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jericさんのONE ~輝く季節へ~の長文感想

ユーザー
jeric
ゲーム
ONE ~輝く季節へ~
ブランド
Tactics
得点
90
参照数
2728

一言コメント

一回限りの例外的な出来事

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

本稿は「One」のみならず「Kanon」の内容にも一部触れています。
かなりレアだと思いますが「One」はプレイしたけど「Kanon」未プレイ
とくに「One」も「Kanon」もその類似作品もまだプレイしていない
という人はこの先を読まないほうがいいかもしれません。
起こせるはずの奇跡が起こせなくなっちゃいますよ。まじで。





奇跡の作品である。
奇跡を扱っているからでもあるし、この作品自体のあり方からして奇跡の作品である。
自分は「シンフォニックレイン」を「危ういバランスの上に成り立っている作品」と評した。
本作はバランスの上になど立っていない。
提示された謎は結局解明されないし、
フラグの条件が厳しすぎ、
キャラ造詣もおかしい。

これは美少女ゲーム以前にエンターテイメントとして完成していないのではないか。
にもかかわらず、この作品は完璧に完成している。

ぼくが「えいえんのせかい」から帰還したこと
欠点だらけの作品にぼろぼろに感動したこと

これがこの作品のかなえた奇跡だ。
もう、こうした作品は現れないかもしれない。

奇跡はおこらないから奇跡というんですよ。

ましてや二度までは。
事実、次の作品(Kanon)では奇跡は起きない。
たしかに、少女の願いと贈り物の力を借りて、失われるはずの命が救われる。
だがこれは奇跡ではない。
ああすればこうなるというプロセスが分かっている現象を奇跡とは呼ばない。
ただの見慣れぬ自然現象だ。それも繰り返し見ることで当たり前に思えてくることだろう。
火薬や電気のように。

Kanon(とその類似作品)が奇跡を陳腐にした。
美少女ゲーマーは「Kanon」で、「それは舞い散る桜のように」で、「D.C」で、人は容易に記憶をなくしうるし、強い想いは物理法則を捻じ曲げることを学ぶ。
だから現在の美少女ゲーマーが「One」をプレイしても奇跡は起きないかもしれない。
突然の別離→再開のストーリー展開は「ご都合主義」、「美少女ゲームフォーマット」の烙印を押されて速攻で見切られ、中古ゲーム市場に直行することになるかもしれない。

鬱耐性が昔のプレイヤーにはなかったから、現在ではお約束になっている展開にも衝撃を受け、泣ける、感動したと騒いだ。

これが「One」のおこした奇跡の正体だろうか。
ならば、泣ける(しかもビジュアル、プレイの環境の点で「One」よりもはるかに快適な)作品は他にいくらでもあるのだから、わざわざ過去の名作をプレイする必要はない。

たしかに、「One」の起こした奇跡の一端は、後に多数の模倣をうんだ、そのストーリー展開:前半コメディ→後半シリアス(トラウマ風味)を発見したことにあった。
だが、そうしたプレイヤーの感情を揺さぶるテクニックをコピーした後続作品にも、制作者であった「Key」自身でさえ再現できていないユニークさがこの作品にはある。

一回限りの例外的な出来事

奇跡と呼ぶ。
それを説明するには、「One」のストーリー構成に立ち入る必要がある。とくにこの作品の特徴ともなっている「えいえんのせかい」について語らねばならない。

「しあわせだった」のモノローグからはじめる語り手、折原浩平は幼い日の妹の死から世界に絶望し、記憶を封印、「えいえん」を求める。歳月が流れ面白おかしく毎日を過ごすが彼の内部で「えいえんのせかい」は膨らみ続けそれに伴ってその存在を他人から忘れられていく。ついにはこの世から消失、「えいえんのせかい」にとらわれてしまう。
はじまりもおわりもないせかい。かのじょとふたりきりのせかい。
強い絆で結ばれた相手が、その想いを一年間忘れずにいてくれた場合のみ、かれは帰還する。
輝く世界へ。新しい季節へ。そして時は再び動き出す。

「えいえんのせかい」の描写は主に折原浩平の就寝時に挿入される。
「えいえんのせかい」は前半では「ぼく」のモノローグ、後半では「かのじょ」との対話で構成される。
「えいえんのせかい」は空、海、夕日、夜景のグラフィック、物悲しいサウンドで表現される。

「One」という物語と「えいえんのせかい」の受け止め方はプレイヤーごとに大体以下の三種類に大別される。
1物語に感動し、「えいえんのせかい」とはどんな世界かと考察する。
2「えいえんのせかい」を別離と再会を演出するための単なる舞台装置とみる。物語を一種の(おそらく社会と関わることにすねた人間が再び心を開くまでをあらわした)メタファーとして読む。
3「えいえんのせかい」に捕らわれているのはこの作品世界に魅せられたプレイヤー自身であり、「One」をメタゲームと見る。

