「哀しい」と思った。
妹の死をきっかけに、無気力になってしまった主人公とすれ違いを重ねて壊れてしまった家族関係が、「妹の帰還」によって少しずつ動き出す、という話。
量子力学や哲学的な議論の知識がないと理解するのが少し難しい。というか、あっても難しい。
しかし、ざっくりいうと「家族は揺るがない」というキャッチコピーに集約されるのだと思う。「家族」という血縁で結ばれた他人の集まった共同体を中心にして幸福を構想してゆく、そのことから目を背けていた(家族を観ていなかった)主人公は、だからこそ停滞していたのだし、家族を「観た」主人公はその後に幸福をつかみ取る結末を得るのだろう。
しかし、そのつかみ取った幸福な家族という「永遠」は単なる停滞と何が違うのだろう、とつい考えてしまう。むろん、この作品の論点はそこには無い、と自分でも思う。この作品は、唯心論的世界観と量子力学的世界観、そして「家族はあくまで他人である」という現実に共通する「こちら側の視点から向こう側を観測する」という行為を比喩的に重ね合わせ、断絶と融和をその比喩的世界観の下に描き出しているのである。だから、「真の幸福とは」はここでは議論にはなっていないのはわかる。断絶の融和と和解の先に抽象的に取り出された記号的な「幸福」が存在するだけなのだろう。
だが、同じく元長氏が手掛けた「ギャングスタアルカディア」においても、停滞は比較的肯定的に描かれていた。彼の作品はまだギャングスタ二作とこれしかプレイしていないので詳しいことなど何も言えないのだが、永遠≒停滞の中に作者の考える「幸福」の形をつい見出してしまうのは仕方ないことのように思われる。(感想なので好き勝手連想してもある程度許されるだろう、という甘えでもある。)
比較的進歩主義的な考えを持っている自分には、これが非常に哀しいことのように思われて仕方ないのである。
しかし、この作品はそれを込みにしてもとても自分に刺さった。一番好きなのはギズモ√である……が、プレイした方はわかるだろうが、最後の時間ジャンプは蛇足に思われる。ギャングスタリパブリカの時もだったが、氏の悪癖なのか、私の好みの問題なのかわからないが、あれはいくら何でも不要だろう。確かに作中で伏線らしき箇所は確認されたが。せめて二人が(再び?)出会ったシーンで終わらせるべきではなかったか。家族を「観て」「選んだ」主人公がこの先に幸福を手にする、あるいは少なくとも前に進むことは明確なのだから、わざわざ時間を大幅にジャンプしてまで結末を言い切ってしまわなくても、読者はわかるだろう。
しかし、こうして私に色々なことを考えさせてくれる作品は久しぶりだったので、非常に楽しい体験ができてとても満足だった。なんだかんだでこの作品に出会えてよかったと思う。