
……だが、バスタ新宿が完成したのは2016年。
一方で今作が発売されたのは2004年なのである。
当時の完成予想図からあのシーンは描かれたのだという。

「世界を創る」とはこういうことなのだと思う。
人が想像力を働かせ、デザインし、建築する。
そうしてこの世界は出来ている。
今作に相応しい素晴らしきラストシーンだと思う。

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