順番に詳しく見てみよう。
1意味不明の青臭い挿入、突然のゲームオーバーになんじゃこりゃと苦笑しながらプレイを続けていたらいつの間にか物語に引き込まれていた。みさき先輩のけなげさに涙し、七瀬と浩平のやりとりににやにやする。何度あの再会のエンディングを見直しただろう。
物語にはまったプレイヤーは遅かれ早かれ「えいえんのせかい」の考察に向かう。
この非情にも二人を引き裂いてしまうものはなんなのか。にもかかわらずいつまでも浸っていたいと感じさせるものの正体は。
「えいえんのせかい」の抽象的なモノローグはプレイヤー各人の解釈を迎え入れる。
「えいえんのせかい」は性に目覚めるころの喪失感を表わしているのかもしれない。
「えいえんのせかい」は思い出したくない学生生活、よそよそしい家庭から逃避するために折原浩平が作った幻想かもしれない。
「えいえんのせかい」にもっと漠然とした将来への不安を読み取る者もいる。
ユングだかフロイトだかの学説を援用したっていい。
プロットの飛躍と説明不足がプレイヤーに無限の推測、感情移入の余地を与えた。

2[1]の果てしない思考の迷路に疲れた、あるいは比較的醒めた目を持ったプレイヤーははじめから、
「えいえんのせかい」は何なのか断定するにはゲームに提示されているだけでは判断材料がたりない、という結論に至る。
ドラマティックな引き裂かれる恋人たち→感動の再会という展開をつくることが制作陣の念頭にまずあって、「えいえんのせかい」はそうしたストーリーを作るため事後的に無理やり生み出されたものだという解釈だ。
これをもって「One」は作品世界について十分な説明がされていない、きちんと説明されていればもっと感動できたといらだつ。
物語に酔うことなく内部を構成する機能を分析、観察する。
この立場をさらに進めれば「One」という物語自体、キャラクターと戯れるゲームに見せかけて、実はモラトリアム人間の感傷:自分は特別なんだという万能感(えいえんを求める前)から、自分の思い通りには世界はまわっていにないという事実を発見(妹の死)、悲嘆にくれる(えいえんへの逃避)も、再びともかくも生きていこうと思い直す(えいえんからの帰還)までを描いた一種の青春小説の系譜につらなると見ることもできよう。


3物語を抱きしめ[=1]のちに突き放す[=2]という2つの体験をしたプレイヤーは第3の道に至る。
初め、物語に溺れた。感動の正体を知りたくて、反芻したくて、「えいえん」の正体を追いかけた。何度もテキストを読み直した。
注目したのは以下の点である。

折原浩平は自分のことを「俺」と呼ぶが「えいえんのせかい」の視点プレイヤーは「ぼく」という。

「えいえんのせかい」にいるのは折原浩平ではないのではないか。では何者か。
「えいえんのせかい」に捕らわれているのは、「えいえん」をいつまでも追いかけ、感傷的なモノローグを自慰的に反芻しているプレイヤーそのものではないか。
えいえんのせかいにいる僕=プレイヤー
この等式を前提にするとき、キャラクター萌えお涙頂戴三文芝居は新たな様相を見せる。

「それは別にこの世界を否定しようとしたんじゃない。この世界の存在を受け止めたうえで、あの場所に居残れるんじゃないかと、思っていたんだ」

「えいえん」のなかでの「ぼく」の台詞である。
物語の展開はこの台詞の逆になる。この世界(えいえん)とあの場所(折原浩平の日常)を両立させることはできなかった。
「えいえん」を拒絶すること。
幻想の中の「かのじょ」との閉じた関係ではなく
日常の中での「ヒロイン」との生を選び取ること。
「えいえん」から抜け出すにはそれしかない。

もしも「えいえんのせかい」とは「えいえん」を題材にした美少女ゲームの甘い妄想の世界に浸りきっているプレイヤーの内的世界のことだとしたら、
「かのじょ」とはパソコンのディスプレーに表示されるいびつな美少女たちのことだとしたら、
そして「僕」が感動して涙しているのが、「えいえんのせかい」での対幻想を捨て、日常へ帰っていく物語だとしたら。

一度は一体化した世界を拒絶すること。
それは笑って泣けて何度でも繰り返すことのできる作品から離れること。
それは汲みきれぬ意味を宿し手いるように見える「えいえん」についてのとりとめない解釈を「ただの舞台設定」、意味のないものとして見切りをつけること。
奇跡を起こすにはそれしかない。


