「瑠璃は変更以前の作品を象徴する存在であったが故、仕様の消滅と共に存在意義を失ってしまいました」あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"……ユルサナイ……ゼッタイニユルサナイ……
※お断り※
本稿は『Garden』の中身について一切触れていません。トノイケダイスケは遂にわれわれに完成した『Garden』を提示できませんでした。ならば「レビューを提示しない」というのがレビュアーとして倫理的に正しい返礼だと思いますし、提示されていない作品について感想を述べることは論理的にも不可能です。現にマルセル氏もそういう態度を取りました( http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/user_game.php?user=%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB&game=8758#title )。以降はひたすらに自己語りです。
自己語りに意味あるのかよブログでやれ、と批判される方もおられるかもしれませんが、私は意味があると信じています。作品の中央値や平均点だけ見て一喜一憂してる人はさておくとして(そういう利用の仕方がいけないと言っているわけではありません。費用対効果で言えばむしろエロスケを最も効率よく利用できる方法だと思います)、レビューを読み比べて作品の本質を探ろうとしている方にとっては「どんなヤツがそのレビューを書いたか」というのは非常に重要なんですね。
分かりやすい例で言えば、76421氏が絶賛している作品というのはレビューを読まなくても「ああ、見た目小学校低学年~中学年くらいの明るい女の子とイチャイチャエッチできる作品なんだな」と分かりますし、imota氏が絶賛している作品というのは概ね「情欲とナルシシズムの果てみたいなのを描いた作品」だなと察しが付きます。マルセル氏はほぼ「女の子とのイチャラブにどれだけ没入できたか」で作品を評価していますし、OYOYO氏はほぼプロットと演出の完成度で(他の要素も多少加味している感じですが)作品に点数を付けているように見えます。
そういうことを知っておくと、例えば「俺はロリコンじゃないから76421氏の絶賛を少し割り引いて読む必要があるな」とか「マルセル氏が別の理由を付けてイチャm……批判してるけど、実はイチャラブが足りなかったからこんなにオカンムリなんだな」などとレビューを深く立体的に読むことができ、エロスケのヘビーユーザーにとって有用でしょう。
ですんで、ここでは私がどういうレビュアーかということを書いていきたいと思います。もちろんそんなことを知りたい方はそう多くはないでしょうから(全くいないかも)、この文章はトップページに表示させませんし(すなわち私のユーザーページからか『Garden』のなり損ねのページからしかこの文章に飛ぶことはできません)、上で「自己語りです」と予め断りも入れておきました。
まずは私の採点基準について。もちろんこれは私が自己申告するよりも他者の客観的な判断の方がより的を射るであろう事柄でありますけれども、私自身の認識としては「身につまされるような作品」「登場人物の感情の動き・機微をより丁寧に描いている作品」により高い点数を付けるよう心がけています。
例えば、率直に申し上げて私はTYPE-MOON、Liar Soft、light、NitroPlusといったメーカーの作品を、メーカーではなく作品を、大して評価していません。これらのメーカーは萌えゲー全盛期のエロゲ業界にあってニッチなところで戦い、一定の地位を築き上げている点で共通しています。そしてその点については私も素晴らしいことだと思っています。しかし、これらのメーカーはいわば特殊状況を描くことに慣れすぎ(lightさんは昔は萌えゲー出してたんですけれども)、キャラクターの内面については殆ど顧みない、ドギツイ言い方をすればキャラクターを物語やシチュエーションを描くためのお人形さんとして扱っている印象があります。これは私がエロゲに求めているものとは全く異なるものです。
「そうは言いつつお前Fateに80点を付けてるじゃねーか」と批判される方もおられるかもしれません。お答えすると、私がFateに高得点を付けた理由は概ね「設定とプロットの完成度がエロゲの中では飛び抜けて高い(あれだけ長い物語なのにちゃんとシーン1つ1つに構成上の意味がある)」「演出(特に現在喋ってないキャラのリアクションが見えるという当時としては斬新なやり方)が上手い」「士郎の在り方について共感はできないが理解はできなくもない」といったところです。そして、人間の内面をまともに描かない作品でFateほどの高評価を付ける作品は今後おそらくないでしょう。仮にあったとしてもあまり嬉しい話ではありません。「キャラクターの内面描写以外はこんなに素晴らしいなんて!」と嬉しく思うよりも「キャラクターの内面を描いてくれればなぁ……」と口惜しく思うキモチの方が強くなるに違いないからです。
