三日ほど掛けた会心のレビューです。長文ですが見てやってください。総評としては、百点をやらざるをえない作品でしたが、三章以降で多少の息切れを起こしている感は否めなかったです。しかし、それを補ってなおあまりある魅力的SF設定の数々、法原理の設定、そして法月の魅力、『極刑』の伏線、さらにさちとまなでの大感動。ともかく、この年最大の作品であることに代わりはないですね。長文は、感想ではなくあくまで『考察』を長々と書いてみました。
世界は日本ではない、どこかのパラレルワールド。
作中、日本をはじめとする世界は『SF小説の世界』ということになっている。
ほぼ全ての価値観、文化、生活水準は『SF小説の世界』と変わるところがないが、ただ一つだけ、この世界には特異点がある。
『特別高等人の存在』
この世界の司法には、死刑と服役刑が存在しない。代わりに、受刑者の一人一人に特別高等人と呼ばれる刑務官が付く。罪に準じた『制限』を遵守し、更正を認められれば放免。
主人公はそんな特別高等人の候補生。3人の少女を更生させることが、特別高等人への最終試験なのである。
さて、ちまちました考察を少し。
『特別高等人』
近代法治国家の快挙、とまで言われた制度であるらしい。確かに罪に対する罰が『服役』と『死罪』のみである近代法制度は、ある意味では『乱暴な刑罰』と言えるかもしれない。特別高等人は、法に定められた『義務』を被更正人に負わせる存在である。熟練すれば1万人単位で被更正人を受け持つことが出来るらしい。この世界での法理論は絶対的応酬によるものではなく、あくまで更正に重きが置かれている。
なるほど、考え方としてはすばらしい。確かに、刑罰の概念は『応酬』よりも『更正』に重きを置かれるべきである。『~~年刑務所に入っていたから更正した』と『みなされる』こちら側の世界よりも、再犯率は低くなりそうである。
しかしこの制度、よく考えてみると、ものすごい数の特別高等人が必要である。
http://www.moj.go.jp/HOUSO/2005/hk1_1.html#1-1
比較的治安のよいと思われるこの国ですら、年に350万件近くの犯罪が行われている。
常識的に考えれば、一人が受け持てる更正人の数は、せいぜいが100人程度であろうか。法月は1万人規模で監督する立場であるそうだが、これは例外と考えるべきだろう。
日本の弁護士の数は2万人に満たない程度である。場合によっては毎日でも被更正人を観察しなければならない特別高等人の数は、その何倍も必要であろう。
それにしても、この世界の司法権は横暴である。数ヶ月に及ぶ監禁と、それに伴う自白の強要などは、この世界でもさすがに違法であったが、それにしても人権意識や法治国家意識の薄い司法なのであろう。また、特別高等人が被更正人の生殺与奪健まで握っているのはやり過ぎではないだろうか。冒頭で法月が南雲えりを射殺している事を考えると、特別高等人には殺人特権でもあるのではないかと勘ぐってしまう。最後に法月が全員を特赦で解放してしまうのもやりすぎである。彼らは法をなんだと思っているのだろう?
はっきりいって、この制度は特別高等人2万人弱がそれぞれ完全に優秀無欠な人間であり、司法が何一つ間違いを犯さないことを前提にしている。無能な弁護士と感じたらこっちの世界では弁護士を変えればよいだけのことであるが、この世界ではそうも行かない。
担当の特別高等人を、被更正人の意思で変えることが出来ないからである。
(予断ではあるが、『ひぐらしの鳴く頃に』における北条里子虐待に関しては、特別高等人が一人付けば解決する話である。逆を言えば、複雑な内面を抱える彼女の内面に立ち入って様子を見ることの出来ない人間が彼女を『客観的に判断する』ことこそが最大の間違いなのである)
対応する人物 森田憲一、法月 樋口三郎
七年前に起こった反政府革命の首謀者、樋口三郎の息子である樋口健は、結果的に仲間を裏切った後に法月に拾われ、名を森田と改められ、特別高等人になるためのプログラムを施される。教養、文化、体術、その全てにおいて優秀な能力を授けられ、スラム街に取り残されるプログラムの中で、森田は工場経営者で移民である男に拾われる。その後、あるベンチャービジネスの企業者となり、時の経営者となる。引退した後、『意志を試される訓練』に落第したために、『南の王国』の紛争地帯にとばされる。
極刑となった姉を救うという明確な目標の下に活動し、ゆがんだ社会への反抗を隠す男。境遇としては、清国、満州国のラストエンペラー、溥儀が近いだろうか。(そうか?)