やたら難しいフラグ管理のせいでプレイヤーは何度もバットエンドに飛ばされる。
「ぼくはえいえんをしっていた」という謎の言葉を残してゲームが突如終わってしまう。
この不親切なゲームデザインが「えいえんのせかい」の閉塞感とシンクロする。
たぶん、「えいえん」から「日常」に帰還するのはそれほど困難なことなのだ。


デッサンのゆがみ、巷ではハンディキャップとも表現されうる個性(盲目、失語症など)をも含んだヒロインたち。
ぼろぼろの心象風景を代表する。大きな瞳は感情表現に最適。それもある。
だが決して美しくない彼女たちは否定し、乗り越えるには格好の造詣ではないか。
絵がもっときれいならなぁ。
そういってこの作品を貶めるときプレイヤーは既にえいえんから一歩外に向けて足を踏み出している。本人の知らぬうちに。



正面からでも斜めからでも、素直にも難しくも楽しめる。
多様な読みが可能で、かつそれらプレイヤーの読みの移り変わりをなぞるような構造が物語に組み込まれている。おそらくは意図せずに。

こんな美少女ゲームをほかに知らない。

プレイを相対化、解体するいわゆるメタゲームは確かに他にもある。
特に2002年から2003年は美少女ゲーム史上メタギャルゲーの豊作年だった。
「腐り姫」、「Ever17」、「クロスチャンネル」…
数々の傑作が作られた。
だが、いずれの作品も意図的につくられたことがはっきりと見て取れる。

前作「Moon」から「One」までのインターバルは6ヶ月たらず。
1998年:「To Herat」の流行でようやく「学園もの」が認知されだした時代。
そんな条件下で上に述べた効果を制作者がどこまで計算して作っていたのか。


見かけ上どんなに不可思議な出来事でも、人があらかじめ綿密に準備して、意図しておこしたものを奇跡とは呼ばない。
ただのいい仕事だ。手品は奇跡ではない。

人の力(製作者の意図)だけでもだめ、状況に恵まれる(プレイヤーがゲームにはまること)だけでもだめ。
両者がかみ合ったとき予想だにしなかった何かが起きる。
そこに私は人智の及ばない何かを見る。



「One」がメタギャルゲーとして意味を持つには、(=見かけ上滅茶苦茶な作品が規則正しく崩壊していく様をプレイヤーが体験するには)物語の没入、先のプレイヤーの分類でいえば[1]の段階を経なくてはならないことは注目してよいかもしれない。

はじめからこの物語を青臭いライトノベルだと見切ったら、あるいは「えいえんのせかい」を泣きゲーによくある不条理な設定だとスルーしてしまったら、プレイヤーの「僕」は「えいえん」に足を踏み入れることなくゲームを終えてしまう。

人が死からよみがえったと話に聞くのと、この目で目の当たりにするとのではインパクトがまるで違う。
後者なら、なにか宗教にでも入信する気になるかもしれない。

その意味で熱心な「Key」ファンが信者と呼ばれるのは的をえている。
「Key」の作品は精神を壊す。(ゆえに18禁)
「One」で植えつけられたトラウマを癒すために更なる「Key」作品を求める。
海上でのどの渇きに塩水をがぶ飲みする光景を連想する。


「えいえんのせかい」は夢に似ている。
思えばあの頃は夢をみていた。

もう奇跡は起きないかもしれない。
美少女ゲームを取り巻く状況が変わった。
醒めない夢はない
そう自覚しつつ刹那的な萌え、燃えの快楽を消費するユーザーが増えたように見える。感動も特別なものではなく、美少女ゲームの要素のひとつだと。

制作側も変わった。
作品の大作化の流れを受けて開発が長期間に及ぶようになった。
勢いだけで作品をつくれる時代じゃない。
「Clannad」の絵は標準に近づき、感情を揺さぶる描写も控えめになった。
(加えて、この変化にはトラウマをトラウマによって癒すことはできないという「Key」の良心(良識)があったと思う)

もう奇跡は起きないかもしれない。
だが現在の美少女ゲームの状況のほうが10年前より健全なのかもしれない。
アダルトゲームの中に、世界のあるいは自分の謎を解く手がかりがあるかもしれないと信じられた頃よりは。
(例外はある。例外というにはあまりに大きな例外が。「TYPE-MOON」は今でも「醒めない夢」を提供しようとしているように見える。だが、こうした作品の可能性と問題点については、別の機会に譲ろう)



さようならしあわせだった日々。
風とか光とか寂しさに彩られた、ノスタルジックな作品を思い出すとき
決別して、これでよかったはずなのに
ほんの少し、胸がざわつく。