老いた親とどう向き合うか。人間である限り避けては通れぬ命題
前作から時代が飛んで大正。震災前、大不景気が襲う前の大戦バブルでどこか浮かれた大正の中頃。そんな東京を生きる、生きていかねばならなお話。
主観はユキカゼ。もはや拙くひた走るハヤではなく、歩んだ年月分の落ち着きを身につけた「ユキカゼ」の視点で話は進む。
傍にいるのは、まさかと思わせてくれた人物。でも、思えばこの人の言葉から始まったとも言える、彼女がいなければもしかしてこの話は無かったのかもしれない、江戸っ子狐のおトラ姐さん。
もう一人は四国は阿波から来た狸の化け、クリ。かつてのハヤを思わせる拙く幼い心を持つ、ユキカゼとおトラの妹分。特におトラとクリの言い争いは、かつてのハルカとハヤを彷彿させる。正しいのはおトラ、物事が分かっているのもおトラ。でもクリには熱量がある、未来に挑む気概がある、若さがある。
ここでも3人。3人で暮らした東京の町。神田の狐と、阿波の狸と、風来坊の狐で、人間の世界で暮らした。
前作の主役が五木という男だったように、この話も主観こそユキカゼですが、主役はユキカゼではありません。明治から大正を生き、多くの土地に足を運び、多くの経験をし、いつしか剣の到達点とも言える形を見出したほどになっています。いつの間にか成長してしまったユキカゼ。私たち読者の知らぬ間に大人になってしまったユキカゼ。彼女はこの話を通しての成長というものは望めません。50年を生きた彼女は、その生きた年月に見合った人格をすでに有しています。一つのことで大きく成長できる若さは、もう彼女のものではなくなっています。彼女はもう、ハヤではない。
話を通してもっとも成長したのは、なんといってもクリでしょう。最初は泣き虫で臆病だった彼女が、話の最後では頼もしい女将さんのような風格すら漂わせるようになる。それはクリがもっとも理想とするおトラ姐さんの真似事であったとしても、もはやただの真似事ではないと思わせる成長を、彼女はしました。
ならば主役はクリかといえば、これがまた違います。私はこの話の主役、主題、中心にいるのはおトラ姐さんだと思っています。天保の時代に生まれた神田の狐。江戸徳川の御代を知っている生き字引。まだ世界が人間だけのものではなかった時代をよく知っている、人間だったらなしわくちゃの婆様と言える年月を生きた、生粋の江戸っ子。
野暮が嫌いなおトラ姐さん。だから真っ直ぐに自分の気持ちを伝えない。そんな彼女の性格が、ユキカゼとハルカを繋げたのだから面白い。まさか彼女がユキカゼと一緒にいるとは思いませんでした。「ハヤ」であった彼女では一緒にいられなかったが、「ユキカゼ」とはまるでずっと一緒に暮らしてきたような阿吽の呼吸で一緒にいる。感慨深いものです。
あの明治の頃ではこうはいかなかった。「やっとう狐」と「お気楽狐」でいられた時代は、もうずっと昔。「姐さん狐」と「生活狐」になった2人だから、こうして一緒に生きている。2人は変わった。年をとった分、丸くなった。
おトラにとっては嬉しかったのでしょう。かつての自分を知った存在がいてくれたのことを。「お気楽狐」だった頃の自分、気ままに生きて、仲間たちに姐さん姐さんと慕われていたかつての自分を、ユキカゼを通して思い出すことが出来た。そしてユキカゼと再会できたからこそ、かつての世話焼きの自分がやっていたことをまた出来るようになった。クリを拾い、世話を焼いて成長を促すことができた。本当に、彼女の嬉しさが伝わって涙がでました。
そして、姿は変わらずとも体の不自由を感じるようになったおトラ。随分生きた、生きたその果に、何が待っているのか。そこに恐怖がある。見えない未来に戸惑う心ばかりは、いくつになっても変わらない。
私は、おトラ姐さんにまつわる一連の流れは、「老いた親をどうするのか」という、人間に生まれた以上絶対に向き合わなければならない問題がテーマなのだと、強く感じました。
作中で化けの「ほどけ」と言われる現象は、なんのことはありません、老人の「呆け」そのものです。自分の記憶を失い、そのうち自分が誰だかも忘れてしまう。私の祖母がそうでした。病院にいるその人物は、もう孫である私が誰なのかが分からない、彼女の記憶の中の私は「小さな孫」のようで、大人になった私は「見知らぬ人」となっている。祖母にあるのは昔の記憶だけ。自分の子供である私の父の姿も分からなくなっていた。そして、自分が誰だかも忘れてしまった。あれは、あの病院にいたかつて祖母だった老いた女性は、果たして誰だったのだろうか。そう思ってしまうのです。
けれど、父にも姉にも弟にも、祖母との思い出がある。心は変わり果ててしまっても、姿形は祖母の名残がある。だから捨てられない、捨てたくない。でももう戻っては来ない。そうしたらいいのか分からない。結局私たち家族は、どうしたらいいかわからないまま祖母を病院に置き去りにしたまま、彼女の死という終を迎えました。なんと情けない結末でしょうか。おトラさんたちような最期を、迎えることは、私たち家族には出来ませんでした。
また、これは「明治越冬編」との対比になっているとも思えます。物と金が溢れる大正の東京、明治の頃より物質面では格段に豊かになった東京。でもだからこそ、命の終わらせ方が分からなくなってしまった。老いた親をどう終わらせるかを見失ってしまった。明治の狼谷のあの人々は、涙をこらえて親の死を見送った。親もまた、心を決めて自らの足で死に向かった。でも、大正の東京では、誰しも老いたおトラをどうすべきなのかを、決めることができないまま、流れに身を任せる他なかった。
今の時代は、狼谷のようなことはもう出来ないでしょう。若いうちから老いた親をどうするか、どう終わらせてやることができるのか、そんな考えをして生きている人は、そうはいないことです。でも、考えなければならない。人間として生まれたのだから、親がいる。そして親は老いる。かつて自分を守り育ててくれた大きな背中は小さくなり、自分が支えないと倒れてしまう存在になる。その時自分はどうすべきか、それを深く考えさせてくれる話でした。