21世紀のド頭に「相互理解」をあきらめて、そしてそれは今のところ当たっていると思う
「支配」にはじまり「支配」に終わる作品だった。霞√における全人的な「支配」をひとまずは肯定したのち、現在我々を「支配」している「システム」について考察し、相互理解について式子、悠歌√で提示したうえでつながるGENESISは、それまでの日常パートや流石に心配になるレベルでアホの子に設定されているキャラクターの言動はさておいて価値のあるものであった。なぜなら、それは新しい「人間観」を示すものであり『sense off』から続く人間賛歌の区切りであったからだ。
この評は霞→椎奈→式子→悠歌→GENESISの順に感想を述べていく。プレイ時の攻略順では椎奈と式子は逆なのだが、テーマの関連の観点からは式子と悠歌には近いものがあるから、とりあえず並べて書くことにする。
・霞√
素直に読んでも読まなくても純愛。GENESISを念頭に置かなければ、まっさらな自分を相手に明け渡す=支配されることが彼女の求める愛の形で主人公もそれを受け入れますよかったよかった、と終わる。霞の支配観は相互排他的なものであり、主人公は彼女以外を支配できず、他に誰も支配させることができない状態は彼女が主人公を支配しているとも言える。そんな1対1の関係は最終章GENESISにおいて否定されるためか、なんだかあっさりと話が終わった。霞自体が全部差し出すことを愛と考えているからか自発的にイチャイチャするようなアプローチが弱く(セックスはすぐ誘う)、エロゲとしてもなんだか薄味の√であった。
・椎奈√
キャラクターとしては一番好き。シナリオはわかりやすい。本作のヒロインたちが抱える問題は、それぞれまったく問題と思えない人が多数出てくるタイプの、他人には重大さが理解できず、しかし、重大そうに語る姿を見てなんとなく重大なんだなと思える問題で、その中で椎奈の問題は比較的重大さが伝わりやすいのかなと思う。
彼女は「家族」からの解放を求める。もっと言えばそれは「システム」である。以降の√やGENESISでも言及されるので整理しておくが、「システム」はいわば概念のようなものであり、単に概念であるにとどまらず人間の思考や行動の枠組みを制限してしまうものとして捉えられている。作品内では"自動的に動くんだけど、人間じゃなくて、人間の上に超越的に存在してて、そして人間を支配するもの"と述べられており、具体例として「法」が挙げられている。そこで、法は行動のみならず本来自由であるはずの思考をも制限する、と本作では主張されている。
例えばエロ漫画の違法な閲覧はどうだろうか。あなたがそういうサービスを利用するにしてもしないにしても、「著作権法があるから、エロ漫画の海賊版を読んではいけない」と考える人がいてもおかしくないし、もしかしたら道徳的に正しい主張だから善いと考えるかもしれない。「システム」とは私たちの思考に内面化された概念であり、本作ではそこからいかにして自由になろうとするかも主題となっている。
椎奈√に話を戻そう。彼女が解放され別の場所に行きたいと願う「システム」(この√では「檻」と呼ばれている)は「家族」である。家族がいかに選べない集団であるかについて、心当たりのある人は多いだろう。円満な家庭で育ったとしても、特に自分が所属したいと希望わけでもない(芥川龍之介『河童』のような世界観なら同意できないだろう)集団に17,8歳ぐらいまでほぼ強制的に所属し続けその間鞍替えもままならないことにはそれなりの異様さを感じてもらえるのでないだろうか。そんな家族の強制性、そしてただの箱であるにとどまらずその構成員の行動や思考を変容させてしまうところから、彼女は別の、自分で選びとった「檻」に入ろうとしたのだった。
