英雄編60点、復讐編95点、魔王編前半90点、後半50点、総合すると75点。獅子吼やキャノン中佐補正で+10点
装甲悪鬼村正とは…… 英雄の物語ではない。しかし悪鬼の物語でもない。じゃあなんだよ、と言われれば答えは一つ。ファザコンこじらせたメンヘラたちの物語である。
該当者は3名。綾弥一条、湊斗光、二世村正の3名である。
とまあ、冗談めいて書いてますが割と本心です。私は、この3人のせいで物語に入れ込むことが出来なくなり、その反面、この3人以外が出てくるシーンはとても好きでした。
よって、私が一番好きなのは『復讐編』です。なんといってもこのルートは私が好きなタイプの人が活躍する話だから。
私の好きなキャラは、大鳥香奈枝、大鳥獅子吼、クライヴ・キャノン中佐、初代村正、親王殿下などです。
まずはともあれ、各編の感想などをつらつらと話そうかと。
『英雄編』
冒頭で言ったように、私は一条というキャラが好きではないです。彼女のいう「正義」は多分に「自己満足」でしかなく、初代村正のいう「独善」でしかないからです。しかし私は、本来そうした「独善」を貫くキャラは結構好きです。だけど一条が好きではない理由はひとえに、彼女が「狭量」だからでしょう。彼女の「正義」は父親に対するトラウマと、小娘一人の小さな世界でしか培われなかった価値観に基づいています。かつ、彼女が「強大な力」を手にして活躍するのには、ご都合主義感が酷かったというのも理由になります。
冒頭で、武者がしっかりと戦闘ができるようになるには、武芸の稽古と同様に、水泳の稽古もしなければならず、かつその2つを両立させる訓練もしなければならないとあります。さて、一条にそんな描写があったでしょうか? 彼女は叔母に武芸を習っていましたが、それは軍人に匹敵するようなものではなく、水泳の稽古などをしていた描写はありません。それが正宗と出会った途端、景明を倒し、六波羅歴戦の遊佐童心を倒す……
私はこの展開に醒めてしまい、「ひどいご都合だな」と物語に関心を失ってしまいました。
一条という少女が、正義を心にしながらも、自分の無力を自覚しながら、それでも一歩一歩その求める正義という理想へ向かい歩み、成長するキャラなら、私は彼女を好んだでしょうが、結局彼女の語る「正義」は、父親の死に関する後ろ向きな動機でしかなく、ただ自覚なく自分の怒りを発散させるために「殴ってもいいやつを殴ってる」だけにしか見えないからです。
彼女の行動が、同じ父親に拘る光と出会った結果、同族嫌悪でも起こしたのか、銀星号が周囲に厄災を撒き散らし、GHQも六波羅も混乱させ、「力ない人々」対して、害になる結果しか起こしてません。
「独善」によって暴走し、周囲に迷惑と厄災を撒き散らすのが、彼女の「正義」なのでしょうか。私の持論では、正義とは「結果に基づく評価」です。如何に裏で下劣な企みがあろうとも、結果として多くの人びとの安寧と平和に繋がるなら、それは「正義」でしょう。個人の感情による「独善」が、大多数の一般大衆の「利益と安寧」に繋がった「結果」こそを、私は「正義」であると思っています。
しかし、一条の「独善」の結果は、大和の地に戦乱と混乱を巻き起こしました。これは「正義」ではありません。
急に大きな力を手にして、暴走して周囲に迷惑をかける。これは本質的に、一章の敵である鈴川と同じなんですよね。しかし、鈴川の「独善」は数人の犠牲者を出すに終わったのに対し、一条の「独善」は銀星号の暴走を誘発し、鈴川の何万倍の被害を出している。
なので、私は『英雄編』は好きではありません。一条に「英雄」ということ言葉が相応しいとは思えないからです。
『魔王編』
『魔王編』は先に2つのルートを攻略しないと進めないルートなので、順番的には『復讐編』が先になるのでしょうが、私は好きなものは最後に取っておく派なので、先に魔王編の感想から。
一条と同様に、私は湊斗光というキャラが好きではありません。それは、彼女の理屈にまったく一貫性が無いからです。