『活動時間を制限される義務』
ギャンブルで身を持ち崩して自己破産に陥った人間に適応される刑罰。三時間から始まり、最高で十二時間、被更正人の活動時間を奪うことが出来る。今作では三ツ廣さちに該当する義務である。主に賭博や怠惰に対して適応される義務である。解消方法は『自発的に労働を重ね、時間の大切さを知る』こと。理屈としては、『働くことで本当に時間が足りなくなった時、人間は時間の大切さを知る』というところにあるらしい。
なるほど、非常に合理的な刑罰ではある。が、逆効果としか思えないケースが占める割合は決して無視できない。いわゆるニートを想像してみればいい。一日中家にこもってゲームかアニメか漫画か、というようなケースにおいては、時間的制約は逆効果だろう。彼らにとって時間は有り余るほど存在するのだから。
対応する人物 三ツ廣さち まな
三ツ廣さちは、七年前の革命において両親を殺害されたが、連座制を適用されなかった。彼女は幼少に絵画で賞をもらっているが、盗作疑惑を受け、筆を折った。以来、絵にふれることはなかったさちだが、移民の娘である『ムァヌー』を拾ったことで、それは変わっていく。まなはさちの拠り所が絵であることを見抜き、邪険にされながらもさちに絵を描いてもらうことを望んでいる。
彼女は為替により生活費を稼いでいる、いわばデイトレーダーである。彼女は学生でなければネオニートと呼ばれる人種であろう。この世界では額に汗して働く行為以外を『虚業』と見なしているのであろうか? そもそも、ギャンブルと投資は、その社会的意義が全く異なる。ギャンブルは胴元と子の間での金銭のやりとりのみを差すが、投資とは会社への資本金の投入の意味合いがある。すなわち、投資とは社会に金銭をリスク付きで『貸す』ことなのだ。これを理解しなければ、銀行や信託投資機関はすべからくギャンブラーということになろう。
さてそれはともかく、さちは画家として生計を立てなければ更正したとは認められないらしい。そのために法月はまなを南の王国に売り払う算段をする。エンディングをみるに、まなは王国政府の高官として立派に成長していることから、法月はまなの人権に最大限考慮した『人身売買』を行ったのであろう。ひょっとしたら、森田の盗聴器からまなが優秀であることを見抜いていたのかもしれない。(もちろん、まな自身の努力もあったはずであるが)。
本件は『怠惰』の本質を描いたストーリーである。『まだ時間がある』『いまやらなくてもいい』『次の機会で』『今日は具合が悪いから中止』というような事は誰にでも経験のある事であろう。その中で、極限状態に追い込まれたさちがとる行動と、森田の機転、さらにはまなの重大な決心。人の心を打たずにはいられないストーリーに脱帽。
『大人になれない義務』
保護者の言うことを聞かない子供に対し、親が絶対服従の命令を申しつけることが出来る。これは家長の力が強かった時代に、家の方針に従わない子供に対し親が強権を発動できるようになる、という考え方から生まれた義務。解消方法は『親が更正したと認める』か、『保護者が養育権を失う(死亡も含む。作中から判断)』。
この義務ほど法学の意義を見いだせない刑罰はないだろう。なぜならばこれは『親の、親による親のための権利』でしかないからだ。子がどれだけの更正努力をしようとも、法の定めるところの特別高等人ですらない親の一存でその刑罰が決まってしまうのだから、初歩的な法理論であるところの『罪刑法定主義』から著しく逸脱している。封建時代の名残と作中でもふれられている通り、これは親が子を縛り付けるためだけに存在している義務である。親に問題があれば、『研修』という非人道的プログラムに参加しなければならないのもむべなるかな。
対象者 大音京子、灯花 親子
大音京子は、とある旧家の令嬢である。それゆえに幼少時代は様々な決まり事を守らなければならなかった。そこで保護者は彼女に『大人になれない義務』を課す。様々な制約を受けつつも、大学にも進学した彼女は、そこで大人になることを許される。(これが『大学まで行ってくれればもう何もいうことはない』なのか『成人と共に解消される義務だからしかたない』なのかは不明だが、おそらく後者であろう)