誤解するべきでないのは、彼女は具体的な家族問題は持っておらず、少なくとも語られていない点だ。彩子の回想をみるに、椎奈は彩子父の隠し子と解釈する余地はあるが、それはどうでもよい。たとえどんな関係にあったとしても、彩子は椎奈に愛情を持って接し、椎奈も「悪魔」と呼ぶほど恐れてはいても、それはそんな軽口を本人の前で言えるほどに心を許している証左であり、具体的にどうなっているかはわからないが守里家は平和で幸福な家庭であることは間違いない。だから、椎奈は実家を出て主人公と駆け落ちがしたいわけでもなく、エロゲにありがちな家族問題と椎奈√は趣が異なる。椎奈は、ただ「檻」を抜けて自分の意志で選択できればそれでよく、彩子と縁を切りたいとは微塵も思っていない。家族の中でそれぞれが母と娘の関係性で接するその硬直的な関係を、自然な程度に緩めたいだけなのだ。
上記の問題は彩子がお腹を痛めて椎奈を生んだ実の親であれば成立させるのにひと手間だっただろう。なんだかんだ人間は実の子とか実の親という血縁関係を軽視できない気がする。その点、納得感が出る義理の家族関係を選択したのは賢いなと思わされた。あと、タニシとししおどし。
・式子√
本作を酷評する人がいたら、それはGENESISだけでなく式子√にも原因が求めるのではないか。思弁的で淫乱、傍目には淫乱を思弁で正当化しているようにも見える。しかし、彼女の問題意識は切実である。淫乱であることと思弁は彼女のコアで、彼女にとってはどうしようもない、そういうヒロインであることをひとまず飲み込んでシナリオにどうかが分かれ目だったのではないか。
式子√のキモはと言えば、恋人でない関係を求めることにある。主人公にドキドキして自分の気持ちが伝わったか不安になる。それも悪くない。けれどやっぱり、それは自分の本質からはズレている。だから恋人はやめよう。そんな話を展開していた。注意すべきは、恋人をやめるといってもそれは別れることとは全く違うことだろう。ある種の枠組みで規定された関係性ではなく、ありのままの「私と彼」で付き合いたいという願望はわかる。具体的にどういう感じのコミニュケーションをしたいのかはわからないけれど、名指しのできない関係の特殊性への憧れはわかる。そこまでしかわからない√だと感じた。
全体として、思弁的なことをしゃべりだすときの語彙力が一番高いがゆえに、シナリオライターの操り人形であることがこれでもかと出ているヒロインとシナリオであった。ただ、好意的に見れば、他者から理解されがたいアポリアを抱えていて、それを理解したうえで、それでも言葉を尽くして説明しようとする不器用さは、ある意味思春期っぽくて、式子が特異なヒロインであるように感じさせる要素を持っているのかもしれない。
・悠歌√
GENESISに直接発展する√だったこともあり、コミニュケーション論を展開し始めたときは「ついに!」と期待が高まった。
他者理解において、相手が自分と異なっていなければ特別な「好き」にはならないとする悠歌の感覚が展開される。この異なるとは、相手が自分の延長線上にない存在であること、つまり自分が自分の感性を基にして気持ちや考えを理解できない他者であることだろう。そんな相手でなければ、自分と他人が近すぎて別々でいる意味がない、自分と近すぎる誰かは新鮮味がなくて特別にはならない。特に彼女は巫女としての直感によって、我々よりも相手のことが「判って」しまうらしいからなおのこと上記のように思うらしい。
そんな悠歌に、主人公は「目を閉じる」ことを提案する。相手に伝わっているかどうかとかわからないようにして、自分の内に向けて会話して、それが運良く伝わることを祈ればいい、と言っている。何それ?と思うかもしれないが、実際我々の会話はある種の運ゲーなのでそこまでおかしくはない。我々はダニエル・デネットが提示したような志向的態度を相手に見て、相手は何か考えや欲求によって言動を決めているんだろうなと推測している。あくまで推測なので正解は知らない。しかし、現実それで我々の会話は成立しているし、これからもこの会話の形がしばらく維持されることが予想される。悠歌√は、相手を理解することの不可能さやもし理解できるのだとしてもその情報をシャットアウトして会話するほうがよいよと主張しているのだろう。
