ご都合主義なんて、いわせない。
渚と汐が生き返って(時間をさかのぼって)萎えたわ~、なんて言わせない。
確かに、これ以上ないくらいのご都合主義であり、生命とはもっと重くみられるべきかもしれない。
しかし朋也には素直に「おめでとう」と言ってあげたい。そう感じた。
ルートが多すぎるのでルートごとの感想はしません。
<幻想世界について>
これが曲者ですよね、この作品。どうにも扱いに困る。まぁ参考になれば幸いです。
まずアニメから、幻想世界には数多の光があった。それは朋也がルートを終えると獲得する光に酷似している。おそらく、同一のものであると考えて差し支えないだろう。
その幻想世界での登場人物はある少女と、少女が作ったロボット。
少女はそこにひとりぼっちで、ロボットは友達的なポジションだった。
どことなく少女の風貌は渚に似ている。
まぁそこはいいだろう。
だがロボットは?ロボットは誰を示しているんだろう?
私は考えた。結構、考えた。
で。思いついた。「朋也じゃね?」
だがロボットにする必要があるのだろうか?ここが腑に落ちなかった。別に人間でもいいだろう。
なんかもやもやしたから2周をプレイしてみた。ちょうどその時にアニメもやってたし。なんとなくだけどロボットが朋也を示していることには確信があった。だからこそ理由に至りたかった。
そしてなんか見えてくるものがあった。
ロボットという文字通りの意味じゃなく、比喩的な意味。
無機質で無感動で額面通り。そういうニュアンス。
渚と知り合う前は朋也は、はっきりいって荒んでいた。
バスケができなくなった絶望。父親がだめになっていくことへの憤慨。
負の感情しか、朋也にはなかった。
(そういう面で見ると、春原いじりは朋也にとっては至上の愉悦であり、あの過剰なまでの笑いをとりいれた文章も納得がいく)
無機質でありながら、優しさへの渇望。もっと言うと、人の心に触れ合いたい。
んで、ルートを進めていくうちに光が集まる。
だが、光が集まるということは感情が豊かになるということで、それはもちろんロボットの終焉を意味する。
まぁ非常にざっくりだけどこう説明がつく。
クラナドから学んだこと
『人と人とは繋がっている。それはまるで、家族のように』
突然ですが、ご容赦を。
そろそろ主題に入らないと文字数がえらいことになってしまうので。
私が感じたのは上記のことでした。これには大きく個人差があると思います。
まず、作中では例外なくどのルートでも家族という問題が浮上している。
だが家族の絆を強調しすぎることは、同時に家族外との絆を蔑ろにすることになる。
当然、本作はそのような鬱々とした気分にさせる要素はない。
街が、家族だから。
こうなると話が肥大化し、なら街の外の人は?となるがそれもまた違う。
人はみんな、友達であり、家族なんだ。
たとえそれが不良であも、族に入っていても、全国クラスの才女でも、教師でも、双子でも、馬鹿でも、父親でも、パン屋でも、ヒトデ好きの変な少女でも、最強女でも、渚でも。
わかりあえる、わらいあえる、家族になれる。
結婚とか養子とかの卑俗な話じゃない。
家族って思えたなら、その瞬間から他人は他人じゃない。家族になってしまう。
それは奇跡かもしれないし、そうじゃないかもしれない。
いずれにせよ、人が思っている以上に、人は人に優しくなれる。そう思わせてくれた作品でした。
余談:今の日本の人たち全員にやってもらいたいです。
総評:S 音楽:A シナリオ:S キャラ:S 笑い:S