(2015/4/18 ここから、自分の好きな作品について語っていたのですが、『Garden』のレビュー欄でこれらの感想を書くべきではないと考え直し、削除致しました。この部分に関して予想外に多くの方に読んで頂き、コメントまで多数頂けたことは望外の幸せでした。ありがとうございます)
さて、このように『さくらむすび』を理解するのであれば、なんだ『ONE』とか最近だと『はつゆきさくら』辺りとやってること同じだなぁという印象を抱かれるかもしれません。もう子供と大人の対立描く作品は飽きたべ。夜の校舎で窓ガラスを割るのは尾崎豊世代で終わってくれよ。そう思われる方も少なくない気がしますが、オタクって人種は本来子供時代に卒業しておくべき遊びから卒業できない人って見方も出来ないではないわけで、そういう罪悪感を抱いてる人たちにとってこの問題はクリティカルなんでしょうな。ただ、『水月』では「世界ってのは人の認識なんだよ」っていう結構抽象的な話をやっていたのが『さくらむすび』では我々の身につまされるようなかなり具体的なところまで話を持ってきたので、その点は評価しても良いでしょう? ね?
『水月』『さくらむすび』と来て更に時間を先に進めると『ワンコとリリー』がありますが、これは『さくらむすび』の紅葉シナリオだけを取り出したような内容と一言で説明できちゃうので特に長々と語ることはありません。更に先に進めると……おっと、しないつもりだった『Garden』の話になってしまうではないか。
正直私はGardenの残骸を読んでも元々トノイケの頭の中にあった『Garden』が何であったか想像できませんでしたが(ていうかあんまり面白いと思えなかった)、そりゃ『さくらむすび』から「大人社会との葛藤」を取り除いたらなんか得体が知れないだけの萌えストーリーにしかならんでしょうなと思っちゃうわけです。トノイケからすれば何も語ったことにならんでしょう。『Garden』はまさにそういう作品になっちゃったわけで、
>瑠璃は変更以前の作品を象徴する存在であったが故、
>仕様の消滅と共に存在意義を失ってしまいました。
>瑠璃の場合、存在レベルで他のキャラやシナリオに依存している面が多く、
>単体で完結できる要素をほとんど持っていなかった事も悪い方に作用しました。
>他のキャラのように個別のストーリーで完結させるという対応が出来なかったのです。
>絵里香シナリオを修正し、それに合わせ瑠璃の構成をするとしたのもそのためです。
>結局それも上手くはいかず、このような結果となってしまいましたが…。
>結局のところ、瑠璃シナリオと呼べるものを追加するということであれば、
>全シナリオ書き直すしかない、というのが最終的な結論となります。
>しかしそれは、作業量やかかる時間だけ考えても、業務として行うには非現実的です。
>そのため、無理を承知でこれまで別の手段を考え、模索し続けてきたわけですが、
>考えては放棄し、書いては消し、納得出来ずにひっくり返し、
>という不毛な行為を繰り返しているうちに、これほどの時間を浪費してしまいました。
( http://www.cuffs.co.jp/04_Garden/support/support_5.htm )
この点について、いわゆる企業倫理や社会的責任といった面からCascade氏( http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/memo.php?game=8758&uid=Cascade )やs0meok氏( http://erogamescape.dyndns.org/~ap2/ero/toukei_kaiseki/user_game.php?user=s0meok&game=8758#title )のように糾弾するのも一つの「正論」ではあると思うし、マルセル氏のように「もう旧ガーデンぶっ壊して新ガーデンの一部を明らかにしちゃったんだからさ。旧ガーデンのことは忘れて新ガーデン作っちゃえば良かったんだよ!」と言うのも悪くはないが、まぁマルセル氏はきっと紅葉が大好きな「オトナの論理に取り込まれちゃった人」であろうから、桜が大好きな私は永遠に完成しないことが決まった「旧ガーデン」と瑠璃の幻想を追い求めるとしましょうか!