足利護氏の覇道を「愛がない」と否定しながら、自分は一方的に精神汚染を広げていく。一方的に自分の言い分を通す、というところに何も違いはないのに。むしろ、反論の余地すら与えずに精神を壊す光のほうが数段タチが悪い。
正々堂々と武の頂点になると言いながら、姑息な手段で景明に母を殺させている。それも自分が殺したら善悪相殺で景明を殺すのは嫌、という理由で。
「奪われたから奪い返す」という理屈を言いながら、自分は景明を始めとする多くの人から途方もなく大きなものを奪っている。自分は奪われたと文句を言いながら、自分が奪うことになんの痛痒も感じていない。
世間の理屈は自分に通じないから、善悪相殺の法も関係ないとか言いながら、「神になれば父を自分のものにできる」という、「人間が作った虚構の神話」に基づく詭弁で、自己の行いを「正当化」しようとしている。いったい誰に対して「正当化」を証明するつもりなんだか。
つらつらと書きましたが、光というキャラクターは、なにやら大物ぶってますが言動が支離滅裂で、その場その場でそれっぽいこと言ってるだけの、電波キャラです。
光の行動原理を一言で表すと、思春期特有の少女の癇癪です。だから一貫した主張や理念などなく、その時の気分で言動がブレる。
私が好きな別の作品のキャラが、『心根のくだらんモンが、阿呆ほど力持った方が事態は洒落にならない』という名言を残していますが、光はまさにこれに該当します。
彼女が「父親」に拘泥する理由も分からない。いったい何が奪われたというのでしょうか? 彼女にとって「立場」というのは受けた愛情よりも重いものなのでしょうか? 景明は光をとても大事にし、愛してきました。その愛情を否定するほど、「立場」というものに拘る理由が、私には分かりません。
まあ、思春期の少女はとかく不安定というものであり、母から父を奪おうとする傾向があると言いますが、まあ見事に思春期をこじらせた真っ最中ということだったんでしょうね。
ですがこんなキャラが作中最強で、途方もない厄災を撒き散らしてるせいで、作品に茶番感がひどくなる。他のキャラは現実を見据えながら行動を選んでるのに、メンヘラ少女は一人だけ遊んでるのですから。
とはいえ、光がこうしたキャラクターで表現されている理由はきちんとあります。要は、作中の彼女は「湊斗光」という少女が見た「夢」であるからです。彼女が好き放題やるのは、それが夢の世界の話だから。だからどれだけ人を殺しても、迷惑をかけても気にしないし罪悪感も覚えない。だって夢の世界の話だから。
夢の世界なら最強になれるし、父親も自分のモノにできる。どこまでも現実感がないまま、「14歳で精神死した少女の夢」は暴れ狂う。
シリアスな人間世界の物語に、ジャンル違いな「御伽噺」が混在する。どうしようもない現実を生きる人びとの中に、「わたしがおもいえがくすてきなじぶん」を押し付けてくる。
光のメンタルは、「夢見がちな少女の妄想」そのものですが、本当にそうだった、というのは中々面白く、納得できるものでした。
しかし、少女の夢が起こしたことならば、彼女の影響は泡沫のごとく消えなばならない、と私は思いました。夢は所詮夢です。現実を侵していいものではありません。光の死とともに、「夢の世界の住人」が起こした影響は、消えないと帳尻が合わないというものです。
なので、彼女が巻き起こした影響が、世界に大きく傷跡を残す、という英雄編や魔王編の顛末が、私は嫌いです。
そして、私が作中で明確に「嫌い」なキャラが、二世村正です。本当に嫌いです。
一条や光には弁解の余地が多々あります。一条は未熟であっただけで、まだまだ成長の余地があり、自らの行いの結果を見た後でも、それを踏みしめ進む姿には成長を感じました。
光もまた、本来は鉱毒によって未来を絶たれた悲運の少女です。彼女は思春期をこじらせていましたが、それが誰の迷惑になるようなものでもなく、「現実の光」は自分のこじらせた思いを発露させることなく、なんとか折り合いをつけようとしていました。