とは言うものの、これは悠歌が直感的に他者の気持ちがなんとなく判るから問題になりうるのであって、おそらくほとんどの人はエスパーのように気持ちがわかることはなく、悠歌のような苦しみを抱えることはできない。その点において、自分も、そんなに判らなさの中にいたいなら犬とかアリとしゃべってればいいのになとやや突き放したくなるような感覚を覚えた。全体として、主張としては飲めるし実際あなたの書いてることは正しいと思うけれど、でも超能力者みたいなヒロインをダシに使われると当事者意識が持てない、と思った。
・GENESIS
お互いに知らない人がいっぱいいて……でも何とか情報を交換し合って、お互いに共通の像を作り上げていく……
その動きそのものが、人間っていうものを作ってたと思うの……今までは
でも今は……もっと静かなものになってきてる
わたしたちはもう情報を交換しなくなって、ただ独り言を言うだけになってる
視線や言葉を内側に向けるだけになって……話す相手が外側じゃなくて内側になって……『知らない人』が存在しなくなってる
——————飛鳥井慧子
本作といえば、の部分。式子が「リレーション・コントロール」と言い出し、繋がりたいときだけ繋がる人間関係の構築を主張した部分については、現代的とも言える。本来固定的と思われていそうなものが「いや実は可変だ」とその流動性を主張する部分は浅田彰が『構造と力』でも同じことを言っているし、浅田と似たようなことを主張した元長が一時期はゼロ年代批評シーンと関わり東浩紀あたりと対談をしていたのも納得できる。
上記の案を(霞が強く拒絶したので)ひとまず保留としつつ、椎奈や悠歌がそれぞれの個別√で展開した主張が霞にぶつけられる流れは、これまでの総括として納得のいくものであった。本作の主張の核であろう「自分が解釈した他者と交流する」あり方は悠歌√でも主張されていたので完全に真新しいものではないが、それでも読む人によっては新鮮だっただろう。そしてその関係を複数人の男女が構築していく中で主人公が決定的な役割を果たし、なぜそれができるかと言えば主人公が「システム」から自由だからだ、となっていく流れにはやや驚きがあった。「システム」の代わりに人を「支配」することができる主人公がいるからなんとかなる、という筋書きにはダイナミックさを感じるところがあり、コミニュケーション論の実践として、そこまでは納得できないがコミニュケーション論の方は納得した。実践については、「法」や「家族」から完全に人間はありうるのか?あり得るとしてどんな感じなのかは想像もできないのではないか。あくまでも作劇上の都合として主人公は自由なんです、と呑み込むしかない部分と感じた。
・まとめ
√ごとに概略と感想を述べつつ、GENESISにおいて主張された人間観の新しさについても書いた。一方で、21世紀も4分の1を過ぎこの作品もそろそろ25周年のこの頃から見ると元長の示した新たな人間観も取り立てて新しい在り方には思えないような気もする。キャラ愛の形は「萌え」から「推し」へと移り、オタクはキャラクターの肯定できる部分のみを見る傾向がより強まった(オタクは最初から都合のいい解釈しかしないのかもしれないが)。一般社会においてもポストトゥルースを求め自分が気持ち良くなれる情報だけを真実と信じる人も目立つようになった。そんな中では、他者理解も、相手のすべてを知り所有する在り方よりも、自分から見える相手を、そして自分の内面に取り込んだ相手のみを理解する在り方にリアリティを感じる人が増えていてもおかしくないのではないか。そんな人が、本作を今はじめてプレイしても「え?だから何?」と、あまりにも自明すぎて批判も称賛もなく読み終えてもおかしくはない。恋愛にロマンがなくドライであるとは思われるかもしれないが、しかしGENEISで示された他者認識や人間関係の在り方が当然と考える人はいるはずだ。しかし、もし何らの新規性も感じないのであるならばむしろその感覚を今よりもふた昔前に提示していた「預言書」としての価値が認められる余地はあるだろう。まあ、そもそも筆者は、最初から元長のような他者理解の方が正しかったような気がしてならないのだが。