妹、血縁という檻
この作品が何を映し出すのか考えたいと思う。
きっとこのゲームに辿り着く人の多くがシスコンを自認している人たち、即ちお兄ちゃんたちだと思う。
ただこのゲームはそんな人たちにある一つの疑問を投げかける。俺たちが愛している〈妹〉とは、一体何なのか、と。俺たちが愛しているのは、本当に妹その人なのだろうか?〈妹〉という記号が好きなだけではないか?そして、その事実を自信をもって否定できるだろうか。
多くのお兄ちゃん、特に〈実妹〉に滅法こだわりがあるお兄ちゃんなら、誰もが知っているし、一度は考えたことがあるはずだ。〈実妹〉がたった一文字変わって〈義妹〉になっただけで、その萌えは変質してしまう非常に脆弱なものであることを。(それは畢竟、記号でしかないということも、誰もがわかっている。)
そしてこの作品はその事実を、最も残酷な形で呈出するのだ。実はxxがxxでしたという、ただそれだけの簡単な仕掛けで。ただ、そんなのは余りにも陳腐なトリックだ。今までも散々擦られてきたような話だし意外性もない。
しかし、この作品が一部のお兄ちゃんに衝撃を与えるのは、伊織の存在があるからだ。
高藤伊織は、始めから負け戦をしている。しかも試合は既にコールドゲームで終わっていて、既にチームは引き上げている状態なのだ。そんな中ただ1人、グラウンドを駆けずり回っているような人物、それが伊織である。
しかし、その負け戦こそが、プレイヤーを嵌めるための罠だったのだ。伊織は〈妹〉の存在について、身を挺して疑問を投げかける。私〈妹〉はあなた〈兄〉にとって、何なのか、という問いを。
そして、〈実妹〉萌え主義のお兄ちゃんは、唯に捧げた分の愛を全て憎悪という形で!伊織によってぶつけられることになる。
伊織は痛烈に批判する。お兄ちゃんは「血の繋がった唯一無二の家族──『妹』という、存在こそが好き」なだけの、「妹という確かな存在に、依存したかっただけ」の、矮小で盲信的な、都合のいい人間でしかないのだ。
我々は〈妹〉という記号の檻の中に閉じ込められている。その檻の中でひたすら増殖させ続けた愛を、伊織は全て憎悪に変えてしまう。なぜ、〈実〉という字が〈義〉になっただけで、心はこんなにも変わってしまうのか──。
伊織は抗う。絶対に覆らない苟且の血のルールに。私たちは狂うだろう。この物語は、そんな私たちを映し出す鏡なのだ。