ですが、そんな光を怪物に変えてしまったのが、この2世村正です。前者2人の「少女」と違い、この女は娘がいる成人した女性なのです。だからこそ、作中の誰よりもタチが悪い。
作中で三世村正にドヤ顔で説教してますが、このあたりも主従似通うんでしょうかね。正直、初代村正の理念をもっとも理解しておらず、歪めてるのはこの2世メンヘラだと思っています。
頭の回転は早いくせに、物事の本当の部分を理解していない。初代村正は言いました、「独善」こそ戦を広げるものだと。武とはただの暴力。故に武を抑えるものを作り上げると。
そして、善悪相殺の掟を伝播させることにより、上手くいけば争いは最小限の被害で終わり、悪く行けば凄惨な殺し合いの果てに、人は戦の悲惨さを目の当たりにし、戦を遠ざける。
この初代の思惑は成り、数十年の平和が訪れました。しかし、どうやら二世はその結果が大層不満であったらしく、「またすぐ戦争をする人間など滅んでしまえ」という、どこをどう巡ったらそんな戯けた思考になるのか、という結論になります。
初代は言いました。暴力である武に加担するなと。
初代は言いました。善悪は表裏一体。ものの見方に過ぎないのだと。
初代は言いました。人の世の乱を抑えるために、村正はあると。
そこからなにをがどう飛躍すれば「人間が絶滅すれば争いは無くなる」になるんでしょうか。本末転倒、というのはこの事かと。初代は、「人が平穏に生きるために、それを脅かす戦を無くす」ことを理想としたのに、「争いをなくすためには人間を滅ぼす」では、因果が逆転してしまってます。
理想=人々が平穏に暮らす 手段=争いをなくす。
が初代の考えだったのに、この馬鹿娘ときたら
理想=争いをなくす 手段=人間を絶滅させる
になってます。初代村正が致命的に間違えたこと、それは間違いなく「娘の教育」でしょうね。
本編での2人の関係を見るに、この2世は初代を全肯定し、「自分で考える」ことを放棄してます。「父だけを信じる」「父の言うことは正しい」「父の言うことに従う」、それだけです。
父の答えに対し自分の考えを言うことなく、考えることすら放棄して追従する。それは父の考えを「理解」したわけではなく、「共感」したわけでもない。ただ「盲信」していただけです。楽なものですね。ただ父親の言うことに従ってればいいだけの人生なんですから。
三世に対して「歴史を知らないのか」とドヤ顔で言ってましたが、徳川260年の天下泰平に対しては、何も思わなかったんでしょうかね。「世界史的」にみても類を見ないほど長く戦争がない時代だったんですがねぇ…
だから、父の人生の結果が実らなかったと勝手に勘違いして、世界に八つ当たりをしてるだけ、それに適した夢見る少女がいたから利用しただけ。
作中屈指のはた迷惑な女です。
本当に、善悪相殺の何を理解していたんでしょうか。初代は言いました、「独善」こそ悪なのだと。その通りです。だからこそ、初代が言った「争いをなくしたい」という理想は
争いを厭う者にとっては善であり
争いを望む者にとっては悪である
だからこそ人の世に争いが無くなることはない。でも、精一杯の努力で被害を抑えることは出来る。争いを短くすることができる。
初代の行いで、一度の被害は沢山出ましたが、その凄惨さを広めることで、終わりが見えない戦争を止めることに成功しました。
ならば、それで良しとしなければなりません。「争いを止める」という善行は「再び争いが起こる」という悪行で帳消しになるからです。でも、子や孫の世代には平和な世界を過ごさせることができる。そのあとのことは、そのあとの世界に生きる者の責務である…… こんな、本当に当たり前のことが、2世には理解できなかったんでしょうか。
父の苦悩を見ていたはずです、父の慟哭を聞いていたはずです、父の見出した答えに頷いたはずです。
その答えが…… 人間なんて滅んでしまえ?
