リアルな死生観を突きつけられる、渾身の鬱ゲー。無料ですので、重い話が嫌いでない方に、是非お勧めします。↓は、ゲームの感想というよりも、このゲームをプレイして自分なりに考えたこと。自分語りなので、そういうのが嫌いな方は読まない方がいいです。
生とは何なのか? 神とは何なのか? 幸せとは何なのか?
作中では、7階の住人を指して「死刑囚」という表現がありましたが、
7階の住人だけではなく、私たち全ての生命は、生という牢獄に囚われ、必ず死を迎える死刑囚であります。
また同時に、世界のあらゆる事物、事象を知覚できる権利を得た、奇跡でもあります。
ですから、死とは刑期の終了を意味するのかもしれません。
あるいは、事象を知覚できる権利の、期限切れを指すのかもしれません。
たとえば、一生働かずに済み、ずっとゲームばかりやっている人生は幸せなのかどうか。
では、他人のために尽くし、他人の笑顔のみを求めて生きる生き方こそが幸せなのか。
孤独に生きる私たちを見守り、寂しい心を慰めて下さる神を、心の支えとする生き方。
あらゆる生を諦観し、生への執着を絶つことによって、失うことの恐怖を抑える生き方。
あるいは、享楽を貪り、限りある生を精一杯楽しむことにより、死を極度に恐れる生き方。そして、神の代わりに誰かを、心の拠り所とし、依存するメカニズム。それは友達、それは恋人、それは家族。そんな、拠り所を探し求める生き方を、今までの私はしてきましたし、おそらくこれからもこんな生き方をするのかもしれません。依存はしないように、心を鍛えないといけませんね。
集団自殺・心中の気持ちが、僕にはわかるような気がします。
死ぬ直前はどれほど苦しいものなのか。どれほど怖く、どれほど痛いものなのか。
そして、死んだ後はどうなってしまうのか。自分が消えても、世界は回る。
自分の主観世界という、一つの世界は崩壊するけれども、並列世界は変わらずに動く。
だから、人は何かを残そうと思う。
それは、子どもであったり、何か自分を表現した作品であったり。
自分が、確かにこの世にいたということを、忘れられないように。
後世の人が、自分について調べたり、自分の考えに共感してくれたり、自分を知ってくれるなら、それは少しばかりの希望になるから。
誰も見たことのない、天国。
そんなものは、きっとなくて。けれど、あってほしいと、強く願う。
そんな、天国という概念自体が、死への恐怖を表しているような気がします。
自殺。死への恐怖よりも、生の苦痛が上回ってしまった時の、最終手段。
自殺を決意するほどに追い詰められる状況というのは、幸い僕には経験がありません。
死にたいと思ったことは幾度もありますし、高いところからぼーっと
下を見て、ふらふらと飛び降りたくなったことはあります。
でも、それは「覚悟」の上での自殺ではなく、単なる願望に過ぎません。
自殺を決意するというのは、どれほどの生き地獄なのか。僕にはわかりません。
自殺は、自分を想ってくれる人への裏切り行為であり、そういう意味で罪深い行いだと、僕は思います。
ただし、それは生者の、残された者の論理であり、わがままでもあります。
自殺したいという人間を、ただ単純に止める権利は、僕には無いと考えるからです。自殺者の環境を改善し、生き地獄から救えるのなら。あるいは、自殺者が短絡的に死を選ぶなら、引っぱたいてでも止めるべきだとも思いますが。
ただ、例えばいじめを苦にして自殺した、なんて場合、別の学校に引っ越すだとか、そういう処置もあるわけですから、自殺を止め、そういう案を本人に教えてあげることは有効だと思います。金銭苦で自殺を決意した人に、生活保護の申請のしかたなどを、教えてあげることは、大切なことだと思います。
「生きていれば、良いことがある」。そんな、言葉だけの慰めは空しいだけです。
それでも、自分の大切な人が自殺をしようとしているのなら。生者のわがままでも何でも、死なせたくないと考えるのは自然な気持ちです。
上でごちゃごちゃ書いているのは、何てことはない私の自己満足・妄言なわけですが、
「ナルキッソス2」は、こういったことをつらつらと考えさせられる、
そんなソフトでありましたということで。
多分、人それぞれこのゲームをプレイして、思うことは違うのでしょう。
それは、ダイレクトにプレイヤーの死生観・人生観が反映されるのではないかと思います。
最後に、このようなゲームを無料で配布してくださった、ステージななの片岡とも氏を始めとする、すべてのスタッフに感謝します。