マルセル氏が今回の月刊マルセル(ユーザーページに載せているド長文)最終パラグラフで述べられている
>というのは、つまり、もしもトノに敬意を払うのであれば、チンケな作家論はドブに棄てて「旧ガーデンの瑠璃の亡霊」が「新ガーデンの瑠璃シナリオ」を発表するのを引き留めた言うべきではないでしょうか。こんかいの一連の流れを見る限り、なにかライターやメーカーが作品を管理していたというよりも、なにか別のチカラが働いているような不気味さを感じるのは僕だけでしょうか。ここには、みなさんが「職人魂」みたいなテキトーな言葉を使って褒め讃えたい真摯な作家はどこにもおらず、ただただ、自分の理想とするヒロインシナリオの所為で悪戯に時間をすり減らしユーザーを裏切り続ける、ひとりの哀れな聖痴愚がいるだけではありませんか。トノはもはや作品を作っているのにではなく、その作品の一部である瑠璃というキャラクターに取り憑かれてしまっている。もしそうだとすると、創作者の怨念どころか、創作物そのものに怨念が乗り移って作者を滅ぼすような凄まじさすら感じます。それに結局、旧であれ新であれ、瑠璃はいまだにガーデンに残り続けているわけだ。それは物語世界だけではなく、トノやユーザーやメーカーにとっても「瑠璃ルートはまだ出来上がっていない」という亡霊は共有されており、たぶん今回の発表の後も「パッチだせよゴルぁ」という表面的な話をさらに超え「瑠璃はいったいどーなったんだ?」という永遠に凍結された庭の謎は語り継がれてしまうのでしょう。なんだか事態はある種の燃え物語のプロローグに戻ったにすぎず、つまり数千年前の伝説のインポテンツ賢者たちの御陰で庭は永遠に凍結されたけれども、しかしその凍結された庭の最深部にいる世界を滅ぼす真の萌えヒロイン瑠理ちゃんはまだ死んでおらず、その赤い瞳と無邪気な笑顔から今日もエロゲオタの妄想を吸い続け永遠に生き存えている……彼女が次に目を覚ますのはいったいいつの日のことでしょうか?
という理解はまさにその通りだと思うんですが、じっさい『さくらむすび』も「正解」をあれほどあからさまに提示しながら俺様を除いた全てのレビュアーを「正解」からかけ離れた明後日の方向に向かわせた点で大した「魔力」を持っていると思うのですよ。
そういう「魔力」を持った作品を私は見たかったのです! もちろん完成型で! それが見られるなら、例え今後10年待とうと20年待とうと一向に構わないつもりでした。しかし社会的圧力によって遂に瑠璃は地の底に封じ込められてしまいました。
今となってはこの凄まじい名曲も瑠璃へのレクイエムに聞こえるってモンです。 → http://www.nicovideo.jp/watch/sm5835255
嗚呼! なんて悲しいことでしょう!
(2013/01/28追記)
ごらんの通り完全に自己語りなのに多数の方にツイートされてて戦々恐々としてますが、その中で一つ興味を引かれるツイートを見かけました。
https://twitter.com/eastmarl/status/295482167348322304
「動機を重視するのは近代以降の物語で、近代以前の物語は動機など気にしない」という見解が文学界にあるらしいので、おそらくそーゆー意味なんでしょう。しかしこれは有効な批判ではないと思います。
例えば日本のブラック労働の問題について、「近代以前ではもっと悲惨な労働現場があったんだ!」と喚いたところで意味をなさないのと同じです。
こーゆー論法を使ってしまうと何でも言えてしまいますね。「お前サバンナでも同じことを言えんの?」とか。