はぁ… もうため息しか出ません。
まあしかし、こいつの形態が白アリの女王なのも頷けますね。蜘蛛は益虫にもなりますが、白アリの女王なんて、害虫オブ害虫ですから。
人間世界という「家」を崩そうとする害虫白アリ、それこそ2世村正です(断言)
一条、光、2世村正。私が好まない(一人は徹底的に嫌い)このキャラ達の共通点は、「父に依存してる」というところです。
一条の正義の原点、光の執着対象、2世の盲信対象。すべての共通事項が父親であり、父がまともな人であるほど、娘が酷いことになってる。この3人が出てくると、話が白けた展開になるのが、本当に苦痛でした。
皇路操も「父に盲信」するキャラでしたが、彼女の行動も周囲に不幸しか撒き散らしませんでしたね。
ちなみに、父親がろくでなしであった茶々丸はなんだかんで自分の頭で考えていたから、好きなキャラです。その行動は徹頭徹尾自己中心的なものでしたが、その理由も明快であり、その覚悟もあったキャラだったからでしょう。
なので、『魔王編』の中でも上記の3人が出てこないシーンは、本当に良かったです。GHQVS六波羅の戦争シーンは、とても楽しく見ていました。めまぐるしく変わる情勢、互の信条がぶつかり合う戦いは、印象深く残っています。
六波羅の将たちは、その本質は武人であり、戦いの場でこそ真価を発揮する人たち。遊佐童心も、大鳥獅子吼も、今川雷蝶も、水を得た魚のように生き生きとしていました。
獅子吼の名言とその突貫は痺れましたし、婆娑羅者を貫く遊佐童心も、真価を発揮した最強の武人雷蝶も、みな輝いていました。
GHQのキャノン中佐も、祖国アメリカの独立の理想のために、頭脳を駆使して立ちまわり、大和に新型爆弾を落とさせんと世界機構に訴えかける大鳥香奈枝も、みな理想や理念や責任とを抱きながらも、現実的な手段で解決せんとする姿は、人間として眩しい。
そこには、現実感がないまま夢心地で浮遊してる殺戮者も、父の理想を穢しながら終末思想に逃避した者もいない、「人間たちの戦い」がありました。
それが終わったあとの景明と光の顛末には、さして興味ありませんでしたが、「超巨大な金色に光輝くヒゲのオッサン」には大爆笑させていただきました。
『復讐編』
私がぶっちぎりで好きな話。この話には、「感情で突っ走る」「夢心地で暴れまわる」キャラが一切活躍せず、現実的な視点と頭脳で自分の求める未来と、それに付随して発生する事態の解決に向けて奔走する人間たちのドラマがあったからです。
正直、「リトルガール」で銀星号が吹っ飛んだ時は、思わずガッツポーズしました。そして、頼むからそのまま出てくるなと願いました。願いは叶えられました。やったぜ。
変な宗教家の出番もなく、ごくごく当たり前の「人間世界」の戦争・政治模様の群像劇。大好物です。
GHQ基地でのキャノン中佐との駆け引きも、原爆投下後の情勢変化への対処も、獅子吼の信念に基づいた徹底抗戦の構えも、嫌いなところが見当たらない。
『復讐編』の名のとおり、多くの復讐者がいる話。景明に対する復讐者、獅子吼もまた復讐者であったし、景明自身も復讐者になり得た。
大鳥香奈枝という女性も、好きなキャラクターです。彼女は先天的に倫理観が欠如していた人間ですが、それが社会通念的に「良くないこと」であると理解できる理性があったし、貴種の家系に対する責任感もあった。他者に対する愛情もきちんと持っていた。ただ、趣味趣向が「生き物を傷つける」ことであったというだけ。