しつけの不一致は、子供にとって虐待といっていい。厳格なクリスチャンの家に生まれた子供が、両親の離婚などによって急激にその足枷をはずされると、反動でとんでもなく反社会的行動をとったり、暴力ポルノに走ったあげくに猟奇殺人を犯したりといった例は例挙にいとまがない。性をはじめとする欲望をことごとく否定する宗教教育の是非はともかく、そういった環境が急激に変わることは、子供にとって虐待なのである。
京子は大学在学中に大きく変わった。具体的には複数の男との性交渉や、『悪い友達』と付き合って『悪いこと』をする毎日。これは間違いなく先のしつけの不一致の弊害である。まず、こういった子供に一人暮らしをさせることが大きな間違いであるし、それを一切監視しないのもまた、虐待なのであろう。やはり金や制度などを利用した教育、養育は確実に間違いなのだ。『褒美』あるいは『罰』をはじめとする足枷が無くなった瞬間に、彼らは変容する。その意味でもこの義務は最悪の刑罰と言っていい。
これは大音灯花においても同様である。風呂で溺れたり、柱に頭をぶつけたりする自傷行為(?)は、明らかに度を超したしつけの実態を表している。こちらの世界においても一切ゲーム機を許さない家庭は結構存在するが、漫画やラジオや菓子をここまで極端に制限する家はほぼ無いと言っていいだろう。『料理がしたい』という彼女の希望を根こそぎ奪おうとする京子の姿勢は、彼女が受けてきた精神的外傷の『くりかえし』であり、いわゆる『虐待の連鎖』の体現である。
ところで、大音灯花を迎えたいと言い出した『更正した両親』は法月の手による『家族サービス業者』であったという話であった。とすると一通目の手紙の正体はなんだったのだろう? 本当のクズである両親が出した手紙で、それに気づいた法月が二度と手出しできないように根回しをしたのか。それとも、法月による捏造なのか。後者であった場合、法月はなんとまどろっこしい事をするのか。仮に業者が引き取った場合の障害になるとは考えなかったのか。そして業者が灯花を仮に引き取った場合、本当にずっと彼女と生活を共にするのであろうか? 仮に彼女が成人するまでとしても、およそ3から5年の間である。灯花はさちと違い、それほどの社会貢献価値と財産があるようには思えないのだが。
『恋愛が出来ない義務』
罪刑としては、姦淫罪の亜種とでも言おうか。異性との接触を完全に封じられる義務。ただし、これは精神、思想に関わるものではなく、あくまでも単純な異性との『接触』のみを禁じられる刑罰である。解消方法は『特別高等人に更正したと認められること』。
作中の、特別高等人と司法機関の程度がいかにの低いものかを表す例である。更正とは、被更正人の精神面に起因する概念であり、それを他人が軽々しく認めたり、認めない、などと決められるわけではない。仮に法の定める基準やマニュアルが存在していたとしても、全ての人間の心の機微を捉えることは不可能である。更正という概念は、客観的にのみ見られるべきであり、主観を挟ませることは出来ないだろう。 そもそも、姦淫には、性格的なものと、精神病理的なものが存在する。前者の場合は、この世界で言うところの『更正』を望むべくもない。それは性格異常型犯罪者と同じレベルで考えられるべきであり、その『傷害』とどう向き合っていくかを考えるべきである。後者の場合も、立派な臨床心理学上の『病気』なのであるから、『管理下』に置かれることで解決するものではない。いずれの場合も、医師によるカウンセリングかしかるべき治療を受けるべきであり、刑法上決まっているとはいえ、一律に『刑罰』を下すべきではない。なお、作中で夏美が受けていた『性を利用した犯罪』に対する刑罰は、詐欺罪と同等に見られるべきである。なぜならばこれは殺人罪に相当する『子孫を残せない義務』よりも過酷な義務であるからだ。姦淫罪が殺人罪よりも刑罰が重いとはあまりにもあまりである。
対象者 日向美咲
美咲はさちと同じく、両親を革命で失った孤児である。ただし、樋口健を失ったショックは誰よりも大きかった。健がいつか帰ってくることを信じて、恋愛に関しては極めて無関心であり続けたのであろう。
地元の名士である佐久間家の一人息子に見初められ、高価な贈り物を貢いだのにも関わらず夏美が振り向かなかったのはそのためである。佐久間家の一人息子はそれを逆恨みし、『色目を使われて多額の金品をだまし取られた』と誣告。弁護士も付けられぬ監禁捜査の末に彼女が有罪とされたところから、佐久間家が手を回したのであろう事は容易に想像が付く。
