期待以上の作品だった。(2008/12/11、一部改稿)
一気にコンプした後でも、ついあのシーンこのシーンと見たくなってやり直してしまう、そんな作品。
よく言われる本校系、分校系のライターによる違い。自分は交互にプレイしたがあまり気にはならなかったので得な性格だったのかもしれない。
本校系シナリオの評価が全体的には高いようだ。自分は優劣をつける気にはなれないがあえて言えば分校系のほうが好きだったりする。では何故か?考えてみる。
分校系においては生徒たちのなかで実に様々なサブキャラクターが登場する。彼女らは単なるにぎやかしではない。顔のない彼等ではあるが、弥生ものばらも双子もちよりんも、そのパートナーたる貴藤陀も自分たちの時間を生きているのがテキストから伝わってくる。
本校系において顔のないサブで場面を与えられた唯一の生徒である結城ちとせが、みやびーシナリオにおける「物語に奉仕するための道具」的な扱いしか受けておらず、結果的にあまり性格が見えてこない存在に留まっているのとは対照的である。
そう、簡単に言えば、自分は彼女等を含めた空間によって形成される空気にこそ惚れたのだ。学院の新人教師として滝沢司がそこにいるという感覚を、彼等はある意味でヒロインたち以上に与えてくれた。
これは最初に述べたようにライターの優劣ではない。世界を描く手法の違いに過ぎない。テーマを語るために物語を、物語を紡ぐためにキャラクターを奉仕させる本校系の手法はまさにその手法ゆえに感情移入したプレイヤーを直撃する感動をもたらす。
対するにまず世界を造りキャラクターを造り、あくまで彼等が世界の中で泳ぎ、もがく物語を語る分校系。ここではテーマはすなわち逆に物語に奉仕する存在となる。
故に本校を好む人には分校は冗長に写り、分校を好む人には本校は遊びや広がりが少なく感じるのだ。
ライターの手法の違いはテーマの料理法にも如実に表れている。
みさきちの受容は開放であり、しのしのの受容は超越である。
すみすみの好きと殿子の愛はお互いの全てを受け入れると言う点において同じだが、「捨てることで得る事を知る」すみすみと「捨てないことで得られる事を知る」殿子はある意味正反対ですらある。
みやびとリーダは司を無条件に信じることによって司自身を認めさせ、邑那とイェンは全ての条件を提示してなお司が彼女等を信じる事を信じる。
テーマは結果的に光と影のごとく提示されるが、それは単純にコインの表裏ではなく、物語とテーマを描く手法自体の違いなのだ。そこに好みの差はあれ優劣はない。
本校はあくまでみやびの剛速球のごとく直線的であり、分校はなだらかな中にもひねりが密かに仕込まれている。秘密をもつ花のように。
まあそんなわけで物語を堪能した約一ヶ月だったわけだが、いくつか引っかかっていたこともあった。シナリオ上の瑕……というか言葉足らずだったのではないか、という部分が散見されたことである。良く槍玉にあがるのは殿子とすみすみであり、自分も確かにそう思う。殿子はエピローグの無理やりとすら思える決着(締め自体は好きだが)やしのしのシナリオにおける将来について投げっぱなしな感じが非難される理由であろうし、すみすみにおいては彼女がエピローグに至ってもまるで成長していない(ように見受けられる)ところにあると思われる。ある方はすみすみエンドはバッドエンドである、ともおっしゃっていた。
確かにあのままずっといくのであればその意見も成程ということになろう。しかし、それがライターの意図なのかどうかは正直判断しかねる。
そう思う根拠は第十四章の互いの告白にある。あれだけからだを重ね、互いを想いあいながら繰り返されるごとく「何の契約もなく、何の約束もない」存在であった二人。主人と奴隷と言う立場に己をすりかえることで現実から逃げていた二人。それは無意識であり、それゆえに双子のいうごとく脆いものだった。脆さゆえに最後までドタバタし続けプレイヤーに歯がゆさばかり与え続けた彼等が最後に何を言ったか。
「好きだから」「好きです」
シンプルな言葉。そしてそれはあくまで始まりに過ぎない言葉にして、最初の契約。
互いが自身の本心を始めて認識し、受け入れた瞬間。
彼等の恋も愛も、他の五人に比べれば、まだほんのとっかかりにすぎないのだ。
彼等はこれからも生活の中で悩んだりいじけたり誤解したり喧嘩したりし続けるのだろう。たしかに彼等は一年でほとんど成長しなかった。しかし、それはけしてこれからの悲劇を示すものではない。
「僕らは薔薇がなくても生きていける」
たとえ心が幼いままでも、彼等は、互いがいれば生きていけるのだから。
彼等の心に薔薇はない。しかし桜は、ずっと宿り続けるだろう。
それだけで、彼等はきっとずっと幸せなのだろうと思う。
……なんてな。