キラキラもあれば影もある
・総評
前半は読んでいてひたすらに楽しかった。タイトル通り「キラキラ」していて自分もこんな青春を送りたかったと思わせるほどに楽しかった。後半の個別ルートではそれぞれが抱えている重たい問題に直面し、鬱々とした雰囲気が続き、前半の「キラキラ」がより一層強調されていたように感じた。
また、どの√も物語の締めくくり方が秀逸で、この後のこのキャラたちの物語は続いていくんだなと思わせる感じで余韻が凄かったように感じる。
・以下ルート毎の感想および備忘録(※ネタバレあり)
きらりnormal
きらりの死には正直かなり驚いた。クリックできずにフリーズした。その後の最終章で、主人公が無気力に目的もなくパンクロックをしている様は見ていて痛々しかったが、家族の温かさに触れることで自分のことについて振り返り、きらりの死から立ち直る(既に立ち直っていたことに気づいた)過程は良かった。そして、鹿之助が物語を締めくくる言葉として最後に放った言葉には思わずニヤッとしてしまった。ライターは主人公にこのセリフを言わせるためにこれまで「キラ☆キラ」の物語を書いてきたんじゃ無いかと思わせるほど熱い一言だった。
紗理奈
主人公と紗理奈の関係が過去に起こった紗理奈の両親のとの対比として描かれていた。個人的に樫原祖父との渓流釣りに行くシーンや紗理奈との駅での別れかたがノスタルジックで寂寥感漂う感じがとても良かった。
千絵姉
姉的存在で気の置けない仲の幼馴染みで、しっかりとした女性でありながら一度崩れると弱った一面も見せてくれるヒロイン像は自分の性癖に刺さりまくり、1番好きなヒロインだった。寝取られを匂わせて童貞をいじるこの手のヒロインにはお約束の展開もあり悶々とさせていただいた。いや、ほんとごちそうさまです。
きらりtrue
父が亡くなっておりハッピーエンドとは言い難いのかもしれないが、美少女ゲーム的エンディングとしては良かったんじゃないだろうか。
・考察にすらなりきれなかった何か(自分の中で上手くまとまったら追記するかも)
この作品の裏テーマの一つに「理解」というものがあったと思う。それは主に家族という形で問われており、きらりと父(母、主人公)、紗理奈と祖父、千絵姉と父(母)、主人公ときらり父、翠と母etc...のような構図になっていた。
千絵姉√できらりはこの「理解」に対して次のように語っている。「世界には、絶対的に何かが足りない」「その足りないことが作り上げた悲しみだとか苦しみが、別の辛いことの原因になっている」と言っており続いて、「世の中のいろんな、重要で深刻な問題ってね、こういう理解ではどうにもならない足りない苦しみが、細かく複雑に積み重なって出来ているんだよ」と発言していた。
それでは、「理解」ではどうにもならないことがあったとき、人と人は仲良くなれないのだろうか。きらり的解決法は「カレーパーティー」である。身分や立場関係なく、みんなが共通的に知っている楽しいものを共有するために、それぞれがそれの基となるものを持ち寄って作り上げ、楽しいや嬉しいといった感情を分かち合うことで仲良くなるというものである。
きらりtrueでは鹿之助ときらりの父親は、ついぞ「理解」し合うことは言うまでも無く、仲良くなることも出来ずに終わっている。そして、上述に言っていたことを包括的に表す言葉として、鹿之助が父親に対して行ったことを聞いた後のきらりのセリフ、「世の中って、むつかしいね。」になると思われる。
また、それぞれのルートでも最終的に「理解」し合うことはなかったように思う。
しかし、その代わりに、「理解」ではなく鹿之助が言っていた(千絵姉√)「行動第一主義」によってそれぞれの家庭で抱えている重たい問題を乗り越えようと希望を見いだしていたところで物語は終わっている。特に、上でも触れたきらりnormalでの鹿之助のセリフ、「この、くそったれな世界に、精一杯の愛を込めて」。これは鹿之助的解決法の「行動第一主義」を象徴的に表す言葉だと思われる。
整理すると、
きらり的解決法・・・「カレーパーティー」→「世の中って、むつかしいね。」
鹿之助的解決法・・・「行動第一主義」→「この、くそったれな世界に、精一杯の愛を込めて。」
このように、きらりtrueときらりnormalは対比的に描かれており、物語の中ではどちらも問題の根本的解決はなしえていない。
「カレーパーティー」では解決できなかったきらりは歌を歌った。
「行動第一主義」では解決できなかった鹿之助はそれを乗り越えてロックを歌った。