我慢をすれば暴発する。それを理解した彼女は、「周囲から肯定される暴力」の行使を選ぶ。それは軍人としの行動であったり、復讐の代行であったりとしていたわけですが、彼女は自身の欲求を満たすと同時に、世間から非難されないよう時と場所を場合を選んで生きてきた。
「私益」と「公益」を合致させるよう頭を使い、同時に大鳥という家や大和という自国に対する責務を果たす考えももっている。
こうした理性的で、しっかりと自分で考えて行動する女性は、好きです。その反対である害虫は嫌いです(しつこい)
割と大鳥香奈枝に近いキャラに、遊佐童心がいるんですよね。彼も「やりたい」という自分の欲求と、周囲の状況を鑑みて、行動を起こす男でした。ただ自分の欲求をやるだけの人間が、激動の時代で立場ある場所で生き残り続けれるわけありませんでしたが、彼もまた「私益」と「公益」が両立する機会を読んで行動していたのでしょう。岡部の姫を辱めたのにも、岡部残党を炙り出すという結果につながってます(一条のせいで事態はより悪くなりましたが)
復讐という行為については、まあ彼女なりの結論ということで落ち着いていると思います。復讐者とは凶器である。用いるのは死者であり、復讐者自身の感情や都合を持ち込んではいけない。これもひとつの答えでしょう。私は異論を挟みません。
「復讐代行」の時は、自分の都合と両立させ、嗜虐趣味を満足させた香奈枝ですが、自分自身の「復讐」に対しては、一切の私的感情を排するという姿勢。私は好感を持ちます。
香奈枝曰く「愚か者同士」の終わり方は、救えないほどに生きることに正直な2人であったからこそ、綺麗であったのでしょう。
愚かで救いようのないほど、綺麗な最期。直向きに生き、直向きに死んだ2人の物語。
また、このルートでも大活躍の大鳥獅子吼ですが、彼の苛烈な信念と、先々代当主への揺るがぬ忠誠心。こういう芯が硬い男は格好良い。そして、そんな彼が「生き別れた弟」に似た景明を求める人間らしさを見せることも、かつそれでも猛き武人である己を崩すこともないことも、彼の魅力でしょう。
『悪鬼編』については、悪くはありませんが、蛇足感はあります。正直、私は雪車町というキャラにも魅力を感じていないのも原因でしょう。
彼が、景明を嫌う理由がピンと来ない。復讐編で香奈枝も言っていますが、彼は直向きに生きた人間です。ただ不器用なほどに直向きであった男です。それが「半端者」なんでしょうか。ヒャッハーっといいながら人を殺すのはOKで、人殺しを罪
と感じながら悩むのは半端なのでしょうか。むしろ誰よりも生にも死にも真摯であるからこその、彼の苦悩では無かったのでしょうか。
誰よりも半端にする事ができなかったのが、湊斗景明という男だと私は思っているので、そのへんのチンピラはOKで、景明は許せないという雪車町は何かしっくりこないキャラでした。
こいつの語る「一生懸命」の基準がイマイチ分からない。
これもひとつのご都合主義で、「景明を否定するためのキャラ」という記号ありきで生まれたように思えて仕方ありません。なので、こいつが出てくるシーンも白けてしまうことが多かったので、『悪鬼編』もイマイチのり込めませんでした。好きなキャラが軒並み退場済み、というのも大きかったかもしれません。
装甲悪鬼村正は、自分の価値観で良い点はとことん好きでしたが、悪い点はとことん嫌いという、両極端な作品となりました。多分『復讐編』はこの先やり返すことはあるでしょうが、他はもうやらないと思います。