Kanonは二度死ぬ。
Kanonが再びアニメ化された。
京都アニメーション製作。
ハルヒを手がけて勢いに乗った二度目の挑戦ともなればよいできになるだろう。
だが観る気がしない。
Kanonは自分にとって終わってしまった作品なんだなと実感する。
Kanonプレイ当時、どうしてあんなに夢中になったんだろう。
当時自分は美少女ゲームに何を求めていたんだろう。
何かかけがえのないもの。感動とか
今振り返ってみるとあの時間は何だったんだろう。
暇つぶしと少しの思い出。
(美少女のいない)日常に倦んだ人間がやるのにKanonはふさわしい。
そもそも一連のKey作品は
「平凡な毎日こそがかけがえのない奇蹟なのだ」
というテーマで一貫している。
Kanonのシナリオ構成に沿って言えば
1(少女といる)退屈な日常
2突然の試練:少女が死ぬ
3奇蹟が起きて救われる
4再び(少女といる)日常:その世界は輝いている
というパターンを4つシナリオが4つとも踏襲している。
日常にいた主人公が非日常に迷い込んで、再び日常に帰ってきて成長する。
当たり前と思っていた毎日のすばらしさを再確認する。
こうしたシナリオの流れ自体は別段目新しいものではない。
それこそハリオウッド映画の「ターミネーター」だってやっている。
KanonをKanonたらしめている要素(KeyをKeyたらしめているといってもよいかもしれないが)、それは独特の「少女」像にあると思う。
幼い、無垢とも評される、言ってしまえば対人反応の微妙におかしい少女たち。
変な口癖、特定の食べ物大好きといった記号的要素もさることながら、皆一様に疑ったり、欺いたりすることを知らず、無条件でプレイヤーに好意を寄せてくれる。
たしかにどこかゆがんでいる。
それを表現する樋口いたるのキャラ造詣も見事だ。
ゆがんだデッサンと不釣合いに大きな瞳。
一説には瞳の大きいほど人は相手から安心感を得るという。
(草食動物の瞳は大きく、肉食動物や爬虫類の瞳は小さいことに由来するんだったような。)
この安心感過剰なキャラクターたちの前では、相手の言葉の裏を読んだり、自分がどう思われているかなど気に病む必要はない。
だいたいすべては許される。
たとえあなたがだめでもだめなままで幸せになれる楽園。
その閉鎖性に嫌悪感を抱く人もいるだろう。
なにを考えているか分からない他者を必要としない世界は不健全だと。
理解できる。
実際、楽園にはいつまでも留まれるわけではない。
Kanonはかなり繰り返しプレイにたえうる作品ではあるが、
(一週目:シナリオ堪能
二週目:一週目では気づかなかった伏線:破局を暗示する手がかりを堪能
三週目以降:やがて来る破局を念頭に置くと退屈な前半も違った風に見えてくる
後半のクライマックスを繰り返し堪能 など)
それでもいつかはそれも陳腐化する。
Kanon(に限らずKey作品や多くの感動系美少女ゲーム)のプレイヤーは二つの正反対の力に引き裂かれる。
現実の世界に戻りなさいという斥力と
このままここで眠りなさいという引力とに。
プレイを繰り返すごとに引力が弱まってプレイヤーはKanonを脱出する。
これからどこに行けばいいんだろう。
僕には名雪も秋子さんもいない。
でももしかしたら気づいていないだけかもしれない。
感動した映画や本を読んだ後のように少しだけ世界(を見る目)が変わった。
少なくとも雪や青空に思い入れを抱くようになったのはKey作品のおかげだと思う。
次はなにを探せばいいんだろう。
こうして次の星(美少女ゲーム)へと向かう。
引力と斥力、脱出。少しの宝物、その繰り返し。
しだいに手に入る宝物も粗悪品、以前に手に入れたのと似た様なものが多くなってくる。
引力が弱まっても次の星に向かわず衛星軌道上でおたおたしはじめる。
Kanonは二度死ぬ。
一度目はKanonという作品に飽きてしまったときに。
二度目はKanon的な作品(日常を賛美しつつ、楽園を提示する美少女ゲーム)自体に食傷気味になってしまったとき。
アニメのKanonを見たら感動してしまうかもしれない。
でも僕はその感動がけっして「永遠」でもなんでもないことを知っている。
日常の輝きを描いた作品の外側にはそうした作品群をすっぽり覆うほどの退屈が口をあけて待っているのを知っている。
これまで美少女ゲームに費やした時間が無駄だったとは思わないが、これから美少女ゲーム的(Kanon的)なものへ向かう気がどうにも起きないのだ。