ロミオ成分摂取にはいい
面白かったか否かで言われれば確実に否であるにしても、そう易々両断するには、このゲームは深遠過ぎるようです。本作の深遠さはつまるところ、圧倒的な説明不足と不親切に原因がある気がします。要するに、意図的にわかりにくくした上での深遠さを感じさせます。だから、ぽかんとなるのは当たり前で、後はどれだけ食い下がるかさっさと降りるかすればいいわけです。自分は後者です。一応考察サイトをちらっと見ましたが、すぐに気が遠くなりました。もう面倒くさい!というのが、多分圧倒的にプレイし終えた人の感想のはずで、そこからさらなる探求をする人は大して多くないのではないでしょうか。したい人だけがすればいいのだと思います。
作品の根幹を占める設定は全然よくわかりませんでしたが、日常シーンはロミオっぽくて面白かったです。あるいは警句の数々もロミオらしくて面白く読めました。そういう見方をすれば、色々よくわからずとも楽しめる余地は残されているのかもしれません。
あずさ「メニューは作りながら決める。これが私イズム!」
章二「麻薬についての情報を集めるため、クラブ・ポピーに赴いたオレは、そこで時限爆弾の解体をすることになった」
考えてみれば、茶道という礼儀を重んじる場において、客に一つしか菓子を出さないということがあり得るだろうか?
食べれば食べるだけお菓子は出されるのではないかと忍は考えた。
しかしそれはわんこそばだ。
沙也加「私が確信できるのは、自分が一人で成立するということと……そんな人間が社会で暮らせば、いつか破綻してしまうということだけ」
章二「うなるな、猫科」
千鳥「大人数でやるなら、お皿とカップも人数分あるか確認を。予備も必要ですよ」
忍「紙コップじゃ」
千鳥は薄く笑う。
千鳥「謝罪を、英国に」
忍「……え?」
葉子「鉄砲は一度撃ったら装填に時間がかかるので、騎馬隊で突入するのがいいですよ」
章二「子供のころ、斎とあずさと四人でベイシュートの大会に出ただろう」
忍「ああ……懐かしい、すごく懐かしい」
章二「あの時、対戦相手の手にシュートを直撃させて棄権させた時、おまえは『これで一人目潰した』と呟いた」
忍「……考えることがありすぎてつらくとも、何もないよりはマシだ」
葉子「夢は見ません。楽しかった記憶が、私を助けるからです」
あずさ「顔面でかつおぶしが削れる人間から学べるかい」
美しいものが、ほんの気まぐれで破壊されてしまう。
全ての快いものは有限だった。
それが、忍には許せない。認めがたい事実だった。
忍「守るものがないと……あるいはそれは家族だったり倫理だったりして、そういうものがないと……心の強さを発揮する場所がないんだから」
忍「人間には、他人が必要なんだ。その善し悪しを別として」
忍「愛は、まるでそれが尊いものであるかのように、信仰されてる」
忍「……神聖な魂が、相手の内面に触れることで生まれる感情だと思われてる」
忍「誰もそれに逆らえない」
(中略)
忍「だからずるい」
全体的に、クロスチャンネルの趣旨に似通うところが多かった印象です。その趣旨の断片が散見されました。
『そうだったのか、と唇を噛む。
忘れていた。
とても簡単なことを、失念していた。
最後のひとりになるまで、輪でいることはできるのだ。
いようと思えば、できるのだ。
それはなんと、心強いことだろう』
という独白は、ほとんどクロスチャンネルの太一の言葉とみても差し支えない気がするものです。割愛しますが、あずさの母親の怨嗟の言葉だったり、森奥での沙也加との対話や終盤の邑西とレイの人間の意識に関する問答など、他にも見どころはたくさんありました。特に、その問答について、言動の全てが上位系統から下位系統への命令の伝達の結果だという仮定に立って考えたとき、人間の意識発生を司る脳組織が存在しないという事実を照らし合わせると、必然的に意識を発生させる上位系統は、人間の脳にはなくもっと目に見えない高次にあるに違いないという推論は、よくこんな突飛なことを考えるなという感じがして面白かったです(個人の見解なので、理解に齟齬があるかもしれません)。
性癖だと、兎小屋の沙也加との一幕、笛子の目に入った砂を嘗めとる忍、職務中に職務の話をしながら千鳥に股間を咥えさせる灰野。個人的な感じ方ですが、このあたりには物凄くロミオの性癖が発揮されているように思いました。特に兎小屋の一幕は必見だと思います。R18要素はないにしても、移殖作品等でもカットされなかったかは少し気になるところです。個人的に笛子が結構好きでした。
話の全体像は全く意味不明でしたが、個々を見れば楽しめるところはたくさんあり、そしてこのよくわからない設定を最後までよくわからないまま、説明したようなしてないようなやり方によって貫き通したその手腕は、やはりすごいと言うしかないという気がします。ここで一つ思い返せば、世界観の設定についての解説などを細かにやり始めると、素晴らしき日々のようになりかねないという危惧に突き当たります。そう考えると、これはこれで良いバランスだったと言えるのかもしれません。冗長な説明よりは、一方的にわけわからないことをぶちまけられる方がまだマシなのかもしれません。それが面白いと思えるかはまた別問題の話ですが、そんなことを考えました。