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gggrrrさんのハルカの国 ~大正決戦編~の長文感想

ユーザー
gggrrr
ゲーム
ハルカの国 ~大正決戦編~
ブランド
Studio・Hommage(スタジオ・おま~じゅ)
得点
98
参照数
494

一言コメント

正直、本当は点数を付けることが出来ません。何点とか、AとかBとかSとか、神作品とか、なんかそういうのじゃないんです、この作品、このシリーズ。なにかこう、胸にガツンとくる

**ネタバレ注意**
ゲームをクリアした人むけのレビューです。

長文感想

一言感想でも書きましたが、点数はあくまで便宜上。でも付けないのも失礼だし、付けるとしたら自分では100点しか思いつかないから、まあなんというかとりあえず100点ということで。と思いましたが、100点にするのは残りの2作が発表されるときにしようと思い直し、ー2して98点に変更しました。

とにかく心にくる、心に伝わる。どこがいいとか、このキャラがいいとか、あのシーンが良かったとか、そういうのももちろんあるんですけど、全部がこの話だから、切り分けて語ることが難しい。

それでもなんとか厳選して語ると、これまで、明治のあの頃は超然としていた、いやユキカゼにはそうとしか見えなかったハルカが、挑戦する話です。これまで散々失敗したと想い、悔いて、泣いて、叫んできたユキカゼではなく、今度はハルカがそれをする番。ハルカが泥臭い姿に塗れる話。でもハルカだけじゃない。お風も、八千代も、みんな泥臭く生きている。賢く、狡く、でも懸命に生きている。命にぶつかってる。圧倒される、淒い、生きている。生きているんです、この話は。

明治で散々狼谷の人々に泣かされ、五木に泣かされ、大正でもおトラに、クリに、亀爺さんや大将や弥彦に泣かされてきたが、私の涙腺もユキカゼ並に緩く、いつも滂沱と流されてしまう、ちくしょう、安い男だ。と思わせてくるほど凄まじい。

人は狡く、賢く、愚かで、懸命で、とにかくみんなが生きている話です。語彙力が完全にどっか行ってますが、とにかく多くの人に読んで欲しい、触れて欲しい。そんな話なんです。




追記

読了直後の興奮も収まったので、内容についての感想をつらつらと。

ハルカの国4作目。4作目にしてようやくハルカが主役の話になります。1作目・2作目では常に超然として、賢狼かくあるべしという顔を見せていたハルカ。「ハヤ」の遥か先を行き、五木の前に立ち物事を導いてきた大人物。彼女に恐れることなどなく、どんな時でも何とかしてくれる特別な存在、それがユキカゼにとって、また読者にとってのハルカでした。

しかし、よくよくこれまでの話を読み返してみると、そんな賢明な姿ばかりがハルカではなかったことも見えてきます。いつも正論でやり込められることへの悔し紛れに「ハヤ」が反論したように、ハルカにも結構隙はあり、かなり俗っぽい顔も覗かせていましたし、彼女なりに恐れるものがあるということも見えてきます。

ハルカが恐れていたものは、「未知」であったのだと思います。これはハルカに限ったことではなく、人、そして人と同じ感情も持つものならば誰もが恐れるものであり、ユキカゼも、五木も、おトラも、クリも、みなどんな姿になるかかわからない「未知」を恐れていました。だからハルカも、ほかとは違う「特別」ではなかったのです。彼女は確かに常とは異なる強さを持っていた、知性を持っていた。けれど、彼女が学んだ「心」までは、他とは異なるところはなかったのです。

彼女は、ユキカゼと別れたあとの半世紀、50年を振り返り、「何もなかった」と寂しげに語りました。あの明治の五木との別れの後、作中では明確に語られませんでしたが、ユキカゼとハルカは別れました。情報を繋いでいくと、2人は決闘をして、そしてユキカゼはハルカを追うことなく、別れたようです。ユキカゼの主観では「置いて行かれた」ということでしたが、ハルカにとっては「付いて来なかった」という印象だったのではないかと思います。

出会ってからずっと我武者羅に自分に向かってきた「ハヤ」。失敗してめげても、また立ち直って変わらず自分に付いて来るのが、彼女の中の「ハヤ」であったのでしょう。しかし、化物猪と対峙し、自身の敗北を認めたとき、「ハヤ」はそれまでの「ハヤ」であることは出来なくなりました。あの時より「ハヤ」は「ユキカゼ」へと変わっていったのです、ハルカが思っていたより早く。ハルカはそれに気づいていなかったのか、それとも気づいていたのに気づかぬふりをして、それでも現実に追いつかれたのか。そうした心のすれ違いの果てに2人は別れた。