その後の彼女は、常に上目遣いでびくびくと人を見ざるをえなくなる。これが無能で自意識過剰の特別高等人には『上目遣いで男をたぶらかす』と見えるらしく、夏美の義務は解消されない。ジョジョ五部のジョルノジョバーナと全く同じで、『原因が逆』なのである。
そもそも、刑罰も罪自体もめちゃくちゃであるが、仮に『更正』させたいならば、彼女を男のいない世界に閉じこめればいい。具体的には、全寮制の女子校にでもほおりこめばいい。まぁ、健の帰りを待つ彼女がかたくなにそれを拒み、それを高等人が勘違いしたというのが妥当なところか。
それにしても彼女は急激に性格が変わりすぎである。人間は、それまで培った人生経験と、処世術を融合して現在の性格を作り上げる。それはたった一つのエピソード、経験によるものではなく、より総合的にどう生きるのが一番負担が浅く、世間と渡り合って行けるかを加味したものである。彼女の人生観は樋口健たった一人に決められてしまったものではないだろうに。樋口健との再会が彼女の全てを文字通り変えてしまったのは、演出として正直、やり過ぎだったと思う。
『極刑(全ての人間から意図的に認識されない義務)』
実に、恐ろしい刑罰である。自由権と社会権と、生存権の一部を除くほぼ全ての権利を奪われる、まさに人権の剥奪刑である。ところで作中、被更正人はほぼ自由に街を巡回することが出来ていた。更正と認められようにも、更正したことを『認識』出来る人がいないのだから、事実上不可能である。法治国家としてはあるまじき連座制によってこの様な
刑罰を受けてしまうのだから、法意識は、江戸時代と変わらないと言えば変わらない。
刑罰の中に『拘束刑』がほぼ完全に存在しないことに由来するのであろうが、これが逆効果になるケースは、少なくはないはずである。特別高等人の管理下であっても、犯罪を犯す人間は少なくないと思われる。先述の『性格異常型犯罪者』である場合、自らの意志による『歯止め』が利かないからである。被更正人は、非常時にあっても『認識』されないのであるから、平時に起こった事件の容疑の対象にすらならないはずである。少なくとも万引きや置き引きの被害者は泣き寝入り以外の方法を持たないのだから。
対象者 樋口璃々子
弟とは母親が違う。弟とは八つほど離れているのだろうか。都会の大学で勉強を続けてきた彼女は、大音親子と会い、交流を持つ。そこで灯花をツンデレ性格にたたき上げたらしい。そして七年後、父親の革命による連座制によって極刑を言い渡される。彼女が初めて弟に会ったのは、最終試験の直前である事を考えると、まさに何一つ張り合いのない人生を七年間送ってきたことになる。彼女の学校でのスピーチには聞いている者の多くが心を打たれた。ゆがんだ社会への挑戦。反社会的行動の最たる革命。法月の恩赦が無ければ、彼女は収容所送りになっていたことだろう。
http://wiki.livedoor.jp/higuchi_ken/c/9/
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今回参考にしたサイトです。この場を借りて、お礼を言わせていただきます。僭越ですが、このレビューの引用、転載は、ここかサイトに書き込みをしてあれば一向に構いません。どんどん有効に使ってやってください。
さて、卯月セピアや樋口三郎、法月将臣、世界観、SF小説の考察など、出来る話はいろいろあるし、また筆者としても続けたいのですが、長くなったのでこの辺でおしまいにしようと思います。長々と読んでいただき、本当にありがとうございました。
最後になりますが、この作品のレベルは極めて高かったと思います。あまり主観的な『感想』が書けなかったのが心残りですが、点数を見て察していただけると筆者としてうれしいと思います。このレビューでは、あくまで法学、SF的要素の『考察』を行ったものであります。多少辛口の部分もあったと思いますが、作品自体の価値を減ずるものではなく、作品に対する愛の裏返しとして受け取っていただければ幸いです。(ついでに、別の名作品のレビュー要望なぞがあれば……てのはうぬぼれすぎですか?)
では、2007年1月に発売のファンディスクへの期待を込めて。
また次の機会に会いましょう。