別れた2人のそれぞれの半生は、ユキカゼの方は蝦夷へ、九州へ、さらには大陸へと渡るという中々の濃度の濃い人生の果に、かつての仇敵であったおトラと再会し、まるでずっとともにいた家族のように暮らし、そこにクリも加わって充実した時間を過ごすことが出来ていた。しかしどうやら、ハルカにはそうした出会いや波乱のある人生は待っていなかったようです。この半世紀で、かつての「ハルカとハヤ」にはあった差が、「ハルカとユキカゼ」に無くなっていました。

それどころか、再会直後は浮かれ上がったハルカは、まるでかつての「ハヤ」のような稚拙な行動を取っているようにすら見えました。でも、私はそれがとても微笑ましく見えました。

もう出会うことはないと思っていた、彼女の心の源泉。「狼谷の賢狼」ではなく、「ハルカ」という一人の心ある存在として立つことになった始まりの存在、ハヤことユキカゼ。ハルカはかつての妹分と再会することを心から願いながら、そして同時に恐れていました、奇しくもそれはユキカゼも同様で、再会することによって二人のかつての関係、思い出すら終わってしまうことの恐ろしさであり、相手にとっての自分の重さが、軽いものであったらどうしようという怖ろしさでした。だから嬉しかった。決意を抱いて再会に臨んだユキカゼと違い、不意打ちであったハルカは完全に舞い上がり、かつての聡明さはどこに行ったと言わんばかりの騒々しさ、ああ、本当に嬉しかったんだと伝わってきました。

そんなハルカが今回挑むのは、かつて東のハルカ、西のアカハギと言われていた両雄の一角、大蛇アカハギ。しかしシリーズを読んできた読者は、その「結果」はすでに知っています。ハルカが勝つことを知っているのです。さらには倒されたアカハギのその後すら分かっています。ならばこの話は分かりきった結末を語るだけの内容かといえば、決してそんなことはありません。ハルカが本当に挑むのは「御仁」という存在。かつて「ハヤ」が語った、どんな時でも悠然と構えて心になにも怖れることなどない大人物「御仁」。「ハヤ」の心の中に屹立していた存在であり、しかし現実のハルカとは離れた虚像。ハルカは、本当に自分は「御仁」のような振る舞いを貫くことができるのか、貫けないときは、「御仁」にはなれなかった其のままの自分を晒すことが出来るのか、それを出来るのか。つまりはやはり「心」の話であるということなのでしょう。

化物猪退治の際に出会った村人の一人が「親を捨てるなど子のすることではない」「そんなことあってはならない」としきりに言っていた時に、ハルカは「そう呪ってやるな」と語りました。それはは、「こうあるべき」という押し付けをするな、ということだったのでしょう。「偉いハルカ様」であり続けることを望まれたハルカ。悠然と佇む「御仁」であることを望まれたハルカ。それは彼女の力と賢さを称えるものであると同時に、彼女にとっての呪いだった。だから彼女が挑むのは呪いの大蛇アカハギではなく、それまで彼女が望まれた姿。それに素のままの、辛いことがあれば弱音を吐くし、誰かに助けを求める、自分もまたそんな存在であることをユキカゼに明かす、それこそが彼女の本当の戦いだったのだと思います。

明治のあの時、「御仁とハヤ」がいました。だが半世紀を経てそれは「ハルカとユキカゼ」という形に変わりました。2人は変わった、でも、変わらぬものもあります。互が大事で離れがたい存在であることは、今も昔も変わらないのでうから。

あの半世紀前の明治の頃、豪雨の山奥で何気なく語ったハルカの好物の話を、ユキカゼが覚えていて、それを大したことだと思ってなかったところが、たまらなく好きです。ユキカゼにとって、ハルカの好物を覚えていることは大層なことではなかったのです。2年一緒にいたとは言え50年も前の話、それを覚えていることが「なんでもない」ことであるほどに、ユキカゼにとってハルカは大事な人物だったのです。

他にも、八千代やお風や謎の商人の話などするとまた限りないし、愛宕の改革や猪の姉妹のことなども語れることは多いです。特にハルカが語った「国とは」という論は本当に考えさせられました。「国とは不自由な者たちの集まりであり、美しく誇らしいものでなくてはならない」という言葉を、自分と日本に置き換えると、果たしてハルカが語った「国」があるのか、それを思うと心がざわつきますね。しかし、そこまで掘り下げるといつまでも終わらないの、また次の機会にでも書きましょう。

この先ハルカが変えていく愛宕という土地がどのような変遷をたどるかは、「みすずの国」や「雪子の国」で語られます。ハルカの展望通りと言える最期を迎えましたが、その緩やかに終わりゆく愛宕の中で、ユキカゼとハルカは何を見出すのか、5作目が今から楽しみです。